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工場でぐるぐると
右手の力を抜いて、グリップを握り直す。教習所で習ったように、卵を握って潰さないイメージを手の平に持ってアクセルを開ける。すると、CBRのニーハンのエンジンは甲高い音に変わった。
人によってはその甲高い音は、単に鋭い金属音で、言葉で表現すると「ミュンミュン」というようなメカニカルな音過ぎると言って毛嫌いするのだが、このバイクに乗って三年も経つと、それが当たり前になっていた。逆に、わざとギアを一段落として、高音域にエンジンの回転数を持っていっては、「ミュンミュン」音を楽しむ癖が付いてしまった。
雅孝は、街と工業地帯を結ぶ巨大な吊り橋を愛車のCBRのニーハンで渡る所だった。
それは雅孝にとっては、とても新鮮な経験の始まりである。今まで、父親の車に乗せられてこの工業地帯の先にある埋立地に釣りに行ったり、小学校の社会科見学で工場に行く為にバスに乗ってこの吊り橋を渡った事は何度もあった。しかし、今日からはこの吊り橋を渡った先で、労働をするのである。遊びや見学ではなく、生産という社会の最低基盤の活動をやりに行くのだ。
雅孝の住んでいる都市部から隣の街までを繋ぐ幹線道路の途中に、きれいに整備された片側二車線の道路があった。その道路は工業地帯に向かう道路になっている。幹線道路から枝分かれした道の先が吊り橋だった。吊り橋に無理やり向かうべく、強引に枝分かれさせられた道路は、取って付けた作りのせいで、枝分かれする三つ又の交差点が渋滞の名所になっていた。
吊り橋へのアプローチは長いスロープになっていた。
アスファルトの路面は天を目指すべく段々と路面を持ち上げていく。道路が完全に地面から離れ、吊り橋の一部となる手前に、吊り橋の通行料を集金する料金所がある。全ての車はここで一度停止をさせられ、現金か回数券で通行料を支払わなければならない。料金所は高速道路のそれと同じ作りをしている。赤く塗られた長細い詰め所に、通行料を回収するおじさんが身を乗り出す為の窓が開いている。おじさんは窓から体を半分出して、通行料を手際よく受け取る。
上下線ともここで集金をするので、帰りは吊り橋を降りる時に支払う。
海から陸地部分をわざとえぐるかの様に入り込んでいる湾が、吊り橋の下にはある。
吊り橋は鮮やかな赤色にペンキ塗りされていて、晴れの日には海の緑と空の青さにとても映える。
湾には吊り橋を渡った先の工業地帯に材料や原料を届ける為の貨物船がひっきりなしに通り、海の色もそれらの船の出すなんらかの成分の影響があるのか、澄んだ青色とは程遠い深い緑色をしていた。しかし、それがおかしいと思う者など、この近隣にはいない。ここは昔から工場で持ってきた町である。海の色などを気にしていては工業地帯は務まらないのだ。
そんな緑色の海をヘルメットのバイザー越しに眺めながら、雅孝は吊り橋の先の工業地帯で自分が働く事に未だに半信半疑だった。この慣れ親しんだ赤い巨大な吊り橋の先で、自分が金を稼ぐ。そんな日が来るとは、小学校で工場見学をした時には夢にも思っていなかった。レジャーでも見学でもない、働くという行為が待っている。
以前から工業地帯に割の良いアルバイトの口がある事は、アルバイト専門誌を見て知っていた。ただ、工業地帯は自分の居る所とは別の世界と思っていた。都市部からは、工場の煙突から出される煙が見えて、そこはまるで遠くで、その煙の下にある湾の事を想像すれば、他の国の出来事になってしまうのだった。一年前の自分に今日の事を尋ねてみると、一体どんな顔をするだろう。雅孝はそんな意地悪な状況を自虐的に考えてみた。
雅孝は、今年大学を卒業した。就職はしなかった。就職活動はそれなりにやった。とはいっても同じ研究室の同期の様に先輩周りをしたり、教授のコネを伝って就職活動をした訳ではない。
リクルートスーツを着て、集団就職説明会に出席する。登録カードに自分の情報を記入して提出する。各会社のブースに行っては、その会社に質問をする。
そういった形式的な就職活動チックな事はしっかりとやった。しかし、実を言えば、それは親や同級生や就職課の周りの人達に対するパフォーマンスだった。
雅孝には、ちょっとした計画があった。アメリカの大学に留学をしたかったのだ。それも、自分が大学でやってきた分野とは全く違う映画製作を大学で学びたいと決めていた。
それは大学三年生の頃だった。
その頃、ドップリとはまってしまったアメリカのTVドラマがあった。医学生の主人公が研修医をしながら病院で働くというドラマだ。
研修医とはいえ病院で救急医として患者を診察し治療する立派なドクターだ。その彼がある時こう言ったのだ。勿論、ドラマの中での台詞ではあるのだが。
「まだまだ、学費のローンの支払いでこの病院からは離れられないよ」
雅孝はこの台詞を聞いて自分の目標を実現する為に、学費を自ら稼いで払っている人もいるんだ、とまるで冗談の様に気がついたのだ。
雅孝の大学の学費は親が出した。雅孝はそれが当たり前だと思っていた。周りの同期からも学費を自分が払わないといけない、と言っているのを聞いた事がなかった。アルバイトをするのは、車やバイクを買う為のお金を稼ぐのが目的で、それを自分の学費に使うなどという気持ちさえ起こらなかった。
しかし、周りが就職活動を始め、親からも「四年で大学を出てもらって、後は自分でしっかりとお金を稼いでそれで好きな事をしなさい」、と言われるようになって初めて、「結局自分は何をしたいのだろう」と真剣に考えたのだった。
雅孝は、小さい頃から映画に影響を受け続けた。
初めて観たSF映画でその汚染は一気に全身に周ってしまったのだ。特に脳の辺りは完全に虜にされた。体全身の意識や自由を奪われ、そのまやかしが、自分には映画を深く知る義務があると思い込ませてしまったのだ。
ビデオカメラを親が買った時は、勝手にカメラを持ち出して弟や友達に演技をさせては映画っぽいものを作った。その癖は大学に入ってからも直らず、大学の部活動で映画を作り続けた。
就職活動の時期が迫り、進路の決断が近づいて来た時、それまで口にする事がはばかられた映画を勉強したいという気持ちが心の中で急速に膨れ上がった。そして、それはむやみやたらに膨れ上がってアドバルーンの様に、力強く空の上へ上へと向かって行こうとするのだった。
あまりにも馬鹿馬鹿しい動機と、新卒という大学生の特権を軽くあしらってしまうこの考えを、さすがにおおっぴらにする事は気がとがめてしまった。ひとまず就職活動をしている演技で、この時期を過ごし、裏の本計画で留学の準備を始める事にしたのだ。
留学資金はざっと見積もっても五百万円だった。それを早いうちに工面しなければいけない。それが早ければ早いほど、雅孝の留学の開始時期は早まるのだ。
大学を卒業して、同期とはそれきりの縁になってしまった。就職難だった事もあり、殆どが県を出て行った。雅孝はそれでも、留学という目標を持っていたので一人になったという気持ちはこれっぽっちも起きなかった。それよりも、資金を貯める為の手っ取り早い方法を早く見つけ出す必要にせがまれた。
大学を卒業する少し前に、この工業地帯の工場で夜勤勤務も含んだアルバイトを知った。工場勤務とあるだけでどういった内容の仕事なのかさっぱり分からなかった。別に内容を詳しく知りたいとも思わないのも事実だ。様は時給次第だった。そして、時給の高さにくらくらと欲の目がくらみ、ごく当然の様に面接を受けに行って、問題なく採用されたのだ。
雅孝の父親と同じ年代であろうおじさんが採用の面接を担当した。四角い太い黒縁のメガネが印象に残っている。そのメガネを手でしきりに上げ下げしながら、雅孝の履歴書を読み込んで、たまにちょっと首を傾げたりした。雅孝にはその“傾げ”の原因は大体想像がついていた。
面接官は最初に、「正社員の話ではなくアルバイトの話ですよ」と確認する様に質問した。大学を卒業したてで、どうしてアルバイトを受けに来たのか、その行動パターンが全くおじさんの理解には当てはまらないらしい。きっとそうだろう。世間一般的には当てはまらない。
お金を荒稼ぎする為のアルバイトである。重々分かった上での決断だと思っている。だから、「はい知ってます。アルバイトを受けに来ました」と面接官を安心させるように、はっきりと答えた。
おじさんはそれを聞いて、黒縁メガネをホームポジションの鼻の根元に、ぐいっと人差し指で押し付けた。そして、今度は眉間に細かなしわを寄せた。
吊り橋の部分が終わると、大きく左にカーブを切りながら道路は地上に降りていく。六段まで入れていたギアを五、四段とシフトダウンしていく。CBRのニーハンのエンジンが再び、「ミュンミュン」と大きな音を立てた。
吊り橋から地上へのアプローチ部分になるスロープを降りると、そこは工業地帯の地である。工業をする為の区画である。労働の為の場所なのだ。原料が幾つかの工程を経て、何かの形に成る。その仕組みを司っている場所なのだ。
一つ目の信号でひっかかり、横断歩道の手前で止まった。ヘルメットの隙間をすり抜けて、鉄の臭いと、人工的なツンとする薬品の臭いが進入してきた。その後を追って、潮の臭いとどこかの工場から来ていると思われる、ドーン、ドーンという地響きの様な重量感のある音に気がついた。
雅孝は、ゆっくりとそれらの臭いや音を確かめた。これから、ここが毎日の場所となるのだ。そうすると、臭いもそれほど嫌とは思えなくなる。それでいいと思った。
・
事前に説明を受けていた通り道を走っていくと、工場の駐車場に着いた。駐車場は既に工場の従業員の車だろうか、ゴールデンウィークの遊園地の駐車場の様に一杯になっていた。だが、どこを見回しても、これだけの車があるにもかかわらず、人影は全くない。この先の工場のあちらこちらにこれだけの人々が散らばっているのだろう。そう考えると、工場は大量の人を飲み込む巨大な装置に感じられた。しかし、肝心の工場はといえば、その殆どが、フェンスと植木によってカモフラージュされていて、ノコギリの歯を逆にしたようなギザギザの屋根の一部分しか見えていない。
雅孝は、バイクのスペースを適当に見つけ、駐輪を済ませた。
駐車場の奥にはくすんだ青色のトタン屋根の建物が見える。そこが、これから目指す正門らしい。埋立地に敷かれたアスファルトの歩道は、ひび割れを起こし、所々、雑草がたくましくアスファルトを割って、背伸びをしていた。それをしげしげと見ながら雅孝は正門に向かった。
青いトタン屋根の建物は、やはり正門だった。錆の十分滲み出た鉄骨がコの字に組まれゲートになっていた。その上に青色のトタン屋根が乗っている。
守衛の詰め所は、ゲートの横にあって二畳程の広さの個室が据え付けられている。そこに、意外と若い守衛が、椅子に座ったままジッとゲートの方を見ていた。
雅孝が近づくと、守衛はサッと目線を雅孝に配った。そして、少し歯を見せて「御用ですか」と先に声を掛けてくれた。
雅孝が事情を説明すると、「それなら、こちらですね」と言って、隣にある二階建てのプレハブ小屋を指差した。アルバイトの初日は、こんな風にルート化されているようだ。
プレハブ小屋に入るのは小学校の本校舎の工事で、運動場に建てられた一階建ての仮校舎以来ではないだろう。雅孝にとってはそんなにも縁のなかった構造物は逆に新鮮に見えた。
プレハブ小屋に入ると、カウンターがあって、カウンターの向こう側は事務机が並んでいる。黄緑色の制服を着た女の人が四人くらいいて、一様に書類を見ては、キーボードを叩いている。
髪をポニーテールにしている二十代の女性が、雅孝がカウンターに突っ立っているのに気が付くと、軽い笑みを浮かべて近づいた。
「アルバイト初日の方ですか」
か細い声だが、ハキハキとした口調はしっかりと雅孝の耳に届いた。
その女性の先導で雅孝は再びプレハブ小屋の廊下を歩いて行き、二階に上がった。階段も簡素な作りで、足音が倍になって聞こえた。二階の左手に、簡単な間仕切りで区切られた小部屋があって、そこで待つように言われた。
小部屋には折りたたみ式の机が二台、長い方を向け合うように置かれていて、そこにパイプ椅子が二脚ずつ置かれている。折りたたみ机はかなり使い込まれた物で、少し中央部がしなっていた。
雅孝は、小部屋にある窓から外を眺めた。工場のノコギリ屋根が延々と続いているのが見える。ノコギリの一つ一つは、三十度位の勾配でせり上がっていき、ストンと直角に落ちて、また、落ちた先で三十度の勾配でせり上がるの繰り返しだった。直角に落ちた屋根の部分には、ガラス窓が羽目殺しで付いている。
