第二章 病院の闇

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三  二人はエレベーターで一階まで降り、下から順番に見て回ることにした。一階は総合受付、ロビー、売店といくつかの検査室がある。午後5時を過ぎたこの時間には外来患者はいず、看護師や入院患者がいるくらいだ。2階から四階までは各診療科がある。そして、6階から10階が入院室。一応すべて回ってみたが、特にこれといったことは見つからなかった。ただ、わかったことは、この病院において、5階の人間ドッグフロアーだけが完全に異質であることだった。恋がどうしてもお菓子を食べたいと言うので、1階の売店に戻り店内に入ると、育美は書籍コーナーで雑誌を見ていたある男の姿が気になった。  お菓子を買って二人が人間ドッグ専用のエレベーターに乗ると、二人の後を追うようにエレベーターにさっき売店で育美が見かけた男も乗り込んだ。その男のことを盗み見て、育美はその男が有名なミュージカルスターの大貫進次郎であるとわかった。育美がその旨を恋に報せるようと目配せをしたのだが、恋は何のことだかわかっていない。 「育美、どうしたの目でも痒いの?」  と笑いながら話しかけられ、育美は思わず恋の足を踏んだ。 「痛いんだけど」  睨む恋に育美は何事もなかったように言った。 「あら、失礼しました」  男はそんな二人の会話にもびくともしない。エレベーターが5階に着き、その男の後につくように恋たちも降りる。歩き始めた恋の手を育美が引っ張って、フロアロビーにあるソファーに座らせる。 「何よ、さっきからずっと痛いじゃないの」 「すみません。そんなことより」 「そんなことより?」 「今の男、有名なミュージカルスターですよ」 「だからって何よ。痛いじゃない」  恋にとっては痛いことのほうが問題なのである。 「それはすみません、でしたあ」  全然悪いとは思っていない育美の冷ややかな言い方にカチンとして膨れる恋。しかし、そんな恋のことなど無視して育美は話を進める。 「ここの人間ドッグってべらぼうに高いじゃないですか」 「そう? 育美ちゃんの給料と同じくらいじゃない?」 「冗談は止めてください。私の給料なんて、ここのドッグ料金の5分の一以下のツバメの涙ほどです」 「ん? それを言うならスズメの涙じゃなくて?」 「いや、あのお、スズメほどじゃないけど、ツバメほど少ないって意味です。ツバメってスズメよりちょっと大きいんですよね」 「そんなへんな気を使わないでよ、ややこしいから。いずれにしても、給料をあげろって言ってるんでしょ?」 「当たらずとも遠からずですが、今はそんなことを言いたいわけじゃないんですよ。ここのドッグにはそんな料金でも払える大物がたくさんいる可能性があるということです」 「なるほど。今回の依頼案件解決のヒントはここにありということね」 「その通りです、所長」 「だから、その所長は禁句だって言ったでしょう」 「そうでした、恋」  と育美が小さな声で言った。すると、ちょうどその時、エレベーターの扉が開き、一人の男が降りてきた。男はドッグ利用者の個室のほうに向かって歩いて行く。 「事務長のお出ましです」  育美がその後ろ姿を見ながら言う。事務長の写真は中村から受け取っていたのでわかるのである。 「いよいよ今回案件の主役かもしれない男が現れたっていうわけね。育美ちゃん、彼がどの部屋へ入るか見てきて」 「わかりました」  育美はすくっと立ち上がり、自分の部屋へ戻るふりをして後をつける。しばらくして戻ってきた。 「一番奥の特別室へ入って行きました」 「ふ~ん。これはさあ、育美ちゃん、人間ドッグの利用者リストが必要ね。山岸君に連絡して入手できるようにして」 「了解しました」  翌日、昼食をとっている時に山岸から恋に電話があった。 