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学校近くの停留所で他の降車する人の流れに乗って、バスを降り、そこからは徒歩で学校に向かう。とは言っても、数分とかからない距離だ。周囲には同じ制服を着た姿が多く見られ、私もそれに紛れて歩き出す。
学校に着き、いつものように靴を履き替える。しかし、今日はいつもに増して頭が重いせいか、実感もないまま気がついたら上履きに履き替えていたという現象が起きていた。相当疲れているのかなと、首を捻りながら、自分の教室に向かった。重く感じる足取りで教室のある四階まで上がる。
開いていた扉から教室に入り、自分の席に座るとそのまま机に突っ伏してしまった。このままギリギリまで眠っていたいそんな気分だった。
いつもなら同じクラスの友人の一人でも、おはようと声を掛けてくるようなものだが、今日は誰にも声を掛けられなかった。一番仲のいい吉川沙苗でさえ、今日は自分の席に座って、英語の文法や構文などがまとめられた問題集と単語帳を交互に食い入るように見ていた。その姿を見て、一時間目の英語の授業で小テストが予告されていたのを思い出した。教室内を見回すと、沙苗と同じように机にかじりついて、一つでも多く頭の中に詰め込もうと躍起になっているのがほとんどのなか、一部諦めて悪あがきを辞めて雑談をしていたり、余裕から別のことをしているクラスメイトもいた。私も普段なら机に噛り付いている側なのだが、朝からずっと感じる原因不明の体のだるさと、もうすぐ朝のホームルームが始まる時間だと思うと、何もできずにいた。
予鈴が鳴り、クラスメイトたちは自分の席に着いて、わずかな時間を利用して、テストのために追い込みをかける。そのとき遅刻ギリギリで一人の男子が入ってくる。彼は余裕のある側の代表格の戎谷有悟だ。なにしろ彼は一年のころからずっと学年トップの座に悠々と座り続けているのだから――。戎谷君は誰とも挨拶も言葉も交わすこともなく自分の席に静かに座る。
今度はホームルームを開始する本鈴が鳴る。
しかし、いつもは遅くともチャイムと同時に教室に来ている担任の広谷先生が珍しく来なかった。病気などで休みということもあるがその場合は副担任の仲島先生が代理で来るはずだが、そういうわけでもなかった。その異変で教室内がにわかにさざめきだつ。その中を遅れて、広谷先生が険しさの奥に疲れを隠せない表情で教室に入ってくる。広谷先生が入ってきたのとは別の扉から仲島先生も入ってきた。式典も何もない朝のホームルームで担任、副担任が揃うのは滅多にないことでそれだけで教室内には不穏な空気と緊張に包まれる。
広谷先生は教壇に立つと、生徒の顔をゆっくりと見渡し、私の席でしばらく視線を止める。そして、一つ息を吐いてから出席簿の上に重ねていた一枚のプリントに目を落とす。
普段ならば、教壇に立って出欠を確認し、連絡事項を伝える。途中、横槍を入れてくるお調子者の生徒を逆に笑いものにしたりと硬軟織り交ぜることができる気さくなタイプなのだが、そんな広谷先生が教壇でただ黙っているのだ。その普段の姿からはあまりにもかけ離れた姿と雰囲気に誰も口を開くことができず、ただただ重たい空気に押しつぶされそうになる。
そんななか廊下に別のクラスから大きなざわめきが聞こえてくる。それも普段ではありえないことで、何か異常な出来事が起こっているのだけは伝わるがそれがなんなのか分からない。
「とりあえず、欠席は……村中だけだな」
広谷先生は小声でぼそりと自分自身に確認するように言う。そして、顔を真っ直ぐ前に向ける。
「みんな、おはよう。今日はみんなに伝えなければならんことがある。重要なことだから聞き漏らすなんてことはするなよ」
広谷先生は出席簿の上のプリントに再度目を落とす。
「昨日、ウチのクラスの安居――安居朱香さんが亡くなりました」
教室内に驚きの波が広がる。私は、広谷先生が何を言っているのか分からなかった。
「先生、くだらない冗談やめてくださいよ!」
「こんなこと普通、冗談でも言うわけないだろ……ちょっと黙って聞いてろ」
広谷先生がきつい口調で注意する。その真剣な顔に教室は静まり返る。
「そして、ここからが重要なことなのですが、安居さんの遺体が見つかったのがここ桐ヶ丘学園の校内で、また事件性があるということで警察も捜査を始めています。そのため中央階段の四階から上は立ち入りが制限されるので、極力立ち寄らないようにすること。それから――」
そこからさらに説明は続いた。一階の小会議室に警察が詰める事になること、クラスが同じだということで何か聞かれることがあるだろうこと、その際には協力すること、何か心当たりがあれば警察か話しやすい教師に話すことなど淡々と伝えていく。それは努めて感情を抑えて事務的に話していた。
しかし、私は途中から話が耳に入ってこなかった。
「安居朱香さんが亡くなりました」
ここだけが頭の中でリピートされる。安居朱香――それは私の名前だなのだから――。
「私はここにいますっ!! ちゃんと生きていますっ!!」
広谷先生の説明が続く中、ふいに私は立ち上がって叫んだ。しかし、誰も私の声なんか聞こえてないかのように俯き加減で先生の話に耳を傾けている。
「そんな……そんな嘘でしょ……」
私は今日ちゃんと登校して、今こうやって座っている。机には今日持ってきた鞄が掛かっている。視線の先に入ったのは鞄だけでなく、体操服を入れているショップ袋も掛かっていた。
「なんで……?」
私は体操服を体育の授業がある日に持ってきてその日のうちに洗濯のために持って帰るので、教室に置きっぱなしにはしない。それなのに掛かっているということは体育の授業ために持ってきたということになる。そして、体育の授業は今日はない。体育の授業は昨日で――つまりは、昨日からずっとここに掛かりっぱなしなのだろう。それは鞄も、ということになる。
状況が掴めない。掴めないというより混乱していると言ったほうが正確だろう。
私は頭を抱えて今日のことから記憶を辿る。そういえば、朝から不自然なことだらけだった。制服のまま目が覚めたこと、左手首にある身に覚えのない痣、履き替えた覚えのない靴。
そのまま私が死んだという昨日のことを思い出そうとする。しかし、よく思い出せない。それだけでなく、無理に思い出そうとすると電気が走ったように頭に痛みが走り、大事なところだけ靄がかかったように全く思い出せない。
昨日一日の記憶が私から抜け落ちていた。
それでも私にとっては大事なことがあった気がする。もちろん死んでいるのだからそれどころではないのだけれど――。
私は今分かっていることを整理する。
私は昨日死んでいて、幽霊になって登校して、誰にも気づかれない存在としてここにいる。
幽霊と言っても、足はあるし、体も透けているわけではない。ただよくあるフィクションの幽霊のように宙に飛べるわけでもないし、物を通り抜ける訳でもない。ただ人や物に触れるわけでもない。
例えば、机を持ち上げようとしても机に触れた感触がなく持ち上げようと力をこめると机と床が一体になっているかのように動く気配すらない。人も同じで前の席の人の背中を触ろうとすると薄い膜のようなものがあるかのように触ることができないのだ。全部が全部そんな感じだ。
教室の後方で落ち着きなく歩いている仲島先生の進路に邪魔するように立ってみたら、今度はただすり抜けていくだけだった。
自分からは触れられない、相手からはすり抜ける。
「変なとこだけ幽霊っぽいじゃん、私……」
私はもう生きてはいないのだということをひどく実感させられ、死というものを受けいれることができないまま、教室の隅で膝を抱えていた。
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