ノコギリの屋根は整然と海のある方角に向かって続いていた。あまりにもどこまでも続いているように見えるので、先にあるはずの海でさえ、このノコギリ屋根で覆い尽くされているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
程なくして、丸顔に頬がやけにふっくらとした男が入ってきた。べったりと何かを塗りつけた髪はテカテカに光っていて、丁度額の中心できっぱりと分けられている。
男は、不気味な程口角を上げ、「笑顔してますよ」と言わんばかりにニコニコとしていた。
手にはいくつかの束になっている資料ときれいに折り畳まれた薄いグレーの作業服と思わしき物を持っていた。男は工場の総務を担当している中村だった。
中村は雅孝の顔をちらりと見ると、手元の資料に目を落とした。なにかリスト形式で書かれている紙がある様だった。
「始めまして。総務課の中村といいます」
そう言うと、急に顔からニコニコが無くなった。
「おおみち まさたかさんですね。これで、読み方合ってます?」
「はい、そのままで大丈夫です」
「良かった。良く人の名前間違えるんで、ちょっとドキドキするんですよね」と言って、中村スマイルが戻った。
「工場勤務は初めてですか?色々と決まりごとが多いので、最初はちょっと戸惑うかもしれませんが、慣れれば大した事ないですからね。後は怪我の無い様に仕事をしてもらえればいいですよ」
中村はそう言うと、手に持っていた書類と作業服を雅孝の前に置いた。
雅孝の気を一際引いたのは、きれいにたたまれた薄いグレーの作業服だった。決してはっきりとどの色と表現しているわけでない。なんとなく付けられた色に思えた。
作業服の胸の部分には、会社のロゴが刺繍で入っている。これを着れば一発で工場労働者というイメージを持たれる。逆に「工場で働いてます」という、雰囲気を漂わせる為のデザインなのかもしれない。
中村の話は、通路の歩き方等の基本的なルールから始まって、食堂の使い方、駐車場での車の停め方、三ヶ月に一度の健康診断の受け方など、回転寿司の皿の様に次々と話を出してきては、雅孝の前を素通りさせて行った。
雅孝も初めはなんとかそのペースについて行って、理解しようと試みた。しかし、これを一度に全て覚えろ、というのがまず乱暴なのであって、覚える事を期待されても困ると開き直ってしまった。それからは、ただただ、中村の表情をみながら、「なんでこんな髪型をしてるんだろう」、と顔の特徴について深く考えたりした。
雅孝の気持ちを完全に置いてきぼりにしている事を、知ってか知らずか、中村は一通り話を済ませると、ひとまず安心をして、「ほっ」とため息をついた。と、同時に、満面のニコニコ顔を見せた。
中村は最後に雅孝に作業服に着替えるように言った。着替えはプレハブの一階にあるロッカールームを使うように、とだけ教えてくれた。雅孝は作業服など着た事が無いので、ちゃんと着れるのか不安になったが、上着とズボンは別々になっていて、上着はファスナーを上げるだけの作りで至って分かり易く出来ていた。
ただ、新品の為か、折り目がやけに立っている感じがするし、襟元は随分と首に擦れて痛い気がした。これが、仕事をする為の服装で、決しておしゃれや自己表現の為ではない服の基本的な性能なのかもしれないと思った。
会議室に戻ると「ウゥ~」と空襲を知らせるサイレンの様に、長く重くしっかりとしたサイレンが大袈裟に鳴り響いた。その音に刺激されたかのように、工場の至る所の扉が開き、従業員が一斉に出てきた。避難訓練かと雅孝は思ったが、部屋の時計が十二時を指しているのに気が付いて、昼休みだと分かった。
従業員は列を成しては、プレハブ小屋横の平屋作りのコンクリートの建物に入っていく。
彼らは雅孝と同じ作業服を着てはいるが、油の跡が付いていたり、腕まくりをしていたり、上着のファスナーをへそ辺りまで下ろして中のTシャツが見えていたりしている。これが、実践現場での着こなしモードなのだろう。いつかこういった自然な着こなしを自分も出来るようになるのだろうか、と雅孝は思った。
中村は会議室のドアを開けると、「一緒に食堂に行こう」と誘ってくれた。
食堂は、先程会議室から見えた所だった。厨房の直ぐ横がカウンターになっていて、食べたいものをカウンターから注文すると言うルールのようだ。すでに、注文の為に列が出来ていて、丼物や麺類といった具合に列は分かれていた。
カウンターの反対側は、八人が一度に座れるテーブルが、整然と並べられていて、作業服を着こなした人々が、一心に食べ物にありついていた。
食べているメニューを見る限り、どれも普通で言えば大盛りと言うような量が盛られている。
実際、雅孝が注文したカツ丼は、午前中、座る事しかしていない雅孝にとってはとても食べ切れる量ではなかった。しかし、残すのは、さすがに申し訳なく思い、なんとか胃袋に押し込んだ。
周りの従業員は明らかに自分より年上の人でも、雅孝のメニューに更に、うどんを追加して食べている。
食堂はまるで戦場だった。並んで注文するのも、棚に並べられた小鉢を取るのも、席を取るのも、早く食べて食器を返却口で返すのも。全ては数秒の戦いだ。従業員は少しの待ち時間が出来てしまうのを恐れるかのように、相手よりも数秒早く動く必要があるのだ。
中村はその様子の中でニコニコと笑顔を浮かて、雅孝の横でしょうが焼き定食を食べていた。中村はマイペースなのか、がっつく様子はない。
「おおみち君は、こういった所は初めて?すごいでしょ、勢いが」
「そうですね、なんか、こう・・・」
「動物園でしょ。みんな少しでも早く休憩したいんだよ。食べ物はうまいかまずいかでなくて、早くお腹を一杯にしてくれるかが問題なんだ」
中村はそういって、味噌汁をすすった。
「これに馴染めなかったせいもあるけれど、僕は事務職の方に回されてね。それで、ある程度ゆっくり食べられるんだよ。ラインに入ってると、自分の都合は関係無くて、時間で全てが決められてるからね」
それを聞いて、雅孝は不安そうな顔をしたつもりではなかったが、中村は何かを勝手に悟った素振りを見せた。椀をお盆の上に置くと、最大のニコニコ顔を作った。
「でも、おおみち君の行く所はラインというわけではないから、そんなに焦る事はないよ。しまったなぁ、ちょっと脅かしちゃったなぁ」
雅孝の気持ちを中村は勝手に決めて、一人で話を進めていく。確かに、大学の頃、食品加工工場でライン作業のアルバイトをしている同期にライン作業は辛いと聞いていた。でも、何も考えずに同じ事を繰り返すのは、頭を空にさえすれば、あまり色々と考えたくない雅孝にとっては逆に都合のいい仕事なのではないか、と思わせるのだった。
昼の休憩が終わると、雅孝は中村に付き添われて、これから世話になる配属先に向かった。
配属先は工場の随分と奥にあるらしい。中村は、黄色く手塗りされた自転車を手で押しながら同伴させていた。帰りはこの自転車に乗って帰るつもりの様だ。
事務所を出る前に「ちょっと歩くよ」と雅孝には忠告してくれた。
それから、中村はツアーガイドの様に、建屋の横を通る度に「ここでは何が作られている」とか「ここでは最新の技術が試されてる」等の紹介を丁寧にしてくれた。
工場はどこも同じ作りの建物だった。薄いコンクリート製の板が壁に使われていて、屋根はトタン板が貼り付けられている。個性が出るのは、建物の周りを巡っているパイプの数や太さの違い、オプションで、蒸気が出ていたり、巨大なファンが回ってたりという違いだ。ただ一様にどこも騒がしい印象だった。
雅孝が勤務する建物は本当に工場の敷地の一番奥にあった。工場をぐるっと囲んでいるフェンスが、建物の直ぐ傍まできている。フェンスの向こうはどうやら他の工場の敷地の様だが、草やツタがフェンスに襲い掛かるように茂っていて、隣が一体何の工場なのか良く分からない。
雅孝が連れて来られた建物は、今まで見た建物とは少し違っていた。天井が高く、普通のアパートで言えばゆうに三階建てはあるだろう。壁は、波打った薄いコンクリート板を使っている簡素な作りだった。比較的最近出来た建物の様に感じた。油の垂れた後や、コケが生えている所も無く、コンクリートの味気ない質素さが残っていた。
正面には大きな引き戸があって、それは二階部分の高さまで一気に一枚の扉になっている。それがもう一枚あって、引き戸になっている。扉は緑色に塗られていて、何故だか扉だけがくたびれた感じのするペンキの落ち方をしていた。
中村はその引き戸の横にある、アルミで出来た人間サイズのドアに向かった。
雅孝は、いよいよ仕事をする場所に着いた事を悟った。この建物の中に、これから留学資金を貯めるまで働く場所があるのだ。そう思うと、思わず拳を硬く握って閉じた。
中に入ると、外とは違って日陰のひんやりとした空気が作業服の上にジワッと乗ってきた感じがした。
辺りを見渡すと、いくつかの大きな装置が並んでいた。きっと、何らかの意味を持って並べられているのだろう。引き戸の近くにある装置は、巨大な漏斗の様な形をしている。
その隣には、筒状のものが六本、床から一気に天井に向かって直立している。それらは、鉄の枠組みで支えられていた。中央には、レンガで出来た四角い囲いが二つ、床から二十センチ位の土台の上に設置されている。
雅孝は見るもの全てが何をする為の物なのか全く想像すら付かなかった。しかし、大量に何かを作るにはひたすら大きくする必要があるんだな、と思った。
中村はその装置達には目もくれず、建物の左手にある部屋に向かった。部屋と言っても、ベニヤにちょっと化粧用の塗装が施された板で仕切りを作って、そこにドアを取り付けた簡単な作りの部屋だった。
アルミのそっけない扉が仕切りの一角にあり、中村は一瞬扉の前で、足を止め雅孝の方にチラッと目配せをした。雅孝は軽く頷いた。
扉を開けると、中は十畳程の広さの部屋になっていた。部屋自体は建屋の角にある為、窓が二箇所、外側の壁にあり思いの外明るい。
壁に向かって事務机が並んでいて、パソコンが置いてあったり、顕微鏡や試験管の様なビンがたくさん並べられている机もある。
部屋の中は、タバコの臭いが立ち込めていて、日ごろタバコに縁のなかった雅孝は一瞬息を止めないといけなかった。しかし、それも無駄な抵抗と諦めて、タバコの煙入りの空気を一分後には吸っていた。
雅孝と同じ作業服を着た男が三人、あと一人はまだ見たことのない作業服を着た男だった。扉が開いたのを合図に雅孝の方をその四人が見た。
四人の作業服は完全にくたびれていた。色は、随分と薄くなっていて汚れでグレー色を保っていると言っても良いかもしれない。襟は決して首に擦り傷を作る事はありえない程、しっかりとくたびれている。一番上までファスナーを留めなければ、襟は力なしに広がってしまうようだ。
中村は、その四人の前に立つと段取り良く話を始めた。
「今日から、ここでシフトに入ります おおみち まさたかさんです。一応当分は朝勤務という事でやりますが、また状況を見てシフトの編成をお願いすると思います。ではおおみちくん挨拶だけでいいので」
中村はそういうと雅孝より一歩下がった。結果、雅孝がみんなの前に一人立ち尽くす格好となった。
「おおみち まさたかです。よろしくお願いします」
雅孝はそこそこの元気を見せるつもりで、張り上げる手前くらいの音量で挨拶をした。しかし四人は軽く頭を下げるだけで、特に返事は返ってこなかった。
中村はこれで自分の役目が終わって気持ちが楽になったのか、ニコニコ顔がいっそうニコニコになった。
「では、オイサン、おおみち君をお願いしていいかな」
「あ、はい、了解です」
壁際のデスクトップパソコンが乗っている机の前にいた男が直ぐに応えた。細身で、背はそれ程高くない感じだ。その男はヘルメットを被っていて、一つで結んでいる後ろ髪がヘルメットからはみ出していて背中の肩甲骨の辺りまで垂れている。
「では、後はよろしく」
そういうと中村は部屋を出て行ってしまった。雅孝は“オイサン”に運命を委ねるしかなくなった。
“オイサン”と呼ばれた男は、座っていたパイプ椅子をズリズリと擦りながら、中央にある長机に身を寄せた。
「おおみち まさたか君ね。よろしく。俺は及谷。さっきみたいに皆には“オイサン”って呼ばれてるけど。あと、こっちが畑で、ハタ坊。松田のマッチャン。古本さん。あれ古本さんってずっと古本さんですよね」
オイサンは、手馴れた様子でヘルメットのあご紐を緩めて脱ぐと長机に置いた。ヘルメットは至る所に傷や汚れがあった。それはくたびれていると言うより、修羅場を潜り抜けてきた勲章が付いていると言った方が合っている気がした。
オイサンは、背中に垂れているポニーテールに手櫛を通し始めた。
「オイサンが決めてくれんから、“古本さん”のまんまなんすよ。もぉー、意地悪やから」
そう言った古本は違う種類の作業服を着ている男だった。無精ひげを生やし、肩幅は広くがっしりしている。背丈も意外にありそうだ。
