海色

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ブルーのダッフルコート。全然、趣味じゃない。趣味じゃないのだけれど。 このコートを眺めながら夜を過ごす、4度目の冬が来た。 「東京に行く」 なんでもないことのように、彼は言った。 「…ふぅん」 だから、なんでもないことのように返した。5年前の冬。島ではおしゃれで通っていた松川の、キャメルのダッフルコートの背中は、いつもまっすぐに伸びていた。後ろ姿も隙のない幼馴染の姿は、キラキラと眩しかった。 「流行の最先端!」 くるりと振り返った彼は、瞳を輝かせて声を張り上げた。 「トレンドは人の中から生み出される!人混みに飛び込まないとダメなんだよ」 ファッション誌を眺めるのが趣味だった。ずっと、小さい頃から。 松村が嬉しそうに雑誌を持ってくるたび、岸はおとぎの国を覗き込むような気持ちでその本を眺め、興奮気味のその声に耳を傾けるのだ。耳障りのいい声。お日様のような優しい光。 「…俺は漁師やる」 松村の言葉にそう応じたのは、恨めしい気持ちがあったからだ。卑屈になった。 底抜けの明るさに恋していた。けど今は、その明るさがにくい。眩しい太陽を必死で見上げる地上の生き物は、太陽からは影にしか見えない。松村の目に、俺は映り込む隙もない。 「…海斗はすごいな」 海斗と、幼馴染の彼は岸を名前で呼ぶ。酷く優しい声で、そう呼ぶ。 すごい、は想定外だった。 「ちゃんと、決めたんだ」 おれは、まだ何も決められてない。 呟いた松村は、なぜだか少し、悲しげだった。 迷ったのだ。進学と、働くことと。子供の頃から祖父の船に乗っていた。父は婿で、漁はしない。祖父の体は年々きかなくなっている。大学も行ってみたかった。でも、祖父の船を継ぎたい気持ちもあった。 「…どうするか、決めたいから、東京に行くんだ」 追いつきたいんだ、と、言った。置いていくくせに、と、そう思った。 翌年の春、松村は東京に行ってしまった。 そして、その冬。真っ青なダッフルコートが岸の元に届いた。 『帰るから、迎えに来て』 今朝突然、そんな連絡が入った。メールのやり取りは、ほんの時たましていた。4年ぶりの帰省。その連絡は素っ気なくて、急だった。 早朝に船を出し、戻ってすぐにシャワーを浴びた。いい加減にしていたヒゲを丁寧に剃って、紺のパンツに白のシャツ。そして始めて、真っ青なダッフルコートに袖を通す。ずしりと重く、暖かい。 「…あったかい…」 想像以上の暖かさに、少し驚く。 鏡に映る自分を見返して、自問する。彼の前に立っても恥ずかしくない姿になっているだろうか。よく分からない。そもそも、こんなコートは似合わないのだ。硬くなった指、黒く焼けた肌。その体にまとう、爽やかな青。帰ってきたら、問いたださなければならない。何を思って、このコートを送ったのか。 船着場は島に一つしかない。 「…やっぱ、似合う、青」 キャメルのチェスターコート。黒のハイネックTシャツ、パンツも黒。 背が伸びて、少し痩せた。声は変わらない。 「嘘だ」 「似合うよ。おれが似合うと思ったんだから」 似合わないわけないでしょ? 目尻が柔らかく下がる笑い方も、変わらない。 「…嘘だ」 「嘘じゃないってば」 笑いを含んだ声が、耳に届く。そっと、壊れ物をつかむような優しさで両の手首を掴まれる。世界が揺らぐ。薄い水の膜の向こう。 「海みたいな青だから。海斗の色でしょ?」 身をかがめて、吐息が触れる距離で。囁かれた言葉は、岸の瞼に溶けた。瞬きの瞬間、溢れた涙が一筋こぼれた。 「…なにしてんの…」 「そんな顔するのが悪い」 そうっと背中に手が回り、身体をぎゅっと抱きしめられる。松村の、心臓の音が聞こえる。 「…やっと、追いついた」 海色のコートに潮風が吹き付ける。 「……おかえり」 「ただいま」
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