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第一章 恋、探偵事務所始めるってよ
一
「あなた、食事の後でお話がありますの」
日曜日の夕食の前に妻からこう言われた夫の祐一は不安になった。だいたいにおいて、うちの妻がこうした上品な言葉遣いをする時は要注意なのだ。
これから物語が始まるが、その前に主人公について紹介しておこう。
この物語の主人公は万里小路恋(までのこうじ・れん)。今年で26歳。母親は拙著『愛ちゃんはタローの嫁になる』に登場する月雪愛。父親は同じ拙著に登場する月雪太郎(養子に入ったので)で、現在は超大企業の社長。そんな超セレブの二人の間に産まれたのが恋。上に二人の兄がいるが恋は唯一の女の子ということで、思いっ切り甘やかされて育った。そのせいで、世間知らずのわがまま放題し放題。すべて『自分』が常識と思っている。
なにせ、幼稚園から大学までお迎えは黒塗りの高級車だったし、買い物と言えばデパートしか行ったことがない。友達にお部屋はいくつあるのと訊かれ、『あんまりはっきり覚えていない』と答えている。
顔は母親の家系を代々引き継いでいて超が3つ付くくらいの美人。目鼻立ちのはっきりした派手な顔立ちでとにかく人目をひく。性格は母親のきつさと祖母の天然さを併せ持つという無敵(?)ぶり。もちろん、スタイルも抜群。
恋が祐一を結婚相手として選んだ理由はイケメンで優しかったからだ。母親に紹介したところ、母は万里小路(までのこうじ)という苗字をいたく気に入っていた。『月雪』という実家の苗字の親戚に万里小路が加わることでエレガントさが増すなどと。顔はイケメンだけど、私の趣味じゃないと切り捨てられたけれど(本当はママもイケメンが好きだけど、自分の夫が『普通』なので認めたくないからに違いないと恋は思っている)。
祐一は東大卒だったけど、結婚当時はまだ大企業の一サラリーマンだった。結婚後に月雪家の経営するグループ企業で修業して、今では中堅企業の社長を務めている。もちろん、これは恋の父である月雪太郎の力に寄るものであり、祐一は妻の言うことに所詮反対などできない身分なのだ。3年前に結婚した時、母親の所有する南青山に立つ高級マンション一棟丸ごとを新居として与えられた。今現在はそのうちツーフロアーに住んでいて、他の階は賃貸に回している。
恋はこれまでにも美容関係の会社や化粧品の会社を立ち上げたりした他、エステの会社や芸能事務所を買収しているが、自分が飽きるとさっさと人に任せてしまう。この一年ほどは新しいことをやっていなかったため、結構、暇を持て余している。何せ住み込みのお手伝いさんが二人いて何もかもやってくれるので、恋のすることなどほとんどないに等しいのだ。恐らく恋は家のスプーンがどこにあるのかさえ知らない。
しかし、一体『なんの話だろうか』
祐一に心当たりがないと言えば嘘になる。銀座のクラブ麻里の麻里子との軽い浮気。妻に内緒で趣味である高いゴルフ道具を買った。出張と偽って香港に遊びに行ったなどなど。
しかし、妻というか女という生き物は、その場で言わずに、なぜ『後で話がある』というあの台詞を使うのだろう。そんな台詞を言われた夫は、頭の中でいろんなことを巡らせ、身が縮む思いをするのだ。世の夫という生き物のほとんどが『やましいこと』の一つや二つ抱えているものだから。そして、実際に『後で』の時間が来るまでの間、不安にさいなまれるのだ
祐一もその一人で、せっかくの夕食もまるで食べた気がしなかった。祐一は妻の恋(れん)よりも10歳も年上だから、そんな素振りを見せないようにしてはいたが。夕食後、書斎に入り気持ちを落ち着かせようとしたが落ち着けない。椅子に座ることもできずに、うろうろと部屋の中を歩きまわっていたところ、ドアがノックの音と同時に開かれた。
「あなた、何うろうろしてるのよ。熊みたいに」
「熊みたいって」
「だって、最近あなた太っちゃってるし」
「そんなことより、部屋に入る際にはこっちの返事を訊いてからにしてよ」
「だから、ちゃんとノックしたじゃない」
「でも…」
「でも?」
明らかに妻の機嫌が悪くなりかけている。
「まあいいや」
「まあいいやは、こっちの台詞よ。とにかく話があるんだから、そこに座ってちょうだい」
しょうがないので、言われた通り大人しく椅子に座る。
「あのねえ、私、探偵事務所を開こうと思うの」
「探偵事務所ーー?」