「だって、仕方ないじゃないですかぁ。古本さんは一番年上なんだし」
「あぁ、またそうやって傷つく事言う。それ言ったらおしまいやん」
古本は大袈裟におどけた。オイサンは屈託なく笑った。
ハタ坊は終始無言で、オイサン達のやり取りを見ているだけだったが、一瞬だけ「フッ」と頬を緩めた。それが笑いなのかどうかは、判断しにくいがハタ坊にとっては大笑いなのかもしれない。
ハタ坊は口角を持ち上げた後は、無造作に長机の上にばら撒かれている週刊誌を読み始めた。彼もポニーテールになっている。細身なのだが筋肉質で頬がこけ、あごの周りに髭を残している。目の周りの彫りが深い事もあってちょっと外国人ぽい感じもする。危ない感じのイケメンタイプだ。
「オオミチ君は、今何歳??」
古本が傍にあったパイプ椅子を雅孝の方に差し出しながら聞いてきた。
きっと、パイプ椅子に座れ、という合図なのだろうと解釈して雅孝は椅子に腰掛けた。
「今二十二です。」
「てことは、今年大学出たとか??」
「そうです。大学は卒業したんですけれど、就職活動サボったので」
古本はとても驚いた様子で、大きくその巨体ごと頷いた。パイプ椅子がそれに合わせてギシギシと悲鳴を上げた。
「オイサンと同じですねぇ。オイサンも大卒でしょ」
古本はそう言ってオイサンの方を向く。オイサンは、眉間にしわを寄せ、鼻の穴を全開にするようにしながら、顔をクシャッとしてみせた。
「僕は最初の就職口が良くなかったんですよ。今なら辞めてませんけれどね。あの時は世間の辛さって全く分かってない“ペーペー”でしたから」
「オイサンも“ペーペー”っていう時期あったんです??」
それまで黙ってた、マッチャンが不思議そうに呟いた。
「当たり前っすよ。ハタ坊よりペーペーでしたよ」
ハタ坊はいつの間にか週刊誌ではなく、オイサンを見ていた。
「俺よりペーペーって酷くないですか?? かなりウケますよ、オイサンがペーペーって」
ハタ坊はどういった想像を巡らせたのか分からないが、歯を見せ、椅子を後ろにそらしながら笑った。これがハタ坊の大笑いだった。そして、長机にパタンと戻ると、その流れのまま、タバコを取り出し火をつけた。
オイサンはハタ坊をみて、拝み手をした。
「えぇーー、ペーペーから取るんすか」
「この前一本やったじゃねぇか」
「いや確実に、その後一本あげましたよ。これ貸しですよ、貸し」
オイサンはハタ坊の「貸し」と言う言葉には全く耳を貸さず、半ばひったくるように長机の上のタバコの箱から一本取り出した。
「なんか、“マサクン”は目標でもあるの」
どうやら今のオイサンの一言で、雅孝はここでは“マサクン”と呼ばれる存在になったようだ。オイサンは右手で持ったタバコをトントンと左手の甲の上でタップさせた。
「一応、お金貯めて留学しようかと思ってます。映画の勉強でもやってみたいなって考えてるんです」
雅孝はちょっと気恥ずかしかった。他人の前で自分の秘密の計画を話した事は無かった。今日は流れでそうなってしまったが、それでも、言って後悔する気分でも無かった。ここでは、そうやって言い切ってしまった方が楽な気がしたのだ。
「マジで。すごいっすね。海外で映画とか。オイサンと同じじゃないですか」
ハタ坊が、また笑いながらオイサンにけし掛ける。
「俺はお笑いだよ、お・わ・ら・い。しかも、東京で。マサクンのが、もっと高尚だよ」
オイサンはタバコをスッとくわえると火をつけた。
「高尚???」
ハタ坊はどうやら“高尚”の意味がピンと来ない様で、その言葉がグルグルと頭の中で回りだしたようだった。ハタ坊は工場の方の壁をジッと見つめた。
「マサクンは当分、朝勤なんで俺らのチームと一緒って感じかな。後は、夜勤やってるチームに二人と休みを取っているのが二人いるからね。彼らはまた追々紹介するよ。じゃ、ちょっと仕事の説明がてらうちの建屋見ておこうか」
オイサンはそう言うと、扉の横にある人の背丈位まで三段で積み上げられたスチール製のロッカーからプラスチックの覆いの付いたメガネと、映画で戦闘機乗りがしているようなゴム製のマスクを取り出した。どちらも新品らしく、ちゃんと袋に入っていた。オイサンは雅孝にそれらを渡した。
「建屋の中で、詰め所以外は基本防塵マスクしてね。あと保護メガネ。安全担当に見つかるとうるさいから」
雅孝は渡されたマスクを見てみると、“防塵タイプ”と書かれている。
ヘルメットを被り、保護メガネを掛け、防塵マスクをすると、周りから随分遮断された感じになる。それと一緒に、この装備があればどんな所でも大丈夫そうな気持ちになった。
雅孝は、ゆっくり呼吸をしながら、防塵マスクというものがどういうものなのか、なんとなく試してみた。防塵マスクは、口と鼻を完全に覆ってしまうような形をしていて、口にあたる部分は青色のゴム製だった。しっかりと肌に密着して隙間が無くなる。その代わり、丁度口に当たる部分の反対側に丸いカートリッジが付いている。全ての空気はここから入ってくるのである。その時にカートリッジの中のフィルターに塵は捕まり、空気だけがマスク内に入ってくる仕組みのようだ。
雅孝はマスクをつけると、詰め所の中のタバコの臭いが明らかに変化をして口元に届いて来るのに気が付いた。タバコの臭いは不思議と焚き火の時の、木が燃えてるような香ばしい臭いに変化していた。
保護メガネは、厚いプラスチックで出来たメガネで、近視用のメガネの様に度は入っていない。メガネのレンズ部分には塵の侵入を防ぐためのプラスチックの板が覆うように付いていて、防塵マスクまでとはいかないがある程度顔に密着する。こうやって外からの塵の進入を有効に防ぐ仕組みになっているようだ。
オイサンはさすがに慣れているので、ヘルメット、保護メガネ、防塵マスクの三点セットを装着するのに二十秒も掛からない。
フル装備で雅孝はオイサンの後について建屋の方へ出て行った。
建屋の中は大型装置達のうなり声と装置の出す熱で、あちこちが危険に満ち溢れた空間に思える。
最初にオイサンが連れてきたのは、入り口近くにあった大きな漏斗の様な形をした装置だった。
「これはスプレーっていって、あそこの床のポリバケツに入ったオレンジ色の液を上に吸い上げて、そこからスプレー状に噴出して、一気に乾燥させる装置。乾燥した粉は下に落ちてきて、漏斗の様に集められて、それをポリ容器に集めると出来上がり。ほらこれがそう」
オイサンはそういって、通常使うバケツより大きめで、ねじ込み式の蓋のあるポリ容器を取り出した。半透明のポリ容器の中にはサラサラとした、オレンジ色の粉が詰まっている。
「これ一本で百万位はするからね。大体、スプーン一杯で俺らの時給とおんなじ位」
オイサンは平然と言ったが、雅孝にはどう見てもその粉が百万の価値がある様には思えなかった。それでも、何らかの意味があってそれだけの値段が付いているのだから、深くは考えなくとも取り扱いは注意しておくのが良い事は十分理解できた。
オイサンは、ポリ容器を無造作にスプレーの下に置いた。そこにも同じポリ容器が三つあって、オレンジ色の粉が満杯に入っている。つまり、ここには今四百万の得体の知れないオレンジ色の粉があるのだ。いよいよ理解に苦しむ。それが床の上にポリ容器に入れられて置かれている。なんだか、豪快すぎて愉快になるべき状況な気がしてきた。
オイサンは次の装置の所に向かった。それはこの建屋で一番背の高い装置で、ひょろ長い円筒形の筒が六本並べられている。その筒に沢山の計測器とスイッチとランプがぎっしり並んでいる操作盤が取り付けられている。筒は頑丈な鉄枠で囲まれていて、はしごが取り付けてあって、筒の上に登れる作りになっている。
「ここに、さっきのポリ容器を持ってきて、上からオレンジの粉を入れて、約五百度で八時間加熱する。そして、下から取り出して、またポリ容器に戻す。それがこれね」
操作盤の下に、またポリ容器が無造作に五本置かれていて、さっきと同じポリ容器なのだが、中には緑色の粉が入っている。
「これ今度は緑ですね」
「そう、八時間焼くとオレンジから緑になるんだよ。どうしてかは聞かない」
オイサンはそう言って笑った。どうやらここでは「どうしてそうなるか」というのは問題ではないらしい。決められた手順で高い粉を高いという意識無しに装置にセットし、時間が来たら取り出して、次の装置に持っていって、またセットする。その繰り返しをすれば良いのだ。
「あ、ちなみにこれ、タワーね」
雅孝はタワーと呼ばれる装置を見上げた。上には少しの広場があって、登って作業が出来そうである。オイサンは次の装置の所に進んでいった。
「で、これが棺桶ね。さっきの緑の粉を今度は三百グラムずつ網の上に置いて伸ばす。それを、棺桶の中の鉄の枠の台に並べて、三列四段出来たら、蓋を閉めて十二時間加熱する」
棺桶といわれる装置は、建屋の中央に位置していて、二台同じものが並んでいる。耐熱煉瓦で長方形に囲まれた装置で、電熱線が中には張り巡らされている。三列四段に積む為の鉄の枠が中に並んでいる。鉄枠は赤茶げているのが、所々どす黒くなった様な色で、毎回の高熱地獄が過酷なものだと言っているように見えた。
「これで、焼き上がったら、三キロずつをひとまとめにして、向こうの部屋でポリバケツに入れて液と混合させる。で、後はそのポリバケツを保冷庫に持っていって出来上がり。これがここでやってる一連の流れね」
オイサンはそういうと、手で合図をして、詰め所に戻るように雅孝に促した。
雅孝は言われるままに、詰め所に戻った。詰め所にはマッチャンもハタ坊も居らず、どうやら作業でどこかに行ってしまったようである。
「どう、変な仕事でしょ。オレンジが緑になるかとか」
「そうですね、液体を乾燥させたのに、最後にまた液と混ぜるなんて、なんだかすごく無意味な事してる感じがしますね」
オイサンはハタ坊が無防備に置いて行ってしまったタバコの箱から一本を取り出し、火をつけた。
「そうだね、俺もどうしてそんな事しないといけないのか、全く知らないんだよね。ただ、セットして時間になったら取り出して、中を掃除して、また次をセットして。それの繰り返し。だから、何も考えなければ楽だよ、この仕事。何作ってるとかは、もうどうでもいい話だから」
オイサンは、笑いながらタバコの煙を勢い良く口から吐いた。
「あとは、途中検査用にサンプル取りをして、測定して、その結果を台帳に記入する。詳しいやり方とか操作方法は追々教えるから大丈夫」
「ありがとうございます。工場の仕事ってどんなのか、心配だったんですけれど、やれそうです」
「そうね、ここのはライン作業とは違うからね。ここは工場って言っても、気晴らししやすい方かもね。夜勤の時は社員もいないし、自転車で工場内走り回っても文句言われないし」
「みなさんはご飯はどうしてるんですか」
「今日は食堂だった?あそこ使ってもいいし、大体皆はカップラーメンとかコンビニ弁当持ってきてここで食べてるよ。食堂はどう?」
オイサンはタバコの灰を灰皿の淵で、軽くタップをして落とした。
「おいしかったですよ、すごく」
雅孝はさっき無理やり完食した普通で既に大盛りだったカツ丼思い出した。
「あそこね、社員はバイトの三分の一しか払わなくていいの。福利厚生でね。俺らバイトはそのままの金額だから、殆ど使わないんだよ」
「え、そうなんですか。そうか、今日は中村さんが払ってくれたから」
「初めは何度か使うんだけどね、直ぐに三倍払って同じものを食べてる事がバカらしくなってくるから。結局、みんな詰め所で食べるのが一番ってなってくるんだ」
オイサンは笑いながら、またタバコの煙を吐き出した。
「あと、建屋毎に管理する担当の社員が決まっていて、製品に不具合があればその社員に報告する。普段は事務館にいて一日に二、三度しかこっちには来ないけどね。後は、自由にここでは出来るよ。あのハタ坊でも一人で夜勤回してる時もあったから」
すると、詰め所のドアが勢い良く開いた。防塵マスクを被ったハタ坊だった。ハタ坊は、頭の後ろに掛かっている防塵マスクのゴム紐を勢い良く外した。保護メガネは息のせいで少し曇っている。
「オイサン、やばいっすよ。スプレーの回収率が良くないっす。なんか、俺やったかなぁ」
「数値は何ぼやったの?」
「八七ですね」
「そか。だったら、この前の失敗品、あれ混ぜよう。確か倉庫にあったろ。あれ、回収を失敗しただけで、中身は良品だから」
ハタ坊は何かに弾かれた様に大きく頷いた。
「あぁ、そっか。その手があった。上に報告します?」
「やめとこ、“ミツ”が知ったら、またとやかく言いそうだから。次のスプレーの時、気をつけて回収率上げれば大丈夫。ノズルの近くの粉もしっかりと回収品に入れると数値は上がるはずだし」