「中村さんに話したんですけど、最初、利用者リストはマル秘事項なので出せないと突っ張られました」 「何をお間抜けなこと言ってけつかんねん」  先日中村が来て以来、関西弁(それもガラの悪い)を覚えつつある恋なのである。 「所長ならきっとそう言うと思いまして、所長がそう言ってると伝えました」 「気が利くのか利かないのかのかよくわからない」 「えー、そうですか。僕は気が利くほうだと自分では思ってるんですけど」 「はい、そんなことはいいから結果を聞かせて」 「所長という一言を出したらOKとなりました。ということで、リストが手に入りましたけど、なかなかのものです」 「そんなの見なきゃわかんないわよ。じゃあ、これから育美ちゃんに取りに行かすから病院近くの喫茶店まで持ってきて」  育美が山岸から受け取ってきたリストを見て、さすがの恋もちょっと驚いた。山岸の言うように、それはなかなかのものだった。とにかく有名人ばかりなのだ。テレビをあまり見ない恋でも知っているような芸能人やアスリート、有名画家、大企業の社長・会長、そして元官房長官を始めとした政治家。その他、肩書のわからない怪しい人物も含まれていた。大きいとはいえ、個人病院に過ぎないこの病院を、なぜこれだけの大物が利用しているのかが謎だった。確かに、人間ドッグのある5階は完全に隔離されていて、専用エレベーターを遣わない限り入れない。セキュリティ対策も万全のようだ。しかも、最高級ホテルとそん色ない部屋は完全個室でPCを始め最新の機器が整備されているので、必要に応じて仕事もできる。5階専属の看護師はいずれも美人ばかりだし、その接遇力も一流だ。食事も一流ホテル並みの充実したものであり、しかも日々変わるそのメニューも飽きさせない工夫がなされている。これでけの設備、サービスは確かに他の人間ドッグ施設では見当たらないかもしれない。現に毎年恋が行っている病院よりもいい。でも、恋はそれだけが理由ではないと睨んでいる。他にも何か怪しい理由があって、そこにこそ、この病院の病巣が潜んでいる気がするのだ。 「ちなみに、この間事務長が入ったのは誰の部屋?」 「ちょっと前まで官房長官だった田中龍二の部屋です」 「あらそう。これはおもしろいことになりそうね、育美ちゃん」 「そうですけど、ひょっとして私たちには手に負えない案件かもしれませんよ」 「何をビビってるのよ。普通の探偵事務所だったら手に負えないかもしれないけど、うちだからこそできるんじゃなくて」 「すご~い。初めて所長を尊敬しました」 「えーーーーーー、半年も一緒に仕事をしてきて今初めてだなんて。もう絶句だわ」 「そんなにがっかりしなくてもいいじゃないですか。わかりました。私も所長と一緒に死ぬ覚悟で頑張ります」 「大げさねえ、そんなたいしたことじゃないと思うわよ。何事も、為せば成る、ナセルはアラブの大統領って言うし」 「いつの時代の話ですか」 「おじいちゃんから聞いたんだけどね。ナセルって、1952年にエジプト革命を成功させた人らしいわよ。教科書にも載っているっておじいちゃんが言っていたっけ」 「あら、そうですか」  何の感慨も何の感情もない育美の返事。 「それはともかく、事務長を始めとした病院関係者がどこの部屋の誰と接触するかをチェックする必要があるわね」  それからの数日、二人は検査が終わった時間から人間ドッグのロビーに張り付き、怪しい動きがあるかどうかをチェックしていた。その結果わかったことは、まず事務長が元官房長官の田中龍二の部屋以外にも、特定の人物の部屋へ頻繁に出入りしていることだ。その人物は板垣昇という名で、リストによれば株式会社大谷という会社の社長となっていたが、見た雰囲気がどうにも怪しいのだ。 「会社の社長となっているけど、あれは、あちらの世界の人間よ」  恋がそう言うと、育美も同じ感想を持っていた。 「私もそう思います。