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五
翌日から早速調査が開始された。妻の美香からわかっている範囲の川瀬のスケジュールを聞いている。今日から三日間はテレビドラマの撮影で一日中スタジオに詰めていることになっている。朝、川瀬が車で出るところから磯田と牧野が追尾してる。
「今、スタジオに入りました。これから出入口の見える駐車場で張り込みをします」
牧野から恋に連絡が入った。
「わかった。じゃあよろしくね」
だが、その日川瀬満男は午後8時にスタジオを出て、帰りにコンビニに寄っただけで帰宅した。その翌日も、翌々日も怪しい動きはなかった。
調査4日目。今日、満男は京都へマネージャーとともに行き、出演予定の映画の打ち合わせを行い、夜には高鍋隆一という歌手の誕生日パーティに参加することになっている。
京都には磯田が行っていたが、今のところ特に変わったことはないという。
夜のパーティには恋と牧野が潜入調査することになっている。芸能事務所の実質上の責任者の丸山肇が高鍋と懇意だったので二人の潜入が可能になった。その丸山がちょうど仕事先から帰ってきた。元大手芸能プロダクションの専務だっただけあっておしゃれだ。
「丸山ちゃん、ちょっとここへ来て」
恋が手招きすると、丸山はちょっと面倒くさそうな顔をしながらやってきた。
「何でしょうか?」
「まあ、そこに座ってよ」
所長室を出たところにあるソファーを指す。
「それにしても、相変わらずおしゃれよね。丸山ちゃん」
「ありがとうございます。ボスもいつも通りレイキでイイカワですよ」
「でたー、業界用語」
「妖怪みたいに言わないでくださいよ」
「しかし、その軽さって昭和のノリよね。もう令和の時代になっているんだから、そろそろそう言うの止めたら」
「ハックション」
返事の代わりにくしゃみをした。
「ボス、ティッシュ持ってませんか?」
「どうしたの」
「鼻かみたいんですよ」
「裸みたい? この変態オスゴリラ」
「いやいや、飛んだ濡れ衣です。鼻をかみたいといったんですよ」
「マア、私としたことがなんとはしたない」
「もお、勘弁してくださいよ。ところで何の用です?」
恋が今回の案件のファイルを持って来たのを見て丸山が言う。
「ああ、川瀬満男の件ですか?」
「そう」
「確か、その件で今日ボスは高鍋の誕生日パーティに行くんでしたよね」
「そうなの。それで、事前に丸山ちゃんから情報をもらっておこうと思って」
「何なりとどうぞ」
「そもそも、川瀬満男って、業界ではどう言われてるの?」
「演技力の高さには定評がありますよ」
「それは素人の私でも何となくわかる。ちなみに、彼と奥さんの出会いは?」
「奥さんも、もともとはタレントをやっていたらしくて、共演したことがきっかけで付き合うようになったようです」
「ふ~ん。よくあるパターンね」
「そうですね」
「うちで言えば、丸山ちゃんと経理の薫子ちゃんの共演みたいな」
丸山が経理の大崎薫子と不倫浮気しているという噂を耳にしていた。
「はい?」
突然言われて、いい年をして顔を赤くした丸山。
「あらあ、顔が赤いんだけど。どうかしたの」
「気のせいです」
「まあいいわ、夫婦仲について何か聞いてない?」
「う~ん、そうですねえ…」
急に歯切れが悪くなる丸山。薫子とのことで頭がいっぱいになってしまったか。
「えっ、何?」
「奥さんへの拘束がなかなからしいって話は聞いたことがありますよ」
「何ですって、嫌あねえ、そんな男」
「ボスだったら耐えられないでしょうね」
「当たり前じゃない。もし、うちの主人がそんなことほざいたら、奥歯ガタガタいわしたるわ」
「そんな美しい顔して、突然怖いこと言いますね」
「それって、褒めてるの?」
「どっちかというと、貶してるんですけどね」
「失礼ね。言葉遣いが悪いのは母親譲りだからしょうがないの。そんなことはいいんだけど、でも、拘束したがるっていうことは奥さんを愛してるということよね。そんな人が浮気するのかなあ」
「それは別物だと思いますよ」
「何、それっ。だから男って嫌よね。スィーツは別腹みたいな感覚で浮気するわけ?」
「さあ、どうでしょう」
「長嶋かあ。あなたにそんなことが言えたりするわけ?」
さっきから自分にとばっちりがきていることに悄然とする丸山。
「まあそのお、そういうこともあるかなと」
「なんだかなあ。それ以外に、噂レベルでもいいから業界で囁かれていることがあったら教えて」
「噂レベルで言えば、そんなのいくらでもありますよ」