二人の会話を雅孝はしっかりと聞いていた。これから自分が使う様になるかもしれない専門用語を一つでも聞き漏らさずに覚えようと思ったからだ。分からない事は、早めにオイサンに聞いておいた方がいいと思ったのだ。
ハタ坊はマスクを付けると、詰め所を出て行った。
「“ミツ”って何です?」
雅孝はさっきの会話で、“ミツ”だけが全く理解できなかった。
「あぁー、それは社員ね。ここの担当の社員。まぁー、バイトにはそんなに色々と文句は言ってこないんだけれど、数値が悪いとその上が文句言ってきて、それで結果的に俺らが仕事にならん仕事をさせられる事になるから。つまりデータ取りとか、建屋の一斉掃除とかね。意味無い事をとにかくしたがる連中が上には沢山いるからね」
オイサンはそういって、詰め所の壁の方をチラッと見た。どうやらその方面にその連中のいる事務館があるのだろう。
「よし、今日は装置の紹介はやったから、作業報告書の作り方をやっとこうか」
オイサンはそういうと、壁際に並んでいる机に向かって座り直した。その机の上には本立てがあって、そこにペーパーファイルが十冊程並んでいる。良く見ると、背表紙にはさっき説明を聞いた装置の名称が“スプレー”や“タワー”といった具合に書かれている。
オイサンはノック式のボールペンを引き出しから取り出した。そして、“スプレー”と書かれたファイルを本立てから引き抜くと、机の上に開いた。パラパラとページをめくる。そこには、折れ線グラフと、下にいくつかの枠が書かれた専用の用紙になっていて、ページによっては既に折れ線と数字が既に書き込まれている。
「これが回収率ですか?」
雅孝はさっきの会話から生かせる言葉を掻い摘んでみた。
「正解。やるねぇ。これが回収率。そして、これが投入量と回収量。九十パを下回ると回収率が悪いって事になる訳ね」
オイサンはそういって、折れ線グラフの九十パーセントラインを指でなぞった。そして、ボールペンのノック部分を押した。カチッと言う乾いた音がした。
・
工場勤務が始まると、毎日があっという間に過ぎていった。
慣れない事だらけだった。自分の背丈より遥かに大きな装置や、今まで考えた事もない高温を発する機械達は想像を超えて遥かにパワフルだった。そして、雅孝が分かったのは自分の身をそこではただ任せるのが良いという事だった。
雅孝の感じる一日の時間というものは、まるでビデオを早送りにしているような感覚で進む。しかし、それだけでない。実際はそこまでサラサラでなくて、もう少し抵抗感があって、丁度、川やジェットバスの様な流体の中にいる感覚だ。逆らわずに身を委ねなければ、力ばかり消耗する。だからちょっと諦めて、流れに乗って下流に押されていく。その中で自分がすべき事は、心のペースがある一定以上乱れないように保つ事だった。
時間の流れに体を任せていると、いつの間にか一ヶ月が過ぎてしまった。
オイサンが言っていた通り、ここの作業は一旦覚えてしまえばそんなに難しくない。
時間になったらヘルメット、保護メガネ、防塵マスク、軍手を身に付け、完全装備で建屋に出て行く。装置から製品を取り出して、掃除をして、材料を入れて、また装置を起動する。これの繰り返しだった。
今までやってきたアルバイトでも、これ程分かりやすく、覚えてしまえば後はやるだけという仕事は無かった。コンビニにしても、引越しにしても、一度基本的な所を覚えても、毎回お客が変わればシチュエーションも変わる。場所が変われば、やり方も変わる。常に臨機応変な態度が必要となっていた。しかし、ここは違った。雅孝はここでの単純作業が好きになっていた。自分には合っているのかもしれない。このまま、ここで働き続けるのも悪くないと感じたりもするのだった。
雅孝の作業の習熟度も上がってきた事もあり、一ヶ月が過ぎると、夜勤のシフトにも組まれるようになった。
夜勤は昼間の勤務とは違って、作業人数が基本的に二人だ。勿論、夜勤なので仮眠などという時間は無いのだが、装置達のタイミングが良ければ、空き時間が出来て、三十分位寝る時間ができる。
夜勤を始める時、第一の鉄則として「何かあった時は、どんな時間でもいいので社員に連絡する」だった。
この建屋の場合、ミツに連絡をする。普段のミツはなかなか愛想良かった。アルバイトの前では、悪態をつくことは無い。でも、何故かアルバイト仲間からは嫌われていた。
年が五十半ばで、アルバイトの平均年齢は軽く二五を切っている。世代間の違いとまとめてしまっても良いのだが、どこかミツにはアルバイト組みと相容れない雰囲気が滲み出ている感じがした。
ミツが、雅孝に話しかけてきた事があった。スプレーの掃除をしていた時だ。スプレーの掃除には、強力な水圧を持つジェット洗浄機をスプレーの漏斗状になった部分に持っていき、こびり付いて落ちてこなかった製品の粉を水の勢いで落とす。
この作業は他のどの装置の中でも抜群に汚れる作業だった。製品のオレンジの粉が水と混ざり合い、それが保護メガネを掛けた顔や作業服に飛び散ってくるのだ。しかし、その飛散を避ける事などできない。スプレーの中では片ひざを立てた状態で、滑り落ちないように体を支える必要があるからだ。スプレー内の洗浄が終わるまで、ひたすらオレンジ色の汁に耐えるのだ。ついでに、スプレーの中は余熱で蒸し暑く、直ぐに保護メガネも曇ってしまって視界も特別悪いのだ。
「どうだい、仕事には慣れたかね」
ミツはスプレーの上部の投入口に登っていた。
雅孝はミツの言葉が空耳の様な気がしてジェット洗浄を続けた。
「おーーい、マサクン。なかなかいい動きだ」
雅孝はそこでようやく、人間の声が背後からしていると気が付いた。直ぐにジェットのスイッチを切る。ジェット水流は力なく、シャワシャワと短くなっていって、最後は水滴がポタポタと垂れた。
「あ、ありがとうございます。オイサンに色々と教えてもらって慣れて来たので、上手くできてます」
「大学ではなかなかこういったのは習わんかったでしょ」
ミツはニコニコしながら言った。
「そうですね、工場での仕事を想像した事無いですからね」
雅孝は防塵マスク越しで話していると思うと、声を張り上げて言い返した。
「僕もね、大学出たんだよ。君とは違ってもう随分前だけど。その時にまさかこんな“粉”相手に仕事するなんて思わなかった。まぁ、これも仕事だから、文句を言っても仕方ない事だけれどね」
「そうですね。どうなるか分からないものですね」
雅孝はミツと目がじっくり合ってしまい、ちょっと戸惑った。それはミツも同じだったのかもしれない。「悪かったね、作業中に。気をつけて作業続けるんだよ。災害だけは無い様にね」と言うとミツはスプレーの横に取り付けてある梯子を降りていった。ミツのヘルメットの横には「安全第一」のシールが張られていた。
雅孝はこの仕事をやり始めて、大卒が工場で仕事をする事が世間的にこうも不思議がられるものなんだと知らされた。
今まで周りには大学を卒業する友達しかいなかった。高校が進学校だった事もあるだろうし、大学に行けば知り合うのは大学生で、基本的には大卒になる訳だ。
オイサンは大卒だが、この建屋の他のアルバイトメンバーは大学には行ってないだろう。
ハタ坊に至っては高校もどうなのか、良くわからない。
休憩の時は、飲みに行った時の話しや、女の子の話で皆で盛り上がっている。同じ空間にいるのだけれど、どこか社会の仕組みとしては大学と言うキーワードで分け隔てを作るのが当然だとされているのだ。雅孝にとっては、それはとても不思議な感覚だった。
だからという事ではないが、雅孝はミツの事を特別嫌だと言う気持ちは沸かなかった。もし、そこで沸くようなら、今度は自分が他のアルバイトから嫌われる可能性を自分で増やしている事になりかねない。しかし、逆にナツクとなるとミツ側の人間として括られる事になるので、それも、絶対にタブーである。結局、ミツとは近からず遠からずの距離で接していく事が今の雅孝にとっては重要だった。
ある日の夜勤の事だった。
タワーに粉を入れ終わって装置のスイッチを入れると、次の作業までは一時間位の空き時間が出来た。
一緒に夜勤をしているのはオイサンだった。この一時間を寝るのか、バカな話で盛り上がるのか。時間を潰す方法は自由だった。
夜食の時間も夜勤の楽しみだった。夜勤の時間帯、食堂は開いていないので、出勤前にコンビニなどで予め買っておいた物を食べる。大体はカップラーメンだった。
しかし、今はまだ夜食を食べるには、早すぎる時間だ。
詰め所のドアが開いた。オイサンが「ふぅ」とため息をつきながら、防塵マスクを外した。ブルーの液を作る工程でサンプルを取って小瓶に詰めていたのだ。青い液体の入った小瓶を机の上に置いた。
「タワーはどう?上手くセットできた?」そう言ってパイプ椅子にどかっと腰を下ろし、それと同時に長机に置いてあったタバコの箱から、タバコを取り出した。
「出来ましたよ。次は棺桶なんで、一時間位は待ちですね」
オイサンは、煙を吐き出しながら軽く頷いた。
建屋の方からは排煙装置のファンの音が、まるで雅孝が小さい頃、近くの飛行場で聞いたセスナ機のプロペラの様に聞こえていた。タワーからは、粉を混ぜる為の空気が勢い良く吹き出している音がしていた。夜中でも、この建屋は騒音だらけだった。
「そっか、飯にはまだ早いし。よし、マサクン。俺と一緒に、ちょっとツーリングするか。サンプルを測定しないといけないし。サンプル測定はまだやった事ないでしょ。それついでに」
「ツーリング?ですか」
「そうそう、自転車で、たぁーっとね。まだ、外は暑くないから丁度いいよ。楽しい所も案内するし」
「なんすか、それ。行きます。でも、何があるんです?」
「行ってみてのお楽しみ」
オイサンはそういうと、サンプルの小瓶をひったくるように長机の上から取り上げて、ヘルメットを手際よく被って詰め所を後にした。雅孝も遅れないようにヘルメットを手に取って付いていった。
詰め所を出て装置達を確認する。建屋の天井に三列で並んでいる蛍光灯が、無機質に機械を照らして、装置に塗られた緑色のペンキが、昼間以上に艶々とした緑色に見えた。この建屋を離れたとしても、この装置達は、黙々と働き続けるのである。
大卒が、高卒に指示を出して作業をさせ装置を動かさせる。高卒は装置に原料を入れ装置に製品を作らせる。装置は、製品が出来ると高卒にそれを回収させる。高卒は回収した時のデータを作業報告書に記入し、大卒に確認してもらう。これがこの工場の流れだった。
雅孝は確かに少し間違った場所に自分が来て働いているのではないかと考えたりもした。しかし、直ぐにそんな事を考えるのは何の意味にもならないと決め付けて、極力頭に浮かばないようにしている自分がいた。
建屋の外には、専属で与えられた緑色のペンキを塗った自転車が五台あった。工場内は広い事もあって、仕事中は誰でもこの自転車を使っていい事になっている。昼間は、ひっきりなしに使われる為、五台が並んでいるのは夜勤ならではだ。
オイサンは自転車に飛び乗ると、勢い良く漕ぎ出した。雅孝も負けじと自転車のスタンドを蹴り上げて、オイサンの後を追った。オイサンが工場の通路に設置された街路灯の下を通る度、その体がまるでスポットライトに照らし出されている様に暗闇に浮かんだ。その後を雅孝は追っていく。
通路の両サイドには他の建屋があって、そこかしこで蒸気が吹き出していたり、ベルトコンベアが動いたりしている。昼に比べると、周りが静かな事もあって、工場が作り出す音の一つ一つがより鮮明に聞こえてくる。
何かの音がする度、雅孝はその音の発生源がどこか、建屋に取り付けられた窓に目をやり、装置を探ってみた。しかし、大体は分からず、その内に次の建屋が来てしまうのだった。
「ストォーップ」
オイサンが急ブレーキで自転車を止めた。雅孝は危うく後ろにぶつかるところだった。思いっきりブレーキを握る。後輪が少し浮きそうになった。
「ここの建屋、何やってるか分かる」
オイサンはそういって右手にある一際大きな建屋を指差した。建屋の入り口は大きく開いており、中の様子が良く見えた。そこには直径二メートル位の鉄で出来た巨大な筒が斜めに設置されていて、まるでハムスターのおもちゃの様にグルグルと回転していた。回りながら「ゴゥンゴゥン」という鈍い周期的な音を発している。
「いや、全く分からないですね」
「ここは、製鉄所で使う材料を作ってる所でね。あそこの筒の中で材料をかき混ぜながら、向こうに送っているんだ。その後は良く知らないんだけれどね。まぁ、製鉄所が必要としてる何かを作ってるんだよ」
相変わらず、この工場で作っているものが何なのか、結局はっきりとした答えはどこにも無いのである。
「あの筒になってる所で、去年、一人死んだんだよ」
「えっ、死んだんですか?」
