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宴のあと
気がつけば、夜風が頬の無精髭を凍りつかせんとしていた。
転寝より目覚めれば、月はいつしか中天。
帝の天幕から漏れ聞こえていた笑声も、にぎやかな器楽の音もすべて止んでいる。静寂の中ぱちぱちと、篝火の爆ぜる音がするのみ。
やれやれ、やっと皇帝陛下の宴もお開きになったか。李周は、自分のあるじ絽国公を回収すべく立ち上がり腰を伸ばした。他国の諸将の姿もとうにない。皆、自国の陣へと引き上げていったのだろう。
覇帝の本陣においてはその夜、従属国八州の諸公を招いての秋宴が催されていた。
覇国を宗主国とするこの八州連合軍はいま、半年に及ぶ征旅の途上にある。南下を進め着々と領土を広げたはいいが、連戦につぐ連戦で従属国の中には兵を著しく損なった軍もある。
覇国の兵は未だ無傷。実戦を強いられるのは属国軍だ。それゆえ諸公の中には不満がある。本格的な冬までに自国へ引き上げるべく、これ以上の戦線南下を是とせぬ者もあろう。しかしそれを皇帝に直訴できる国主は八名の内にはいない。覇帝と属国諸公たちとの力関係はそれほどに歴然としていた。
帝の御前で、諸公どうし肚の内を探り合うような酒宴である。心からそれを楽しむ者など、主催した帝以外にはあろうはずもなかった。
あるじを気にしていた李周も他国の諸将軍と儀礼に満ちた盃を交わし、そのあとは護衛兵の詰め所を見つけて身をひそめ、数刻寝んだ。慢性的な睡眠不足で思考力の衰えを感じていた。酒に酔って他国の将と込み入った話をすれば、うっかり口を滑らせあるじの愚痴のひとつも零してしまいかねぬ。それで絽公に翻意ありと疑われるのも、また他国からの引き抜き工作に遭うのもこりごりだ。
幕布をおそるおそる持ち上げる。宴の人熱れのまだ残る幕内には軍属らしき者がちらほらと、盃の後片付けをしていた。
見渡せば、片隅の異国模様の絨毯の上にあるじが独り、寝こけている。
「公。清嶺様」
駆け寄り、抱き起すと酒精が鼻をついた。相当呑んだらしい。衣服も乱れている。
「無事でございますか」
「おう、秀占か、」
と若いあるじは李周を字で呼んだ。だいぶ酩酊している。
李周は思わず苦言する。
「呑み過ぎは禁物と、あれほどに申し上げたが」
「済まぬ、済まぬ」
袍の襟元からは逞しき胸板が露わである。絽公はぐらぐらと頭を揺らめかせた。
「そう怒るな。おれは酒席であの覇帝と一戦交えていたのだぞ」
「は?」
問い返す声が思わず裏返った。わが絽国は狂蕩者のあるじのせいで今度こそ終わった、と思った。
「皇帝陛下に手向かったのですか」
「そうではない。飲み比べで勝ったら覇国一の軍馬『飛瓔』をくれてやると帝が戯れを仰せられ、俺は代わりに有無もなく国の命運を賭けさせられた。それはもう必死でな」
肝心の、何を賭けたかはぼやかして、清嶺は転がった酒瓶の山を指す。
「やれやれ帝がぶっ倒れて危うく護将どもに斬り殺されるところであったわ。なんとかいう輔相が止めに入り俺の勝ちと宣告してくれたおかげでお開きになった。助かった。喜べ、最強の軍馬を手に入れたぞ」
馬などどうでもいい、危ない橋を渡るのはやめてくれ頼むから。そう説教したい気分ではあったが、とうの清嶺は額にじんわり汗を滲ませ辛そうにしている。
あきらめて李周はあるじに背を貸し、大の男を負ぶって天幕を出た。
「――秀占、お前を失うわけにはいかぬ。お前は八州にその名を謳わるる絽国の軍聖……」
寝言を言ったのだと思った。
まさかな、まさかなぁ。――この人はまさか俺を賭けさせられたのかな。
聞き返そうにも背からは鼾が高鳴りはじめた。
李周は天を見上げ息を衝く。ぼうと白く流れた吐息が夜に紛れ、霞んで消える。
明日の朝には今の呟き、きっと忘れておられるであろう。
聞き返せばよかったな……苦笑しつつ李周は、あるじの巨躯を背負い直した。
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