早速、山岸に調べさせます」 「そうね。でも、ついでにこの人の裏の顔も調べて」  恋がリストの中のある男の名を指した。それは大物俳優の町村俊の名だった。 「この人ですか?」 「そう」 「何かありましたか?」 「うん。育美ちゃんが彼氏と電話している時に見ちゃったのよ」 「私、ここでは彼氏と電話したことなんてないですよ」 「ここでは? まんまと誘導尋問にひっかかったわね」 「もう。私だって彼氏の一人や二人いますよ」 「ふ~ん。二人もいるの?」 「それは言葉の綾です」 「ふ~ん。一度私に紹介しなさいよ」 「嫌です」 「なんで?」 「所長なんかに紹介したらどうなることやら」 「私に取られちゃうと思ったんでしょう。心配しないで、私、人の持ち物には関心ないのよ。ただ、先方から寄って来られた時は、来るもの拒まずってなっちゃうんだけどね」 「最悪」 「まあ、それはともかく、私の推理ではこの俳優も怪しいのよ。事務長とひそひそ話してたもの」 「そうですか。やっぱり事務長には何かありますね」 「そう。でも、外科部長も頻繁にここをブラブラしてるから要注意よ」  ということで、主にこの3人の動きに注視することにした。しかし、二人とも検査、検査で忙しい。その日の検査が終わる夕方にはぐったりとしてしまい、気力が失われてしまうのだ。今日もへとへとになって自分の部屋へ戻った。すると、隣の部屋から育美がやってきた。 「お疲れですか?」 「検査疲れ」 「そうですよね。私も検査がこんなにしんどいとは思いませんでした」 「あ~あ、早くシャバに戻りたい」 「お嬢様がシャバって」  育美がツッコむ。 「これがほんとのお嬢シャバなんちゃって」  恋がしょうもない返しをする。 「どうでもいいわ」 「口が悪いわねえ、育美って」 「はいはいは~い」 「でね、育美、今回の件は長期戦になると思うのよ」 「そういう可能性はありますね」 「ところが、私たちはこういう状態だし、検査も間もなく終わっちゃうじゃない」 「そうですね」 「そこで、妙案があるの」 「どんな?」 「うちに吉井麗奈って子がいるじゃない」 「ああ、もともと女優部門所属の」 「そうそう。実はあの子、元看護師なのよ」 「へぇー、そうなんですか」 「そうなの。女優になりたくてうちの事務所に入ったんだけど、女優としてはなかずとばずなのよね。顔だけは一流なんだけどね。だから、中沢ちゃんに探偵の教育をしてもらったの」 「ということは、もしかして…」 「そう。彼女をここの人間ドッグ専門の看護師として送り込むのよ」 「さすがは所長、じゃなくて恋。ナイスアイデアです。でも、うまく潜り込ませられますかね」 「そこは、山岸君にうまくやらせるのよ。でも、麗奈のあの美貌があれば大丈夫。事務長や外科部長なんてイチコロよ」 「まあそうでしょうね。男はああいう女に弱いですからね。あっ、そう言えば、山岸君から連絡がありましたよ」 「何て?」 「彼は患者の聞き取り調査をしていたわけですが、その中でいくつか気になる噂があったと」 「ほおー、で、どんな?」 「これです」  山岸から育美に届いたメールには以下のようなことが書かれていた。 ・金儲け主義で、高い治療費をとれそうにない患者は早々に退院させる ・医療設備に金をかけすぎていて経営は厳しい ・院長は超ワンマンで、院長に逆らった意思や看護士はすぐ首になる ・医師や看護師の出入りが多い ・優秀な医師がいつかない ・内科部長は女癖が悪い ・病院内には必要以上に監視カメラがついている ・事務長が怪しい人物に脅されているのを見た 「なるほど。なんかみんな言いたいことをただ言ってるって気がしないでもないけど。ひょっとして、この中に真実が含まれているかもしれないわね」
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