「そう、あの筒に材料が引っかかって、動きが悪くなって。で、その時の夜勤者が長い柄のほうきを持って行って、回ってる筒の中にそれを突っ込んだらしい」
雅孝は人が死んだ現場を見るのは初めてだった。テレビのニュースや新聞で見るのが当たり前だと自然に思っていたからだ。それが、直ぐ目の前がその現場と言う事を実感するには少し時間がいる気もするし、「えっ」と驚きはしたとしても、そこは工場の風景の一部であって幾分も特別な場所には思えなかった。。
「で、袖口が筒に引っかかってグルグルと持ってかれたらしいわ。その頃は夜勤を一人でしてたから、結局、朝勤が来るまで誰も気が付かなかったらしい。腕は無くなってたって」
「無くなった腕はどうなったんですか」
「それは、多分製品になったって事よ。その頃のロットの出荷はしてしまったって言ってるし。大体、どの建屋も一人、二人死んでる。今から検査機借りいく所も五年位前に人死んでるし。俺らの建屋位だよ、死人出てないの。まぁ、安心して」
オイサンは、「はははっ」っと軽く笑うと、自転車を急発進させた。雅孝はこの場で一人にはなりたくなかったので、トップスピードで追いつこうとペダルを力の限り踏んだ。
・
「マサクン、こっち来て、これ見てみ」
普通の建物で言えば三階部分になる位の高さに、鉄の網とパイプだけで作られた通路があった。その、一角に雅孝はいた。オイサンは、その一角に据え付けられた事務机の前に座っていた。そして、顕微鏡を覗き込んでいる。
雅孝がいる所は高台になっているので、そこから工場の中を見ると、まるでSF映画に出てくる近未来年の旧市街地と言った感じだった。天井からはチェーンがひっきりなしに上下し、下ではシューっと音を立てて勢い良く蒸気が噴出している。各装置に取り付けられた小窓からは、燃え上がる炎が作り出す橙色が激しく揺れている。
ここの建屋に雅孝が来たのは初めてだった。
サンプルの小瓶から少量の青い液をスポイトで取り出し、顕微鏡の下にある小さな台の上に垂らした。顕微鏡の横にあるボタンを押すと、電気がついて小さな台がパァッと明るく光った。
オイサンは顕微鏡を覗き込んで、今度は顕微鏡の下についているダイヤルを回した。
「マサクン、これ何だと思う」
オイサンはそういって、顕微鏡から目を離し、雅孝に場所を空けた。
雅孝は顕微鏡を覗き込んだ。こんな事をするのは小学校以来ではないだろうか。なんだか、顕微鏡を覗くという行為が、凄く魅力的な動作に思えた。
顕微鏡をのぞくと、少し粘度の高そうな透明の液体の中に、球体のツブツブが沢山あった。ツブツブは鮮やかな青色をしているが、顕微鏡の下から当てられている明かりによって、それが半透明であるのが分かった。とてもきれいなツブツブだった。
「これが、俺達が毎日作ってる粉の正体だよ」
「これがそうなんですか。初めて見ました」
「これは一つ一つが小さな小さなプラスチックの粒なんだ。めちゃくちゃ小さいからね、丸くするのが難しいんだよね。で、これが体に入ると厄介なんだ。防塵マスクが無いと、これがスッと肺に入ってきて、そのまま死ぬまで居座るわけよ」
「出ていかないんです?」
オイサンは大きく首を横に振った。
「出ていかない。死ぬまでどんどん蓄積されるから、増えても減る事はない」
「体に害はあるんです」
「呼吸器系がやられるのと、言語障害とか起こったりするらしい」
雅孝は、顕微鏡から弾かれたように目を離した。
「言語障害ですか?」
「そう、まぁ、噂で言ってるだけだけど、ありえない話じゃない。だからこの仕事は二年以上はしてはいけない。皆、二年で辞める。そうしないと自分が危ない」
「二年ですか」
「そう、それでも、二年でもどうかなぁって位の時間だけれどね」
雅孝はこのアルバイトが自分には合ってるとさえ思い、長く続ける気持ちも芽生えてもいた。しかし、自分の想像に反して、二年と言うタイムリミットを突如突きつけられ、心は「シューシュー」と勢いよく水蒸気を発しそうだった。
「まぁ、計画持って辞めれば心配ないさ」
オイサンはそう言って、サンプルの小瓶を作業着の胸ポケットにしまった。
「よし、お楽しみに行こう」と言うと、厚めの板とパイプで出来ている簡素な作りの梯子をオイサンはスルスルと降りた。雅孝も後に続いた。
自転車を漕いでオイサンの後を追う。オイサンは工場の端の方へ向かっていっているようだ。ここも雅孝はまだ行った事の無いエリアだった。
柱が通路のど真ん中に等間隔で並んでいる場所に差し掛かった。柱はその上に不自然に設置されている巨大なタンクを支える為にあるようだ。廃材になった線路を利用したのか、柱の形はカタカナの“エ”の様になっている。寝かせて使うものが立てられている様子はどこか愛嬌があった。
オイサンはその柱の間をスラロームしながら抜けていく。実に優雅で無駄の無いハンドルさばきで自転車を操りスラロームを繰り返す。雅孝も真似をしてみたが、オイサンの様にスピードを出せば、柱にぶつかりそうになるし、スピードを緩めれば勿論オイサンに差をつけられてしまう。
オイサンのテクニックは尋常でない事が良くわかった。雅孝も練習をすればここまで出来る様になるのだろうか。
ひたすらオイサンに付いてきたので、工場の中をグルグルと何周も周った様な気がする。
事実、工場の通路は複雑に入り組んでいて、どの通路も一緒に見えて、実はそうでなかった。
浄化槽が無理やり通路の真ん中に設置されていたり、原料の置き場になっていたりで、自転車では通れない通路が所々にあるのだ。
オイサンはそれを知り尽くしていて、そこを避けて一筆書きの様に、目的の方向へ進んでいく。雅孝は、何とかその道順を覚えようとしたが、今、もし一人で帰れと言われても無理だと思った。
オイサンが急に自転車を止めた。
目の前には茶色く錆びた鉄のフェンスがあって、そのフェンスに沿って木が植えられていた。雅孝はここがどういった場所なのか全く分からなかった。
「フェンス越えるよ」
そう言うとオイサンは、自転車のスタンドを立て、フェンスをよじ登り始めた。雅孝も同じ様にフェンスを越える。こういったアスレチックな事をしたのは記憶に無い位昔の話だ。
フェンスを越えた先は、倉庫が立ち並ぶ海岸沿いだった。
倉庫がひっそりと並ぶこの場所は、さすがに機械の音も届いて来なく、ひっそりとしていて、所々に日傘のようなものが取り付けられている街灯のボンヤリとしたオレンジ色の明かりが、その足元近辺だけを照らしていた。
岸壁は車止めが要所要所にあるだけで、その先が海になっているのであろうが、簡単にそうとは想像できない。海は至って静かだった。
目が暗さに慣れてくると、タールのようなヌメッとした海面が、対岸のコンテナターミナルの明かりをキラキラと反射しているのに気が付いた。
コンテナターミナルでは、巨大なクレーンがゆっくりとその巨体を動かし、赤ランプがピカピカと光っている。眠らない場所が対岸にもあった。
オイサンは、この倉庫しかない殺風景なこの場所で唯一、見せ付けるかの様に明るく光っている方へ向かった。
そこには自動販売機が二台並んでいた。ディスプレイからの明かりが、この暗闇の中ではまるで、繁華街にある、心をコチョコチョとときめかせるネオンと同じ様に見えた。
雅孝は商品のディスプレイを見て直ぐに、この自動販売機が普通でない事がわかった。
「あれっ、見たこと無い飲み物ばかりですね。なんすかこれは」
雅孝は、コーラでもスプライトでもファンタでも無い、初めて目にするジュースのパッケージに、一気に興味を惹かれた。
「これは、全部海外から入ってきたジュース。ここら辺でそういったジュースを取り扱ってる業者があって、売れ残りとかをここで出してるみたいなんだ。だから、どれも一度お目見えしても品切れになると次に飲めるかどうか分からない。だから毎回心して飲まないといけない。心するのは、味も同じだけれどね」
そう言いながらオイサンは、ジュース缶の絵柄を真剣に見つめている。中身が炭酸系なのか、それとも果汁系なのか、そこだけでも見極めようとしているようだ。
「面白いなぁ。オイサンのお薦めは今日は無いですか?」
雅孝も隣の自動販売機のディスプレイに置かれている缶を真剣に見ていた。ディスプレイは二段に分かれていて、そこに、見慣れない缶がズラリとサンプルで並んでいる。
メタリックグリーンに包まれて、そこに爆発したようなオレンジ色のロゴで『smash!!』と書かれていたり、毒々しい赤色の缶にはドラクエのスライムに足が生えた様なキャラがベロンと舌を出している絵が書かれている。外観からは全く中身を想像できない。ロシアンルーレットそのものだった。
「最近の流行は、この青色のやつだなぁ。もうこれは定番になって、ここ半年はずっと売られてるわ。夜勤にはもってこいだよ。眠くならない。でも、家に付く頃にむちゃくちゃ眠くなって、そのまま落ちてしまうけれどね。薬が切れるって感じ何やろね」
オイサンはそういって、上の段の青色の缶を指差した。
「でも、マサクンは今日はこれは駄目。他の奴で、ちょっと運試しする事。青いのはいつでも飲めるから」
そういって、オイサンは百円を雅孝の自動販売機に入れた。カラカラと硬貨が落ちていく音がして、音が止まると、サンプル缶の下の赤ランプが一斉に点いた。「気持ちが決まればいつでも押せ」と言っているようだった。
雅孝は、考えても仕方ないので、ここは直感で行く事にした。メタリックグリーン缶に決めた。ボタンを押すと、至って普通の自動販売機と同じくガシャンと音をさせて、下の受け取り口に缶が落ちてきた。
オイサンも青色の缶以外のものを選んでいるようだった。
夜勤ではこういった小さな楽しみが、最高の幸せに繋がる。
夜食の時間もそうだし、建屋の外で朝勤務のメンバーを待っている時に、工場のノコギリ屋根の間から顔をのぞかせる朝日。それらが、滅入っている気持ちのベースを持ち上げ、普通の人が寝ている間に働いていると言う行為に対して、それは何処か意味があり、とても価値のあるモノに変えてくれているかのようだった。
雅孝は、缶の口を開けた。プシュッと炭酸の抜ける音と一緒に、泡が飲み口からあふれ出てきた。急いで泡をすする。パチパチとしたキツイ炭酸の刺激が口にワッと広がった。
「これ、めちゃくちゃ炭酸きついですよ。味は、なんか薬みたいな味だし。凄いな。こんなの海外では飲んでるんだ」
オイサンは雅孝のウブな反応に爆笑した。
「これから、マサクンが行こうとしてる所は、そういった飲み物で溢れているんじゃない?今のうちに慣れとかないと」そう言って自分の缶を開け、一口すすった。
「そうでしたね。そうかぁ、いい練習になるなぁ。夜勤の時はそうします。今日のオイサンのは大丈夫なんですか」
「いや、やばい。なんか、野菜をすり潰したみたいな味がするわ、これ。炭酸なのになぁ。絶対にハタ坊に飲ませよ」
オイサンはまだ中身が残っているにも関わらず、ジュースを自動販売機の横のゴミ箱に捨てた。オイサンのあまりの諦めの早さに雅孝は笑ってしまった。オイサンも首を左右に振りながら笑った。
対岸の巨大なクレーンは休む事無く右に左にと巨体を動かしている。
「あのクレーンの所では一体何人の人が今働いているのだろう」雅孝はきっとどうでもいい事なんだろうが、気になったのだった。
・
朝勤、夜勤は一週間ごとに交代する。夜勤から朝勤に交代する時は大体二日の休みが入る。それが、基本のローテーションだった。ただし、それはあくまでも基本で、そうならない時の方が多かった。
雅孝はオイサンと夜勤をした後、三日程朝勤をしたが、次の日からまた夜勤が出来ないかミツに頼まれた。
「マサクン、すまないが明日からまた夜勤でやってくれんかい。三日夜勤やって、二日休みで、また朝勤って感じになるけれど、いいかね」
こういった突発的な事をするから、ミツはアルバイトに嫌われるのだ、と雅孝は思いながら、それでも、それは他のアルバイトが嫌がっているだけであって、雅孝にとって全く怒りの種にはならなかった。それは、ある程度自由の利く夜勤は嫌いではなかったし、第一、手当てが付くのが良かった。朝勤に比べると、時給で三百円。一晩で三千円位の手当てが付くのだ。急ぎで資金を貯めたい雅孝にとっては都合がいいのだ。
雅孝はミツの申し出を簡単に受けた。
しかし、ミツが詰め所を去った後、ハタ坊が一番に文句を言い始めた。
「なんすかね、いきなり夜勤って。マサクン言った方がいいっすよ。嫌だから、やりたくないって。俺だったらまず受けないっす」
「それは、夜勤だと女子寮の彼女が怒るからだろ」
古本が、缶コーヒーを飲みながら笑って横槍を入れる。
「それ、重要っすよ。女が待ってますからね」
そう言ってハタ坊は自慢のロン毛に手櫛を入れた。
「ハタ坊、お前はいつもカッコいいよ」
オイサンが茶化すように言う。しかし、ハタ坊はさも当然の様な顔をしていた。そして、データ表に数値を記入し始めた。