「たとえば?」
「ああ見えて、エムだとか」
「エヌ?」
お嬢様はMの意味を知らない。
「エヌじゃなくてエムです」
「1字違いじゃない。その、エムって何よ」
「えっ、ほんとうに知らないんですか? さすがお嬢様」
「なんかバカにしてる?」
「いい意味でバカにしてます」
「バカにするのにいい意味なんてないでしょう。ふざけないでよ。それで、エムって?」
「ボス、この神聖な職場でしかも昼間からエム、エムって連呼しないでください。さっきから、所員たちがチラチラこっちを見てます。今度、私と鬼瓦副所長とでじっくり説明させていただきますから」
26歳の女性に、外見がどう見てもゴリラのおっさん二人がSMを教えている図とはなんとおぞましいことだろう。
夕方になって、新大阪の駅から磯田が電話を寄越した。
「ボス、今のところ何の収穫もありません。やっこさん、なかなか尻尾出しませんねえ」
「やっこさん?」
「ボス、もしかして、やっこさんってわかりません?」
「知ってるわよ、バカにしないで」
怒った恋だったが、もちろん知らない。恋の生活の中で『やっこさん』なんて出てきたことがないから。
「とにかく、そういうことなんですよ」
「お尻隠して頭隠さずっていうからね」
バカにされたと思った恋は、知ってることを言った。
「反対なんだけどなあ」
「なんか言った?」
「いや、別に」
「あっ、そう。それにしても、彼って本当に浮気してるのかしらね」
「それを確かめるのがわれわれの仕事です」
「そんなのわかつてるわよ。感想を言っちゃいけないの」
「いずれにしても、これから東京までは私が追尾します。東京に着いたらまた連絡しますので、よろしくお願いします」
「わかったわ」
結局、新幹線の中でも何も起こらなかった。
川瀬は東京駅からタクシーで高鍋の誕生日パーティに向かっているので、ボスたちは直接パーティ会場に行ってくださいと磯田から連絡が入った。
「じゃあ、私これからパーティ会場に行ってきます」
恋はパーティ用のピンクのドレスに着替えて所長室を出た。その姿を見た鬼瓦が目を丸くしている。
「何よ、そのいやらしい目つき」
「あのお、ドレスの裾が捲れていても中身が出てるんですけど…」
「えっ、早く言ってよ」
「だから、早く言ったんですけど」
「見るんじゃないわよ。もし見たらボーナス無し」
「でも見えちゃったらから言ったんですけどね…」
「もう最低、最悪』」
いったん所長室へ戻り、鏡でチェックする。すると、後ろが捲れあがり『中身』が出ていた。こんなきれいなおみ足を『中身』った鬼瓦が許せない。今度仕返しをしてやらなくてはと強く決意する恋であった。むしゃくしゃしながら、パーティに同行する牧野を内線で呼び出す。
「牧野君、所長室へ来て」
「はい」
恋の声の調子に怯えたように返事をする牧野。
「あのお、私何かしましたでしょうか?」
「別に。あなたのせいじゃないのよ。あのごんぞうの野郎め」
「ごんぞう?」
「鬼瓦のこと」
「えっ、副所長のこと、ボスはごんぞうって呼んでるんですか」
「バレちゃった?」
「はい」
「内緒よ。じゃあこれから一緒にパーティに行きましょう。私の車で行く?」
「ボスの車でですか?」
「いけない?」
「何乗ってるんでしたか?」
「えーと、地下の駐車場にはフェラーリが2台とポルシェが1台停めてあるわ」
「えーーーーーーー、何それ。しかも、他にもあるんですか?」
「ええ。実家にはその倍くらいのいろんな車があるのよ」
「くらいって………」
「どうしたのよ。急に黙っちゃって」
「開いた口が塞がらないというのはこういうことなんでしょうね」
「どういう意味?」
「どういう意味って、僕の顔見ればわかるでしょう」
「あなたの顔? 前から思ってたけど、おもしろい顔だと思うけど」
「そういうことじゃなくて。いずれにしても、そんな派手な車で探偵の仕事はできません」
「えっ、そうなの? つまんない」
「つまんないとか、ないです。タクシーで行きましょう」
「なんか面倒くさい」
タクシーに乗ってしばらくすると、牧野が運転手にコンビニに寄ってくださいと言った。
「コンビニ?」
未だかつてコンビニなど行ったことのない恋が反応する。
「ええ、そうですけど」
「コンビニって、何をするところ?」
「えー?コンビニも知らないんすか?」
思わず言葉がぞんざいになる牧野。
「し~らない」
「もう、カワイイ」
「キャー、照れるー。私、きれいとしか言われたことないので、カワイイなんて言われると猛烈に恥ずかしい」
「じゃあ、僕と一緒に行ってみますか」