祐一は心底驚いた。どう考えても、妻と探偵事務所という言葉が結びつかない。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「そりゃあ驚くよ」
そう言いながら、内心は浮気の件でなくて良かったと安堵もしていた。
「あなたって、つまらない人ね。勉強ばかりしてきた人って、ほんとつまらない」
「なんでそうなるのか、わからないけど…。でも、なんで探偵事務所なの?」
「だって、あなたが浮気した時に便利じゃない」
祐一の胸は悪い意味でぎゅっとなった。
「な、なんなんだよ、その動機」
「何、その慌てぶり。まさか本当に浮気してるんじゃないでしょうね。もし、あなたが浮気したらどうなるか、わかっているわよね」
そのドスの効いた声を聞いて、祐一は震えあがった。
「へんな疑いは止してくれよ。僕は清廉潔白の身の上なんだから」
「36にもなって、精錬潔白っていうのもおかしいけどね。そんなことより、探偵事務所やるつもりだからよろしくね」
「僕はやめたほうがいいと思うけどな。君に似合わないような気もするし、君が危険な目に会っても困るし…」
「大丈夫。もし危険な仕事をやる場合は、私に探偵をつけるから」
「何じゃそれ」
「冗談に決まってるじゃないの。ああ~つまらない」
妻の『つまんない』は口癖なので気にしてはいけないのだが…。でも、こんなことでつまらないと言われてしまうのは理不尽だ。もちろん、言葉には出さないけれど。
「だいいち、お母様のお許しを得たの?」
祐一は反撃に出た。
「それは、まだなのよね」
「お母様、反対するんじゃない?」
「その時はパパとおじいちゃんを口説いてなんとかするつもり」
パパとおじいちゃんは恋のことが大好きなので、とにかく甘い。
「ええー、そこまでしてやりたいわけ」
「そう。もうやるって決めちゃったから。とにかくママに話してみるわ」
「そうだね」
翌日、さっそくママに話をしたら、いつも即決のママが珍しくパパと相談してから返事するとのことだった。さすがのママも探偵事務所の判断はつきにくかったようだ。結局、条件付きでOKとなった。
その条件とは、二人のお目付け役を傍に置くことだった。一つは、パパが選んだ元警視庁捜査一課長の鬼瓦という人を副所長にすること。もう一つは、実家で長い間執事として働いている永浜光太郎さんを秘書に迎えるというものだった。監視役が二人もいるのは鬱陶しいと思ったが、ママにだけは逆らえないので受け入れることにした。
開業に当たって、この二人に会う必要があった。まずは、実家の執事の永浜さんと会うことにする。永浜さんは恋が子供の頃から知っているので、やり易いようなやりにくいような相手だ。自宅で待っていると、永浜さんがやってきた。久しぶりに会った永浜さんは、恋の顔を見て目を細めた。
「あんなに小さかったお嬢様が、こんなに大きくなって…」
「こんなに大きくなってって、私もう26だから」
「はあ。もうそんなになりますか。お嬢様のことで、今でも忘れられないのは、3歳の時にデズヌーランドで迷子になって号泣されていたことなんですよ。あの時のお嬢様のお気持ちを考えると…」
勝手に昔話をし出して、しかも涙ぐんでいる。
「もおうー、そういうの止めてよね。それに、デズヌーランドじゃなくて、ディズニーランドだし」
「すみません。年を取ると涙もろくなってしまって」
「ということより、私は発音のことを言ってるんだけどね。それに、泣くことはないし」
なんか面倒くさくなりそうでうんざりする恋。
「そんな冷たいことをおっしゃらないでください。お母様から、これからはお嬢様の会社の秘書として、お嬢様にお仕えするようにと指示されましたので、よろしくお願いいたします」
「そんなこと言って。どうせ見張り役として私をチェックするように言われたんでしょう」
「まあ、そうですけど。何せお嬢様はお嬢様なので、私が世間の荒波にもまれないようにお手伝いを致しますのでご安心ください」
言葉は柔らかいけれど、チェックする気まんまんな様子が伺える。
「はい、はい、わかりました。じゃあ、よろしくね」
握手をして別れた。
次に会うのは、元警視庁捜査一課長の鬼瓦という人。最初パパに名前を聞いた時、冗談かと思ったけど本名らしい。『鬼瓦』って、どういうことよと思いながら、待ち合わせのホテルフロント横の喫茶室の入口に立ったところで、一目でわかった。そこだけ、こんもり盛り上がっているのだ。明らかな違和感の正体は、そこに座る黒の背広を着たガタイのいい男。その男が恋の方をぎょろりと見た。一瞬ぎょっとしたが、近づいて声をかける。