雅孝は、夜勤の時はなるべくギリギリまで寝るようにしていた。夜勤は夜の七時から始まる。だから、五時までは最低でも寝ている。しかし、今日はアメリカの大学を調べていて、気が付いた時には昼を回っていた。それから、直ぐに寝たものの五時間しか寝ていない頭は、いつに無く頼りなかった。途中、吊り橋の料金所でチケットを渡さずに行こうとしてしまった。
雅孝は夜勤のどこかで、一眠りできればありがたいと思った。
詰め所に付くと、朝勤のオイサンとハタ坊達が帰り支度をしていた。今日はこれから朝勤メンバーで夏祭りに行くそうだ。
地元の夏祭りは、提灯を何段にも積み上げた山車が有名な祭りで、県外からも観光客が沢山来る。工場からの帰りに丁度寄れるので、行くにはうってつけだ。
オイサンは、屋台で腹一杯にしたいと言って、昼間から張り切っていたらしい。グズグズと準備をするハタ坊を急き立てている。
各装置の状態を引継ぎで教えてもらう。どの装置も材料が入っていて運転中になっていた。どうやら、夜中に一斉に止まりそうな雰囲気だった。そういった見通しも雅孝は立てれるようになっていた。
雅孝はオイサン達との話もそこそこに、ヘルメットを被って建屋へ装置の様子を見に行った。
高温で動いている装置達は、元気にゴウゴウと音をさせていた。夏も始まり外の気温も高くなってきているせいで、クーラーの無い建屋の中は明らかに熱かった。その中で保護メガネと防塵マスクをして作業をするのだ。装置の掃除をすると、とんでもなく汗をかく。作業服の背中部分は、あっという間に乾いている所を見つけるのが難しい位に汗で色が変わってしまう。
今日の夜勤のパートナーは、マッチャンだった。
マッチャンはいつも大人しい。寡黙に作業を続けるタイプだ。仕事に関して、あまり文句を言う方ではなかった。オイサン達もマッチャンを茶化したり、ブラックなジョークを言ったりはしない。マッチャンはそんなキャラクターとして取り扱われていた。ただ、マッチャンがたまに毒づくと、皆はやたらと盛り上がった。特にマッチャンがミツの事で、文句を言い始めるとハタ坊は「ワルマッチャン登場や」と言って長机を叩きながら喜んだ。
今日のマッチャンはいつにも増して物静かだった。朝勤のデータを見ながら、所々に印を付けている。
詰め所に二人っきりになると特に話す事も無くなり、建屋から響いてくる装置の動作音を聞くだけになってしまう。
雅孝は、装置の動作記録簿を眺めていた。スプレーは十二時頃に止まる。タワーは一時頃。棺桶が朝方四時頃だ。どの装置も止まった後は、掃除が必要だ。
「なんすか、今日は全部掃除ですね。忙しい夜勤になりそうですね」
雅孝は、少しため息をつきながらマッチャンに言った。
マッチャンからの返事は無かったが、マッチャンは代わりにデータ表を長机の上にパッと投げた。「パシャッ」とバインダーのカバーの乾いた音が大袈裟に詰め所内に響いた。マッチャンらしからぬ態度だな、と雅孝は思った。
「これ、仕組まれましたね。僕が夜勤の時は必ず仕込んでくるんですよ」
そう言ったマッチャンの声は雅孝が今まで聞いた中で一番大きな音量だった。二人しかいない詰め所では必要十分以上の声だったので、詰め所の中に良く響いた。
「どういう事です?」
「古本さんですよ。あの人、自分が掃除したくないからって、装置動かすのを遅らせる事があるんですよ。気づきませんでした?」
「いえ、全然。まさか、そんな事、朝勤で出来るんですか」
「サンプルの測定をワザとゆっくりして、時間ずらすんですよ。チャート見れば直ぐばれるのに。はぁー、応援組みだからやりたい放題するんだよなぁ」
“応援組み”というのは他の会社から出向に来ている古本の様な人達を言う。作業服も雅孝達が着ているものとは違うし、給料も実の所違っているらしい。同じ作業をするのだがアルバイトとは違う考えで働いている。
マッチャンは、頭を掻きながらチャートの怪しい部分を指で擦った。
「古本さんは応援だから、そんなに長くここにいる訳じゃないのと、基本、派遣元の会社の正社員だから、めんどくさい事はバイトに任せて、自分はやりたくないって思うんでしょうね」
マッチャンはそう言うと、またデータ表の他のページをパラパラとめくった。
普段の古本を雅孝はいい人にしか感じていなかった。懐く様に絡んでくるし、話す内容も面白い。それなのに、こんなセコイ技を使うとは夢にも思わなかった。人は分からないものである。しかし、これも、全てはマッチャンの推測の域でしかない。雅孝は、なんともあやふやなこの事実を、今はただ目で追っているだけで、十分な気がした。
マッチャンは、この仕組まれた仕事内容にどうも納得がいかないようである。まだ何も夜勤の仕事が始まってない時間からテンションは下がりっぱなしになってしまった。
詰め所の中は、シンと静まり返っていて、スプレー達の動いている音だけが坦々と響いている。
暫くすると、マッチャンは何か吹っ切れたのか、データ表から目を離し長机の上にまた無造作に置いた。
雅孝はなんとか話題を見つけて、この沈黙状態を脱したいと思った。
「マッチャンは、ここに来る前は何してたんですか?」
さすがにマッチャンも沈黙を続けるのは違和感を感じるのか、直ぐに話に乗ってきた。
マッチャンはタバコを吸わない数少ない雅孝と同じサイドの人だった。だからより沈黙は手持ち無沙汰になってしまうのだ。
「僕はね、アジアの方面を旅してたんですよ。バックパッカーっていうやつ。最小限の荷物だけ持って、いろんな国をウロウロ、ウロウロ」
マッチャンは一見まじめそうな、お坊ちゃん顔の人物である。髪もきれいに切り揃えた様な髪型で、枠からはみ出ない主義だと思っていた。なのに、バックパックだけで、旅行していたなどとはちょっと想像し辛い。
「凄いですね。めちゃくちゃ、楽しそう。どこの国が一番良かったですか」
雅孝は日本を脱する日を心に思い描いている。それは、マッチャンの気持ちと通ずる気がした。
「どこか一箇所って言ったら、タイですね。あそこは最高ですよ。物価が安いから。日本で半年働けば、タイで一年は遊べる。あと、クサも吸えるし」
「クサ?」
「マリファナですよ。沢山の日本人がそれ目的で来てるんですよ。見聞を広げる、とか世界を見てみたいとか理由つけて、日本飛び出してきて、結局タイでマリファナにはまって、そこで駄目になってく人多いんです」
マリファナという言葉は聞いた事があっても、実際どんなものか知らないし、それが直ぐに手に入る環境が存在している事自体が、雅孝にとっては完全に非現実だった。
「どんな所で吸うんです?」
「そういったのを観光にしている村があって、そこにあるホテルなら何処でも吸えるんですよ。朝から吸って、ぼぉーっとしてるだけ。みんな部屋とか廊下とかで、フワフワってなってる。面白いですよ。あそこには偉そうな奴とか、セコイ小細工を仕掛けてくる奴なんていない。天国ですよ」
マッチャンは、そういってパイプ椅子に深く腰掛けた。パイプ椅子がギシッときしんだ。
「また行きたいですか?」
雅孝は恐る恐る聞いてみた。もし行くつもりなら説得でもして止めるべきだろうか。ここで、海外にも言ったこと無いような自分が、バックパッカー相手に一般的社会通念を話すべきだろうか。
結局、そんな事はしない方が良いと雅孝の頭の中では、正義の味方が目覚めた瞬間に、頭の中から外に出て行ってもらった。
「行きますよ。その為に今こうやって工場勤務で無理して金貯めてるんです。一年貯めれば、二年位は遊べるかもしれない。きっと僕は、そんな繰り返しを続けると思う。あそこにはそういった人が多かったから。別におかしいとも思ってないし」
マッチャンはそういうと、「ハハハ」と気楽に笑った。その様子からすると、本当にまずい事だとは思っていない様だ。
「マサクンも、お金貯めて海外行くんでしょ」
マッチャンが聞いてきた。
「そうですね。予定では」
「いつ頃実現したいんです?」
「二年位かけて学費を貯めてその後で。それと、資金集めと平行して英語の勉強とかしていけばいいかなって。年の事もあるし」
「あれ?今年大学卒業ですよね。ってことは、昭和五十年生まれ?」
マッチャンが急に勢いづいて話し始めた。雅孝は何がそうさせているのか、凄く疑問に思った。もしかしてマリファナのフラッシュバックでも起こったとするならば、少し身構えた方がいいと思った。
「僕も五十年なんですよ。うれしいなぁ。同い年じゃないですか」
「えぇー、そうなんです?てっきり、年上かと思ってましたよ、タイとか行ってるし」
「専門学校出てからタイに行ったんですよ。学年も一緒かな?何月?」
「僕、十一月ですよ」
「マジですか。僕も十一月です」
マッチャンのテンションは完全に上がりきっていた。日頃の物静かなマッチャンでは無い。さっき、データ表を無造作に投げつけた下向きなマッチャンでもない。マリファナの呪縛に戻ろうとしている英雄マッチャンでもなかった。
「まさかですけれど、僕、二二日ですよ」
マッチャンの言葉を聞いて、雅孝はマッチャンが冗談でも仕掛けてきているのかと思った。
「えっ、僕も二二日ですよ」
戸惑いながらも雅孝はそう答えた。二人の間に一瞬沈黙が起こった。タワーの粉を落とす音が相槌を打つように、やけに響いた。
「すごい。僕達全く一緒の生まれじゃないですか!」
雅孝も十分驚いた表情をしたつもりだったが、マッチャンの半分叫んでいるかの様な声にはすっかり圧倒された。確かに大変な奇跡だ。人生に一度あるか無いかの出会いだ。全く自分と同じ日に生まれた人物と出会っているのだ。同じ日に母の胎内から出てきて、この荒々しい世界を生き抜いていこうと決意したのだ。
それが、どういった仕掛けでこうなったのだろう。神様がいるならば、これがどういった人生の岐路を作る為の前置きにしたかったのだろう。二人は夜勤で工場にいるのだ。
マッチャンは嬉しそうに話した。
「初めて会いましたよ。同じ誕生日って言う人にも会った事無いのに。もう、こんな事二度とないでしょうね。凄い事ですよ。しかも、その二人が揃って夜勤してるなんて」
雅孝もそうやって考えると可笑しかった。よりによって何の因果で、夜勤をこの二人の組み合わせでやるようになったのだろうか。
「同じ日生まれが、海外に行く為にお金を貯めている。あれかもしれないですね、今日は昭和五十年十一月二十二日生まれは皆、夜勤の日かもしれないですよ」
マッチャンから聞く初めての冗談だった。この貴重なタイミングに雅孝はしっかり乗らなくてはいけない。
「他の昭和五十年生まれは正社員だけれど、二十二日生まれだけは、みんなバイト」
「で、夜勤」
二人共笑った。雅孝は対岸のコンテナを運ぶクレーンを操縦している夜勤の人も、今日だけは、昭和五十年十一月二十二日生まれがやっているような気がした。
「かなり人生がペーペーですね。完全に出遅れてる」
マッチャンが、この建屋で流行の文句を言った。アルバイトの間では、どんな事でもしょうがないモノには、「ペーペー」と付けるのが流行っていた。
二人の誕生年月日がただ同じと言うだけで、マッチャンと雅孝はいいパートナーの様な気がした。今日のこの苦しい勤務も、簡単に乗り越えられる。そう思えるのだった。
何故だか、作業もきれいに分業が出来た。
十二時過ぎにスプレーが止まった。
雅孝はスプレーの下から、オレンジ色の粉を取り出して、ポリ容器に移し替える。マッチャンは上から、ジェット洗浄機でスプレーの中を洗浄開始する。
スプレーの仕込みが終わり装置をスタートさせる。それまでの所要時間は一時間だった。
ひと休み入れようとしたが、今度はタワーが作業終了を告げた。一応予定通りだ。つまり、古本の計算した予定通りだった。
しかし、チーム フィフティーズは古本の文句を言う気持ちは既になかった。生まれつきのチームワークを持ってすれば、この位の作業は大したことでは無い。
雅孝は、どこかで仮眠を取りたかった。やはり、夜勤前の睡眠が十分に取れてないのが、この一時近辺の深夜時間帯に入ってくると、じりじりと堪えて来る。
保護メガネの内側は、体からの蒸気で常に曇っている。それが、より一層夢の中の様な演出をするのだった。
タワーでは二人は上下に別れて作業をした。マッチャンが下で製品を抜く。雅孝は上からエアーを送り、製品の抜けを良くする。
エアーは天井から、白くて細いプラスチックの管で送られてきている。その管をタワーに突っ込み、エアーを吹き込む。
その度、中腰でポリ容器を構えているマッチャンの周りに、僅かだがうっすらと緑の煙が発生する。オイサンに見せてもらった細かいプラスチックの粉がマッチャンの周りを飛び回っているのだ。防塵マスクを外せばそれが肺に一気に流れ込み、そのプラスチックは死ぬまで体からは出て行かない。マッチャンは、マリファナより危険な物の中に、今、身を投じている。