牧野が急に男の顔になって低音ボイスで言う。
「うん、そうする」
恋もカワイクなる。
二人で車を降り、恋は人生で初めてコンビニの店内に入った。そこで、恋は小さな店舗の中に、見たこともないような商品がいっぱい並んでいることに驚き、感動した。店を出てきた時に思わず恋はこう言った。
「あのお店ごと買いたいんだけど。どうしたらいいの?」
「ボス、その話は今度秘書の永浜さんに言ってください」
自分ではどう答えたらいいかわからない牧野はそう答えていた。
会場に着くと、すでにパーティは始まっていて大勢の人が参加していた。
「ボス、華やかですね」
会場内の参加者の多くが芸能人で、有名人も多数いた。
「何浮かれてるのよ」
「別に浮かれてなんかいませんよ。でも、僕あの子のファンなんです」
牧野が指さしたのは、かつて国民的アイドルグループでセンターも務めたことがある女の子だ。
「あんな子供のどこがいいのよ」
「そういうボスだってさっきからあの俳優のほうばかり見てるじゃないですか」
最近急激に人気の出てきた若手俳優の松田康生である。
「いやあねえ、バレちゃった。私、ああいう顔好きなのよね」
「ボスって、案外ミーハーなんですね」
「ヒーハー?」
「それはブラマヨです」
「エビマヨ?」
「もうしんどい」
牧野が心底疲れたという顔をしている時に、入口のドアが開き、川瀬と思しき人物が入ってきた。そしてその少し後ろに磯田の姿も見えた。
「アレが川瀬です」
合流した磯田が恋に顔を近づけて言う。
「お口が臭~い」
「えっ。すみません」
「どんな時もエチケットは大事よ。ブレスラボでも使ったら?」
「はあ、すみません。しかし、ブレスラボは知ってるんだ」
へんなところに関心する磯田。
川瀬は案外背が低い。まっすぐ高鍋のところへ向かい挨拶をしている。その後川瀬は各テーブル席を回りながら来場者と歓談していた。だが、特に怪しい動きは見当たらない。しかし、会も終盤になった頃、20代と思われる女の子が川瀬に近づき、妙に馴れ馴れしく接しているのを見つける。
「アレ怪しくない?」
「そうですね。あの子、カリナですよ」
アイドルに詳しい牧野が言う。
「カナリ?」
「カナリじゃなくて、カリナ。山田カリナっていうグラビアアイドルです」
「グラビアアイドルって何?」
「ああ、ご存知ないですよね。グラビアアイドルって言うのは水着姿などを雑誌などに公開することを職業にしてる子たちです」
「あら、おかしな職業だこと。性差別じゃなくて?」
「そんな難しい問題じゃないんです。それに今そんなこと話している時間はありません」
「そうかもね。でも、これでついに川瀬の尻尾をつかまえたんじゃないかしら」
「可能性はありますね。早速マークしましょう」
カリナはいったん川瀬の元を離れたが、しばらくするとまた戻ってきて川瀬の耳元で何かを囁いた。そして、二人はパーティが終わる前に出口へ向かった。
「さあ、尾行するわよ」
「はい」
恋と磯田と牧野も出口へ向かう。川瀬とカリナは外に出てしばらく歩くと、突然手をあげタクシーを呼びとめ乗り込んだ。恋たちも慌ててタクシーを探したがすぐにはつかまらない。やっとつかまえた時には、二人の乗るタクシーはかなり先を走っていた。
「あの車を追ってくれませんか」
磯田が焦った口調で運転手にそう言う。
「はい」
そうは答えたものの、運転手の態度はのんびりしたものだった。
「急いで」
恋が強めに言う。
「そうおっしゃられましても、この込みようではねえ」
確かに、道路は込みだしていた。
「料金の3倍払うから」
出ました。恋の金で釣る作戦。
「えっ、3倍ですか。はい、頑張ります」
急に運転手の口調が変わった。人間お金には弱い。運転技術を駆使しながら、二人の乗るタクシーの追跡が始まったのであるが、こちらが信号に引っかかっている隙に逃してしまった。
「というわけで、やられちゃったのよ」
恋が昨日の状況を鬼瓦に話しているところだ。
「しかし、相手がわかったのですから、近いうちに証拠はつかめますよ」
恋たちの失敗をフォローする鬼瓦。山田カリナの住所を突き止めた磯田が、さっそく今朝からカリナの尾行を始めている。一方の川瀬満男のほうには牧野が張り付いている。
「そうだといいんだけどね」
すると、早速、恋の携帯が鳴った。牧野からである。
「牧野君から」
誰からの連絡かを鬼瓦に知らせた後、電話に出る。
「今川瀬が出てきました」
妻からの連絡では、今日は都内で開催されるイベントに参加することになっていた。
「あらそう。じゃあ追跡お願いね」
