第一章 恋、探偵事務所始めるってよ

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四  開業したが、恋は毎日出社するわけではない。恋には恋なりの事情もあり、結構忙しい。ママの代わりに業界のパーティに出席したり、自分が役員をしている他の会社に顔を出したりと。というわけで、探偵事務所は実質、副所長の鬼瓦と元所長の中沢で切り盛りされている。 「ごきげんよう」  およそ探偵事務所の所長とは思えない花柄のワンピースで登場し、およそ探偵事務所の所長とは思えぬ挨拶をして、久しぶりに現れた恋を、しかめっ面して見ているのは観音寺育美。一方の副所長の鬼瓦拓也は眩しそうに見あげているが何も言わない。ので、改めて鬼瓦の前に立って言う。 「ご・き・げ・ん・よ・う」  「はい、はい、はい。でも、もう11時半ですけど」 「あらあ、そんな鬼のような顔をして言わないで」 「すみません、この顔は生まれつきです」 「そうらしいわねえ、親の顔が見てみたいもんだわ」 「同じ顔をしています」 「マア、かわいそうなこと」  そう言い残し、恋は社長室兼所長室に入る。その恋の後を追うように、一緒に部屋に入ってきたのが秘書の永浜光太郎。 「お嬢様、おはようございます」 「だからさあ、ここではボスって言ってちょうだいって言ってるじゃない」 「なんか、『言って』が重なってる気が…」 「何なのよ」 「いずれにしても、それは私には無理です」 「もおー」  他の会社では別だが、なぜかこの探偵事務所の人たちはみんな恋のことを軽くバカにしている。永浜までそれに便乗しているのが腹立たしいが、言っても無駄なので諦めている。 「ところで、最近何かおもしろいことないの?」 「えーと、うちの猫が妊娠しました」 「誰も永浜さんちの猫の話なんか訊いてないわよ。この事務所での出来事よ」 「ああ、そうですか。そう言えば、さっき磯田君から聞いたんですけど、朝ドラで最近人気が出た川瀬満男の奥さんがご主人の浮気相談に見えたらしいですよ」  実際に探偵事務所を開いてわかったことは、一番多い仕事が浮気調査だということだった。離婚裁判の材料に使うために浮気の証拠を押さえてほしいというものや、ただ単に事実を知りたいというものも結構ある。もちろん、夫婦でなくカップルで結婚前に彼氏が浮気していないか調べたいという依頼もある。二番目に多いのが、素行調査だ。たとえば、婚活パーティで出会って付き合ったけど、経歴や仕事を偽ってないか素性を調べたいというものや、親御さんから子供が夜の街で危ない仕事に手を出してないか調べてほしいというような依頼もある。その他の依頼の中には、『別れたい・別れさせたい、復縁したい』という依頼もある。この場合は、探偵が工作員となって対象者に近づき、目的を果たすために心理誘導を行ったりするのだ。 「あら、ほんと。おもしろいことあったじゃないの。磯田君呼んでよ」 「わかりました」  そう言って、永浜は内線で磯田を呼び出す。しばらくして、その磯田が部屋に入ってきた。磯田吾郎は25歳。中肉中背。特段取り柄もなければ目立った欠点もないという、恋からすればおもしろみのない男の典型だ。恋にとって一番関心が薄いタイプの人間。それなのに、本人は自分はモテるタイプだと勘違いしているらしい。 「何かご用ですか?}  まるで恋に呼ばれたことに不満があるような言い方。 「私が呼んじゃいけなかったわけ」 「いえいえ、決してそういうわけじゃないんですけど…」 「じゃあ何よ」 「普段、副所長からしか呼ばれたことがないので、いったいぜんたい何の用かなと思いまして」 「『いったいぜんたい』って、何?」 「すみません」 「あのごんぞうの上司だから、私は」  恋は鬼瓦のことを『ごんぞう』と言うあだ名で呼んでいる。本当は拓也という名だが、どう見ても『ごんぞう』なので、そう呼んでいる。ただし、事務所内で副所長のことを『ごんぞう』などと呼べるのは恋だけ。すると、扉の向こうで、その『ごんぞう』の咳払いが聞こえる。どうやら恋と磯田のやりとりが聞こえたようだ。  鬼瓦はパパの話によると、刑事としては優秀で、将来も嘱望されていたらしい。しかし、本人は出世などに皆目関心がなく、現場の仕事に拘っていたという。体がいかつい上に、その上に乗っている四角形をした顔が半端なく怖い。目つきも前職の名残で鋭い。おまけに角刈りなので、背広姿の鬼瓦が机にデンと座っていると、違う事務所と勘違いされてしまいそうだ。 「わかっていますけど…」 「たまには、私だって仕事の話をするわよ」 「ごもっともです。でっ?」 「でっ?って何、失礼な」  この間の二人のやりとりをニヤニヤしながら見ている永浜。 「すみません」 「さっきから、すみません、すみませんって。他になんか言えないの」 「すみません」 「まるでうちの夫みたい。まあ、いいわ。今日川瀬満男の奥さんが相談に来たっていうじゃない」 「ええ、そうです」 「彼っていくつなの」  恋にとっては、妻よりも満男に関心がある。 「ひと回り年上らしいです」 「奥さんの歳がわかんないんだから、ひと回り年上って言われてもわかんないじゃないの」「ああ、奥さんは31歳です」 「ということは…、45歳?」  恋はとにかく数字が苦手である。こんな小学生クラスの足し算もすぐにはできない。 「惜しい。43歳です」 「惜しいとか言うな」  恋のツッコミも磯田は軽く無視して話を進める。 