マッチャンが容器を外してタワーの下段の蓋をすると、雅孝はオレンジの粉を漏斗を使ってタワーの上から流し込む。オレンジの粉は、サラサラとタワーの中に気持ちよく流れていった。
雅孝が、タワーの下に降りて来るとマッチャンは、装置のスイッチを入れた。シューっというエアーの音がタワーから聞こえ始める。タワーに再び意識が戻った感じだった。
時間は二時半を少し回った所だった。
詰め所で、二人で夜食を食べる事にした。マッチャンも雅孝もコンビニで予め買ってきていたインスタントラーメンだった。マッチャンが味噌味で、雅孝はとんこつ味だった。
「さすがにここまでは揃わなかった」と二人ともラーメンの具材を入れながら笑った。でも、出来ればこれでも一緒だったら、男同士でなく男女であれば運命的な演出になっていただろう。
ラーメンにお湯を注いで蓋をする。湯気がフワリと立ち昇っただけで、いい香りが鼻先に届いた。雅孝達にとって、夜勤の中で一番待ち通しい三分の始まりだった。
「ちょっと、トレイ行ってきます」
マッチャンは防塵マスクを雑に掴むと、詰め所を出て行った。トイレは、隣の工場まで行かないといけない。夜勤の時は工場まで行くのを面倒くさがって、建屋の裏に茂っている雑草に向かって用をたす。それが、夜勤での常識だった。
待つと長い三分がそろそろ経とうとしていた。雅孝はチラチラと蓋を少しずらしては、麺の具合を割り箸で軽く触って確かめた。
雅孝の友達に、一分で十分といって食べ始める友達がいたが、それには雅孝は到底賛成できなかった。やはりメーカーが決めている時間をきちっと守ってこそ、美味しいラーメンが出来るのは間違いが無いと思っている。そして、夜勤の仕事中に食べるラーメンが一番美味いラーメンだという事も最近気がついた。
突然、詰め所の扉が勢い良く開いた。必要以上のパワーで押された扉は余りの勢いで、ドンと反対側の壁にぶつかった。そうやって扉が壁にぶつかる事があるので、ドアノブの形に壁のペンキは剥がれている。
「マサクン、大変だ。タワーから煙が出てる」
マッチャンは防塵マスクをしたまま、雅孝に十分聞こえるよう大声で言った。それと同時にマッチャンは保護メガネとヘルメットを壁際の机の上からひったくると、サッと身に付けて詰め所を出た。
雅孝はマッチャンの言った意味が直ぐには分からず、とにかく保護メガネ、防塵マスクを着けると、詰め所を出た。雅孝の勢いに押されてパイプ椅子が二脚、バタンと倒れた。
雅孝は目の前の光景を見ているにも関わらず、状況が理解できなくて一瞬完全に動きが止まった。ラーメンの存在は既にこの時には消え去って、麺が伸びるのを気にするという発想は微塵も心に浮かばなかった。
タワーと煙。
そのキーワードから推測できるのは、タワーが燃えていると状況だろうか。
雅孝が、建屋に出るとそこは一面がオレンジの煙に覆われていた。間違いなく煙だった。そして、ついさっきオレンジの粉を入れたタワーに目をやった。
それは、今まで雅孝が見てきたどんな状況よりも、端的に何かの終わりを示しているように思えた。タワーの上部からはオレンジの煙が、まるで火山の噴火の様に天井に向かって勢い良く噴出していた。
オレンジの煙はタワーの上、二メートル位の高さまで勢い良く舞い上がっている。その後は、空気の反発力と重力に引っ張られるように、フワァっと左右に広がっていく。それがオレンジの煙になって、建屋の中に満遍なく散らばっていってるのだ。
それは明らかだった。あの百万円の粉が吹き出しているのだ。まさに、雅孝が仕込んだばかりのあのオレンジの粉が下からの吹き上げるエアーに押されて吹き上がっているのだ。
マッチャンはタワーの下に駆け寄ると、直ぐに装置のスイッチを切った。製造中は絶対にスイッチを切ってはいけない、と言われていたが、マッチャンは躊躇なく切った。それと同時に、エアーの供給も止まり、タワーの上で起こっていた噴火はスッと止まった。最後のエアーの勢いで出てきた粉が、濃い目の煙を作りはしたが、それも、直ぐに空気に混ざってオレンジの煙は一様になった。
雅孝は梯子をよじ登り、タワーの粉投入口を確認した。「おかしいこんなはずは無い」そう言って、自分に何か言い聞かせようとするのだが、それも、直ぐに意味の無い事になってしまい、現実は雅孝を強烈にねじ伏せた。
タワーの構造は基本的には単純に一本のパイプの様なもので、下部にエアーの吹き出し口。上部には投入口があって、材料を入れた後投入口にはねじ込み式の蓋をする。下からエアーで粉を吹き上げながら焼くのである。
雅孝はさっきの作業で材料を入れた後、ねじ込み式の蓋をしっかりとしたはずである。あくまでも、“はずである”。蓋が、老朽化か何かで取れたのか。振動で緩んだのではないか。
なんとか自分の仕業で無い様に想像を巡らせてみた。しかし、結局どの想像でもなく、一番シンプルな締め忘れが原因だという事は、タワーの上部に来ればものの一秒も掛からずに理解できた。ねじ込み式の蓋はパイプの横にある少し台の様になった所に立てた状態で置いてあった。
ねじ込み式の蓋の単純な閉め忘れ。それは、眠気のせいだったのか、マッチャンとの誕生日の話で浮かれていたのか。作業に慣れて緩慢になった自分の心のせいか。
どういった理由にしても、雅孝は作業ミスで蓋を閉め忘れ、マッチャンが作動スイッチを入れたのだ。そして、百万円を空中にばら撒いたのだ。
雅孝はとんでもない失敗をしてしまったとはっきりと理解した。もし、この損害を弁償しろと言われてしまったら、そんな事が果たしてできるだろうか。
学費を集めようとして働いてたら、逆にお金を取られる事になってしまった。そんな事が何故自分に起こってしまったのか。
ショックで力の入らない雅孝が出来るのはただ静かに一切の動きを止めてしまったタワーを眺めている事だった。
マッチャンは建屋の排気ファンのスイッチを押して、建屋内に滞留しているオレンジの煙を少しでも外に出そうとした。
「ミツに電話しないと」
マッチャンは作業時の緊急対応行動パターンに沿って行動を始めた。てきぱきとしている所がいつものマッチャンらしかった。
問題が発生した時は、直ぐに担当の社員に電話をして指示を仰がなければいけない。
そういった事は、雅孝も理解している。しかし、そんな電話をこんな夜中にするべきものなのか。雅孝は自分のミスであるにもかかわらず、電話は避けたいと思った。できる事なら何事も無く済ませてもらいたい。仮眠を取って目を覚ませば、全てがきれいに片付いているのではないか。それともこんな事は無かった事になっているのではないか。
詰め所に戻るとマッチャンは、胸ポケットから緊急連絡網の書かれた紙を取り出した。そこには、ミツは勿論、更に上の役職の人達の連絡先も書かれている。
長机の上にポツンと置かれている事務用のシンプルな電話を手元に寄せて、ミツの番号をマッチャンは当たり前の様にプッシュした。ミツは思いの外直ぐに電話に出た。
マッチャンが状況を説明すると、ミツからの最初の言葉は、「怪我はしていないか。火事になってはいないか」、だった。
マッチャンが怪我も火事も無い事を告げると、ミツは朝の段階で対処法を考えるので、他の装置はそのまま作業を続けて、タワーだけは実際に状況を見てから判断するので、そのまま作業を止めておくように、と指示した。
夜中にミツが建屋に来る事は無いようだ。
そう考えると、雅孝の気持ちは随分と楽になった。大気中にばら撒いてしまった粉の損害額は大きいけれど、工場の規模に占める損害額としては小さいのかもしれない。
アルバイトをクビにされるとしても、アルバイトの失敗だから会社から賠償を求められる事は無いはずだ。雅孝は少しでも楽観視できる要素を探した。
マッチャンはデータ表に、事故が起こった時間や噴出させてしまった原材料のロット番号などをメモすると、グラフの目盛りに点を打った。
雅孝は今日のパートナーがマッチャンで本当に良かったと思った。古本だったらどうだっただろう。こんなルーティーンワークでない業務は、失敗をした者が責任を取って処理すべきである、とか何とか言って、何もしてくれない可能性もある。
雅孝は、マッチャンが記入する姿をジッと見ていた。
長机の上には、完全に伸びきったミソ味ととんこつ味のラーメンがあって、雅孝はラーメンを作っていた事を思い出した。
「ラーメンはまだ食べられるかな」と考えると急にお腹が空いている事に雅孝は気がついた。
・
タワー噴出事件の後、雅孝は夜勤から外され朝勤となった。なるべくオイサンと一緒のチームで仕事をするシフトが組まれた。
あの噴出事件の朝、ミツは朝一で建屋に来てタワーの様子を確認した。相当な叱りを受けると覚悟していた雅孝は、頭が痛くなる位どういう風に誤るのか、朝までそればかりを考えていた。
思えば、社会人としての失敗の経験が無い雅孝にとって、こんな大きな失敗をした時に、一端の社会人としての誤り方をどうやればいいのか、想像した事すらなかった。「すみませんでした」と頭を下げればそれで済むのか、それとも土下座でもしなければいけないのか。社会人の謝り方の最低ラインと最上級ラインが全く想像できなかった。
しかし、雅孝の心配をお構い無しに、ミツは雅孝の思ってる対応とは全く違う言葉でスタートした。「大丈夫か?怪我は無かったか?」それが、ミツが掛けてくれた最初の言葉だった。しかも、その後、叱る事は全く無かったし、終始言葉使いもいつも通りで、事の重大性が雅孝の思っているよりもずっと小さいのかもしれないと、また錯覚に襲われそうになった。
実際、事態はやはり大きな出来事であって、雅孝は噴出が起こるまでの詳しい状況を時間系列に沿ってミツの上司に説明をさせられたし、あの日のタワーの上での作業の様子を再現しながら、その様子を記録として写真で撮られた。
一週間位経つと、タワーの操作手順が正式に決められ、アルバイト全員に作業を行う為の要領を示したプリントが配られた。
また、夜勤体制時における作業の高密度化も問題として取りざたされ、あのミスを起こした夜は、作業が高密度過ぎだった、と結論付けられた。
しかし、雅孝が心配していた様なクビや減給処罰などは全く無く、損害賠償の話にいたっては一言すら出てこなかった。
雅孝が朝勤になっただけで、しかも一週間経つ頃には殆どの人があの出来事を忘れているかのようだった。
オイサンは、雅孝に「よくやるミスだから、余り気にしないほうがいい」と直ぐに声をかけてくれた。嫌味口を叩かれたり、今後のアドバイス等は無かった。本当に“よくあるミス”という事で良かったのだろうか。現実は、百万円を煙にしてしまったのだ。しかし、それにお咎めは無いのだ。
二週間程経った日の事だった。
雅孝はオイサン、ハタ坊、古本のメンバーで朝勤をしていた。午後になって詰め所で、データの整理をしていた時だった。詰め所にミツがやってきた。ミツの表情はいつもと変わらず、ただ、何処か気だるい感じがしていた。二日酔いにでもなっているそんな風だった。
雅孝達はデータを書き込む手を止め、ミツが話し出すのを待った。
ミツの隣には、とても若い男が立っていた。作業服は雅孝達と同じものだったが、手に持っているヘルメットは異常にきれいで、一度も使われてないのではないかと思うほど光っていた。背は百七十センチ以上はある様だが、横に無いためスラッとした雰囲気で何処か頼りない。頼りなさに拍車をかけたのは、彼の浮かない表情だった。何処か自信なく見えて、ハタ坊が強く何か言えばそのまま詰め所から逃げてしまいそうな雰囲気だった。雅孝から見ても若いと感じる彼のあどけなさの残る顔からは、一体何の間違いでここにいるのだろうというセリフが出てきてもおかしくなかった。
「ちょっと、作業中すみませんね。この建屋の担当は、僕から早峰に交代します。ちょっと急で申し訳ないけれど、早峰をよろしくお願いしますね」
ミツは坦々と、連絡事項の様に言った。建屋の担当社員が代わると言うのは、アルバイト側からするとそれなりに大きな話だ。これから、データのチェック等は、この頼りない早峰という男に頼む事になる。この頼りない早峰が上司という事になるのだ。
ミツは結局、それだけ言うと、早峰を置いて詰め所から出て行ってしまった。オイサン達は、ミツが十分建屋から離れる時間を待って、「ヤッタァー」っと声を挙げた。
早峰はオイサン達の反応を見ながら苦笑いを浮かべた。そして、パイプ椅子に腰掛け、胸ポケットからタバコを取り出して吸い始めた。
雅孝は、状況が良くわからず、ただ、喜ぶオイサン達を眺めるだけだった。
「ハヤッチ、ちょっとタバコ貰うよ」
そういって、オイサンは早峰のタバコを一本取り上げた。早峰はドウゾ、ドウゾ、という具合に手でオイサンに勧めるような格好をした。ハヤッチが早峰のあだ名のようである。