「わかりました」
携帯をテーブルに置いて鬼瓦に言う。
「どうやら昨日川瀬は山田カリナのところには泊まらなかったようよ」
「そうですか。だからと言って白とは言えませんけどね」
「そんなのわかってるわよ」
その後山田カリナに張り付いていた磯田からも連絡が入ったが、今のところ川瀬と接する動きは見られないという。他の仕事の打ち合わせなどを終え、午前中は終わった。昼食から帰り、再び鬼瓦と雑談をしている。
「しかし、ボス。昨日はいつにも増して綺麗でしたな。ボスのああいう姿見たの初めてなので驚きました」
「そう。でも確かに好評だったわね。知らない人がたくさん握手を求めてきたものね」
「そうでしょうね」
昨日の恋の姿を思い出しているのか、鬼瓦は遠くを見るような顔になっている。
「何、うっとりした顔になっちゃってるのよ」
「今度、握手会でもやりますか。私が第一号の客になりますけど」
「気持ち悪」
その時、再び牧野から電話が入った。
「ボス、川瀬なんですが、イベントが終わった後タクシーで移動しているところを尾行しているんですが、どうも次に向かっているのがうちの事務所の方向なんですよ」
「えっ、どういうこと?」
「それは私が訊きたいです」
「まあいいわ。とにかくあなたはそのまま尾行を続けて」
それから10分後、再び牧野から電話があった。
「今、うちのビルの駐車場に入りました」
「えっ、まさかほんとうにうちに…」
「そのまさかみたいです」
牧野の声が途中で途切れたと思ったら、事務所の入口に入ってくる川瀬の姿がモニターに映った。受付嬢に何か話している。すると、恋の机の上の内線電話が鳴った。
「今お見えになった川瀬満男さんというお方が所長にお会いしたいとおっしゃってるのですが。ただ、予約はなさっていないようなのですが、いかがいたしましょう」
「いいわよ。お会いするから応接室に通して」
これは面白いことになりそうだ。しばらくして、川瀬を尾行していた牧野が所長室へ飛び込んできた。
「どういうことでしょうね」
「そんなの知らないわよ。だけど、私を指名したのよ」
「へぇー」
「へえーって、何か推理することないの。あなたは今川瀬を尾行しているわけだから、彼に会うわけにはいかないでしょう。とにかく私が会ってくるから」
「よろしくお願いします」
早速応接室に向かう。ドアをノックすると川瀬の返事が聞こえたので入る。ソファーに座っていた川瀬と目が合う。まずはここが勝負だと思うので、目に力を入れる。
「どうもお待たせいたしました」
営業スマイルを張り付けて言う。立ち上がった川瀬もにこやかな顔を向けて言った。
「私、川瀬満男と言います。突然伺ってすみません」
「いえ。どうぞお座りください」
間近で見ると、意外と精悍な顔をしていた。
「ところで、私をご指名いただいたようですけど。どこかでお会いしたことありましたか」
「いえ、今日初めてお会いします。でも、お噂は聞いていました」
「噂?」
「ええ。ただし、芸能事務所の社長さんとしてですけどね。とんでもなく美しい人だと。それで気になっていろいろ調べたら探偵事務所も経営されていることがわかりました」
「ああ、なるほど」
「いやー、噂どおりの美人ですね」
「あらあ、そうですかあ」
否定はしない。事実だから。
「でも、川瀬さんは俳優さんですから日頃から私なんかよりずっと綺麗な女優さんを見ていらっしゃるじゃないですか」
「いやいや、そこらへんの女優なんか比べものにならない品があります」
「嬉しいんですけど、そんなことを言うためにここに来たわけじゃないんでしょ」
「はい。実は、妻の浮気を調査してほしいんです」
「奥様の浮気?」
「そうです」
「何か疑わしいことでもあるんですか?」
「ありありです。もちろん、まだ確証があるわけではありません。だからお願いしようと来ているわけで。ただ、最近の妻の態度、様子を見ていると明らかにおかしいんです。本人は普段どおりにしているつもりかもしれないんですが、妻は態度に出やすいんです。長年一緒に暮らしていればわかります。どうかお願いします」
妻から夫の浮気調査の依頼を受け、今度はその夫から妻の浮気調査の依頼をされている。本来ならこうした場合、後からの依頼、つまり夫の依頼は断るべきなのかもしれないが、面白いことが大好きな恋が断るはずもない。
「わかりました。お受けします。でも、どういう結果が出ようとも受け止める覚悟はありますね」
「大丈夫です」
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