「鬼瓦さんですよね」
男はすくっと立ち上がり答えた。
「そうです」
思わず見上げる。恐らく190㎝近くあるのではないか。恋は上から見下げられて、不愉快になる。
「私、万里小路恋と言います。この度はよろしくお願いします」
座って改めて男の顔を見ると、四角くて鬼のようで。まさしく鬼瓦。これほど顔と名字が一致している人に今まで会ったことがない。顔のクセが強い。
「しかし、稀に見る美人ですね。こう見えて、私、美人に弱いんです」
鬼瓦は態度にこそ出さないが、この瞬間に恋の魅力に落ちてしまっていた。
「そういうあなたこそ、稀に見る怖い顔ですよ」
「自覚してます。でも、今まではこれが武器でしたけどね。いやあ、やっぱりあなたは美しい。この世のものとは思えない神秘の海のように魅力的です」
顔に似合わずロマンティストか。
「今までで二番目にいい褒め言葉かも」
「一番は誰で、どんな表現でしたか?」
「それは、ひ・み・つ」
「ありゃあ」
「あのお、つかぬことを伺いますけど、鬼瓦って本名ですか?」
パパからそう聞いていたけれど、一応、念のため確認しておく。
「そうですけど、それが何か」
「いえ別に。ただ、すごいお似合いだなあと思って」
軽くディスってみたのだが、これまでもさんざん言われてきたのだろう。顔色ひとつ変えない。
「苗字は変えようがないので、苗字に顔を合わせるように努力しました」
これももうネタのようになっているのかもしれない。こう見えて案外ユーモアのセンスがあるのかも。
「へえー、なかなかいいセンスしてますわね。ところで、お名前のほうは?」
「拓也です。木村拓哉の拓也です」
「鬼瓦拓也? まるで漫画みたい。てっきり、権蔵とか言うのかと思ったら」
「人生は漫画のようなものです」
顔もクセが強いけど、性格もクセが強い。
「マアー。いきなりの謎の発言。でも、面白いですね、鬼瓦さん」
「警視庁の捜査一課の人間なんて変わり者ばかりです。でも、紹介者によれば、万里小路さんも相当の変わり者だって聞いてますけど。そもそも名前が変わってるし」
「えっ、私が変わり者? 自分ではごく普通の人間だと思ってるんですのよ」
「変わり者はみんなそう言います」
「あらあ、見つかっちゃった?」
「はい」
「同じムジナの穴ってことかしら」
「それを言うなら、同じ穴のムジナです」
「さすが博識」
「いえ、これは常識です。で、万里小路さんはなんでまた探偵事務所なんか始めようと思ったのですか?」
「私の眠っている才能を開花させるため」
「普通、眠っていたら自分では気づかないと思うんですけど」
「それが、私にはわかっちゃうわけ。鬼瓦さんって刑事さんだったんだから、たくさんの事件を解決してきたんでしょう」
「そりゃあ、仕事ですからね」
「私にもそういう才能があると、夢の中でお告げがあったの」
「いったい、どこのどいつがそんなお告げをしたんでしょうね」
「そんなの誰だっていいじゃない」
「しかし、本気ですか?」
「本気よ」
「あのですね。そもそも知っておいていただきたいのは、探偵の仕事に事件の解決は含まれないということです」
「えー、テレビとか映画では探偵が解決してるじゃない」
「あれはテレビとか映画だけの話です。まして、殺人事件なんてハナから対象外です」
「なんかつまんない。でも、間接的に関係する案件ならあるんじゃないの?」
「まあ、それはないとはいえないですけどね」
「そうでしょう。そういう案件って燃えるわ」
「お気持ちはわかりますけど、そういう案件には危険が伴いますよ」
「そのために鬼瓦さんがいるんじゃないの」
「いや逆です。あなたが万が一にもそういう危険に近づかないようにお守りするのが私の仕事と聞いています。それに、刑事を辞めてまでそんな危険な仕事したくないですよ」
「意気地なし」
「ひどい言われようですね。でも、案外意気地なしなんです。それはともかく、精一杯サポートさせていただきますので、よろしくお願いいたします、ボス」
「ブス?」
「聞き違いです。ボスって言ったんです。あなたはこれから私のボスになる人なので」
「あっ、それカッコいい。みんなにそう呼ばそう」
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