「それで、なんと電話口で泣き出したんですよ」 「そんなことで泣くなんて、かわいらしいわね」 「ボスだったら違いますか?」 「ボッコボッコにしてやるわ」 「疑いの段階でですか?」 「疑いを持たれた段階でアウト」 「こわー」 「当たり前じゃないの。私の夫にそんな権利などないのよ。それはともかく、彼女が事務所に来たら連絡して」 「はい」  昼食を終えて事務所に戻ると、すでに川瀬満男の妻が来ていた。気がせいていたのだろうか、30分前に来ていた。とりあえず応接室に通し、磯田が対応しているという。早速、恋も応接室に向かう。 「失礼します」  ドアを開け入ると、ソファーに座っていた川瀬の妻が顔をあげ、恋を見た。その目の中を見て、名(迷?)探偵・万里小路恋はある推理をした。これがこの後の結果につながるのだ。妻はなかなかの美人だが、自分のほうが勝っていることに満足する。 「あっ、川瀬さん、こちらが私どもの所長の万里小路です」 「万里小路恋です」  名刺を出しながら言う。 「まあ、素敵な名前。それにおきれい。私は川瀬美香と申します。よろしくお願いいたします」 「そんなあ、きれいだなんてねえ、磯田」  そんな振られ方をして磯田は返事に窮している。 「うちは代々そうなので、改まって言われちゃうと戸惑ってしまいますのよ」  否定しないのかい、と磯田は心の中でツッコミを入れる。 「ちなみに、私の母は『愛』って名前なんです。母が愛で、娘が恋(こい)だなんて、笑っちゃうでしょ。オッホッホ」  おかしくもないので、美香はただ苦笑することしかできないでいる。磯田は恋が自分の上司でなかったら張り倒していただろうと思う。 「そうなんですか。でも、まさか女性の所長さんだとは思いませんでした」 「みなさん、そうおっしゃいますけど、仕事によっては女性のほうがやりやすいんですのよ」 「そうなんですか?」 「そうなんですの。たとえば浮気調査の場合、女性のほうが相手の女性に接しやすいでしょう」 「確かにそうですね」 「ところで、ご主人様は刑事もののドラマの犯人役でよく出演なさっている川瀬満男さんですよね」  わざわざ『犯人役』などと言う必要がどこにあるんだろうと思わず所長の恋の顔を見る磯田。しかし、恋は何事もなかったかのように話を進めようとする。 「犯人役じゃない役もやってはいるんですけど…」  美香が抵抗した。 「あらあ、そうですか。ごめんなさいね。うちの磯田が失礼しちゃって」  これではまるで磯田が恋に川瀬が主に『犯人役』をやっている俳優だと教えたように思われてしまう。何食わぬ顔で責任を人に押し付けるボスにはお手上げだ。この際、聞かなかったことにして話を進める。 「ところで、奥様がご主人の浮気を疑い始めたのは、いつ頃、どんなことでですか?」 「半年前くらいからでしょうか。泊りの仕事が急に増えたのと、あとは帰宅した時の様子ですね」  男は普段と違うことをした時には普段と違うアクションを起こしてしまう。 「女の勘というやつですね」  磯田がつい先日付き合っている彼女に言われた台詞を言った。 「まあそうですけど、実は以前にも一回浮気されたことがあるのでなんとなくわかるんです」 「二度目ですか。それは許せないですね。私なら一回でアウトですけど」  恋が語気を強めて言った。 「所長さんはそんな感じですね」  美香もこの短時間で恋の性格を見抜いた。 「はい、即離婚です。代わりならいくらでもいるので」 「すご~い」 「あの~、うちの所長は規格外なので、あまり参考にはならないかと」 「何よ、規格外って。人を曲がったきゅうりみたいに言わないでよ。まっ、とにかく、私どもにお任せいただければ100%満足いただける調査をいたしますので、ご安心ください。何せ、元警視庁の捜査一課長を筆頭に腕利きの所員が川のようにいますから」 「川のように?」 「所長、それは山のように、です」 「そういうことです。何ならイケメンの所員を奥様要員として付けましょうか?あまりのイケメンに奥様がその所員と浮気しちゃったりなんかして」  美香の顔が強張っているのを見て、磯田がフォローする。 「所長、調査対象はご主人ですから」 「はい、はい。冗談よ。冗談に決まっているのに、この人ったらねえ、奥様」  今度はそんなところで振られた美香が戸惑っている。そこに、副所長の鬼瓦が入ってきた。鬼瓦のあまりの風貌に川瀬の妻は顔をひきつらせた。それをみて恋がフォローする。 「奥様、奥様、そんなに怖がらないでください。人には噛みつきませんから」 「犬じゃないんだから」  鬼瓦がぼそっ言う。 「そうですか。お手柔らかにお願いします」 「ですって。この顔に睨まれたら蛇の前のカエルみたいになっちゃうわよね。こちらが副所長の鬼瓦というものです。顔ほどは怖くないのでご安心ください。彼が実務の責任者ですから、費用や契約のことなどをお聞きくださいね」 「わかりました」  鬼瓦には相当びびったようだが、彼が元警視庁の刑事一課長だったと知って安心したのか、正式な契約となった。担当チームは、恋をリーダーに、磯田と牧野憲治が行うことになった。本当は恋が加わる必要などないのだが、恋の意思で決まったものだ。これまでも、恋は自分が興味ある案件には自ら参加している。今回は調査対象の川瀬満男に興味があったからだ。イケメンだけど渋さのある川瀬の裏の顔が見て見たいと思ったのである。
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