「そうかぁ、俺らはハヤッチに見られんのかぁ」
ハタ坊が、パイプ椅子の背もたれに全体重をかけて伸びをした。体格のいいハタ坊の力でパイプ椅子はいつに無く軋んで、今にも折れてしまいそうだった。
「ミツよりもハヤッチの方がいいよな。手を抜くわけじゃないけれど、ハヤッチは俺らサイドだし」
ハタ坊は、ハヤッチの方を見ながら言った。
ハヤッチは再び苦笑いを浮かべたが、一緒に煙を吐き出し、顔の表情を読み取れないようにしている様に見えた。
「しかし、まさかミツが飛ぶとはね。ミツって何処を今度見ることになったわけ」
オイサンが、ハヤッチに聞いた。
「あんまり知らないんですよね。ここの前の工程を見るとかそんな感じじゃないですかね。タワーの話のせいじゃないとは言ってましたけれど」
「ふぅーん、まだ工場にはいるんだなぁ。またどっかで会うだろうなぁ」
オイサンは、フッとため息をついた。
ハヤッチが、吸いかけのタバコを灰皿に置いた。そして、ポケットからA4の紙を四つ折りしたものを長机の上に広げながら話し始めた。オイサン達もそれに合わせて、A4の周りに自然と集まった。
「あのですね、ちょっと上からの指示で、タワーの出来事があったので、しばらく夜勤を止めて、再発防止策を考えないといけないんですね」
A4の紙には、この前のタワーでの噴出事故の状況が分かりやすく書かれていた。時系列に文章で起こった状況が書かれていて、その隣には現場の状況を同じく時系列に並べた写真が貼られている。
「なに、いきなり夜勤無しからくるかぁ、きついなぁ」
オイサンはわざと声を上げたように見えた。そして、A4を舐める様に見ている。
「再発防止が確認できるまでですよ」
「それをハヤッチがやるの。一生終わらないんじゃない」
ハタ坊が横槍を入れた。
「直ぐ終わりますよ。ちょっと作業手順の見直しをすればいいだけですから。あと、チェックリストを作ろうかなと思ってます」
「いきなり色々やるねぇ。了解、手伝える所は手伝うし、夜勤組みのローテーションを朝勤を増員で分散させて入れればいいんでしょ」
「そうですね、そうして下さい。たのんます」
ハヤッチは、ちょっとほっとした表情を見せた。
「そうかぁ、夜勤無しか。皆で飲みにいけますね」
ハタ坊が、パイプ椅子をロッキングチェアーの様に揺らしながら言った。
「お、それいいですね。前の時も面白かったですからね。かなり期待しちゃうなぁ」
それまで、おとなしかった古本がしっかりと食いついてきた。
「なかなか、こういった機会ないですからね。やりましょう。明後日の夜とかでいいんじゃないですかハヤッチも来るよね」
オイサンの仕切りが入った。オイサンもすっかりその気になっていた。こうなってしまうと、ハヤッチの身分では断りようが無い。ハヤッチは迷わず頭を小刻みに上下し頷いた。
「よし決まり。マサクンも大丈夫でしょ、一日位なら大学の準備休んでも。きっと盛り上がるから」
そういって、オイサンは雅孝に向かって笑みを浮かべた。何かを思い出している感じだ。オイサンが笑う度に、タバコの煙が口から漏れていた。
・
飲み会の日だった。朝勤が終わって、そのまま皆で行く事になった。雅孝はオイサンやハタ坊と一緒のシフトだったので、特に場所も時間も聞かずに仕事が終われば、そのまま付いていくと言う位しか考えていなかった。
その日の工場は、朝勤しかない事もあり、至って順調で平和だった。ハヤッチは朝から詰め所の机で、データ表などをにらみながら、再発防止策を考えているようだった。
雅孝は、スプレーの掃除を終え、次のスプレーのセットはオイサンがやってくれると言ったので、先に、詰め所に戻りデータ表の記入をしようと思った。
詰め所のロッカーの前で、防塵マスクを外しながら、ハヤッチがデータ表とにらめっこをしているのを見て、雅孝は悪い気がしてならなかった。
雅孝のミスで、ミツは他に異動させられてしまった。ハヤッチは、突然アルバイトの面倒と製造工程の見直しを言い渡された。それに、夜勤が停止となっているから、生産量と言う点でも、随分と落ちてしまったのではないか。
責任を感じないわけにはいかない。自分のせいでこれだけの人が動く必要が出てしまったのだ。
「早峰さん、すいません。自分のせいで、こんな事になってしまって」
ハヤッチはデータ表から目を離すと、雅孝を見た。しかし、その目は決してうらみとか、怒りとかを表現したものではなく、ただ、なんでもないというメッセージを送っていた。
「大丈夫ですよ。前にも何度かあったことですから。それがたまたまおおみちさんの時に起こっただけですよ。それに、製品になってからお金になる分けですからね、ならなくて倉庫に廃棄保管されてるのも意外とあるんですよ」
ハヤッチは、年の割りにしっかりとし過ぎた返事をした。雅孝よりも年下のはずだ。それなのに、こういったものの言い方が何故出来るのだろうか。正社員とアルバイトという立場の違いでこうも、社会性適応の度合いに開きが出るのだろうか。
雅孝達は終業の時間になると、着替えを済ませて駐車場に集合した。
飲み屋までは、古本の車で行く事になった。古本はあまり飲めないらしく、今回も飲まなくてもいいと早々に宣言していた。
作業服以外の皆の姿を見るのは、雅孝にとっては何処か不思議な感じだった。
工場という枠から解き放たれて、自由になったパワー達が一体どうなってしまうのか、そんな興味が沸いてくるのだった。
「マサクンは飲む方なの」
オイサンが聞いてきた。
「そうですね、そこそこ飲む方ですよ。大学では良く潰されてましてけれど」
「そうね、大学生は飲み方知らないから、無茶するしね。今日は気楽に飲めばいいから」
すると、雅孝達のそばにオレンジ色の車が停まった。窓ガラスはスモークが張られ、中が全く見えない。車高は随分と落とされていて、タイヤとボディーの隙間が殆ど無い。
ホンダのSMXだった。
きっとやな感じの奴が乗っているに違いない、と雅孝は心配をした。
すると、突然、その車にハタ坊が駆け寄った。そして、フロントガラスの上にあるワイパーを立てた。
次にワイパーは雨を拭き取る様に左右に首を振り出した。ワイパーは立てられているせいで、空中をまるでオーケストラの指揮者が振るタクトの様に動いた。ハヤッチがそれを見て、口に挟んでいたタバコを吹き飛ばしそうになった。オイサンはお腹を抱えて笑い出し、ひと休みしては、ワイパーの動きをまた見て笑った。
ハタ坊は笑いながら左右に動いているワイパーを掴もうとする。すると、ウォッシャー液が噴出して、ハタ坊のご自慢の革ジャンに掛かった。ハタ坊は「うわぁ」っと言う具合に大袈裟に、SMXから飛びのいた。
さすがにこれには雅孝も笑わずにはいられなかった。会社の駐車場でこんなに笑える出来事があるとは誰が想像できただろう。やつれた気持ちで工場に着いて、バイクを止める時の気分が、いつもこんな具合に爆笑でいられたら、きっと足取りも軽く、正門をくぐる事ができるだろう。
SMXのスモークが張られた窓がスーッと開いた。半笑いを浮かべた古本が顔を出した。
「ハタ坊、ワイパー戻せ!」
その声を合図に、一斉に後部座席にみんなが乗り込んだ。
SMXには運転席を入れても、五人分の座席しかないどう見ても無い。今、雅孝達は総勢八人だから全てが座るのはSMXの標準キャパシティーを完全に超えている。それでも、古本以外が後部座席の空間に集まった。後部座席の上に三人が乗り、足元の所に三人が中腰の体勢で乗り込んだ。すし詰め状態だ。ハヤッチはそのゴタゴタに乗り遅れて、一人外に結局取り残されていた。
古本は誰もワイパーを戻してくれない事を悟って、車から降りてしぶしぶとワイパーを戻した。
「古本さん、これ乗れないっすよ」
オイサンが後部座席から、古本に叫ぶように言った。
「大丈夫っすよ。後ろの背もたれ倒せばベッドみたいになるから。そうすれば、六人は座れる感じに成りますよ」
そこで一旦皆車から降りた。オイサンはシート横のレバーを引いた。背もたれは、バタンと荷室の方に倒れた。するとそこには見事なフラットベッドが出来た。フラットベッドが出現した途端、六人はすばやく靴を脱いでその上に上がった。
ハヤッチは賢くて、誰も狙っていない助手席の方に悠々と回った。
「これでみんなっすね。行きますよ」
古本は軽く後ろのベッド地帯を確認すると、荒くアクセルを踏んだ。SMXは勢い良く工場の駐車場を加速する。雅孝はその加速に完全に置いて行かれて、バックドアのガラスに頭をぶつけた。
居酒屋は、工場の近くにあるオイサン達には馴染みの店だった。店の入り口に掛けてある看板には筆で勇ましく「居酒屋 しょうちゃん」と書かれている。店の前の道路は工場に向かうトラックが引っ切り無しに通って慌しい。こんな工場地帯の居酒屋が儲かるものだろうかと雅孝は考えたが、近くにどこかの工場の寮と思われる建物があるのに気がついて、確かに工場の従業員相手なら、固定客に成るだろうなと納得した。店の前にはアスファルトが敷かれた駐車場があった。白線を引いた枠があってそれらしく駐車場だった。しかし、アスファルトも枠も風化が激しくて土へと帰ろうとしているのではないかと思える程だった。
現に所々、雑草が頭を出してしまったアスファルトは、小さな石粒の集まりになっていて、地面としての機能をおよそ果たしてなさそうだ。
車から降りると、皆一斉に店の入り口に向かう。店に入ると、「おっ、オイサン。いつもありがとね」っと店の主人が調理場越しに威勢よく迎えてくれた。オイサンは軽く手を上げて、座敷の方に行くよ、という具合に座敷の方を指差した。主人は手でOKマークを作って軽く答えた。
店の中は、テーブル席が四つ程あり、右奥に畳敷きの座敷と、調理場に面しているカウンター席があった。壁には水着を着たグラビアアイドルが、ビールを片手にいい笑顔を見せているポスターが張ってある。
オイサン達が座敷に上がると、直ぐに頭に三角巾を巻いた笑顔の耐えないおばちゃんがお絞りを持ってきてくれた。
ハタ坊は、メニューも見ずに「生、生」と繰り返している。SMXを停めてきた古本も遅れて座敷に上がった。
三角巾のおばちゃんは、人数だけ数えて、直ぐに調理場に戻っていった。どうやら、これでビールの注文は出来たらしい。
「ここいいっしょ。俺達が飲む時は殆どこの店に来てるんだよね」
オイサンが雅孝に言った。
「馴染みなんですか?」
「勿論。魚料理が上手くってね。ここで食べたら、他ではもう食べる気しなくなるよ」
三角巾のおばちゃんが、お盆に乗せてジョッキを運んできた。さすがに七人分を一気には運べないようで、幾つかがカウンターの上に残っていた。
「ハヤッチ、ビール取って来て」
オイサンがそう言うと、ハヤッチは急いで床に転がっているスリッパを引っ掛けて、カウンターにビールを取りに向かった。
古本はウーロン茶をジョッキで頼んでいた。
ビールが皆の手元に届くと直ぐに古本が、「カンパイ」と勢い良く発声した。
「お疲れ様でした」とジョッキをカチンカチンと隣同士ぶつける。あとは、まるで取り付かれたように冷えたジョッキに口をつけて一気にビールを喉に通していく。一度口をつけただけで、ジョッキのビールは簡単に半分まで無くなってしまう。ジョッキから口を離し、一息つくと思わず「あー」と声が出た。
雅孝も皆の勢いに負けまいと、ビールを喉に通した。良く冷えたビールは喉を通る度に、パチパチときれいに弾けた。その後、口の中を苦味がギュッと舌を締め付けるように襲ってくる。
工場で体に溜まったオレンジ色の粉の粒や、スプレーを掃除してシャワーを浴びたかの様に溢れ出た汗を、ビールはきれいに流し出してくれているようだった。
「労働の後のビールは格別」という事を知るには、正にこの瞬間に遭遇するだけでいい。このチャンスに恵まれた者は誰もがきっと、その言葉に納得させられるだろう。
乾杯が終わると、三角巾のおばちゃんはカウンターと座敷との往復に専念しなければならなくなった。オイサンもハタ坊も、底が抜けたバケツの様にビールを飲み干していく。
雅孝もこの肉体労働にはビールが合うと確信した。本当に純粋に幸せだと感じるのだった。
ビールに続いて魚の煮つけやぶりの刺身が出てきた。どっちも大盛りで旨そうだった。その見た目は食べた瞬間に舌に味となって伝わり、それは喜びに変わった。刺身は甘みがあって、臭み等は無縁だった。少し厚めに切られたぶりは、「何でこんなにも・・・」と逆に文句を言いたくなる位プリプリだった。
魚の次はおばちゃん特製の味付けを施した鶏のから揚げが登場した。これは定番らしい。鶏のから揚げが出てくると、皆はビールを飲むのを一旦止めて、から揚げにかぶりついた。大きめに切られた鶏のから揚げは、かぶりつくというのが作法だ。噛む度に香ばしいにんにくの香りが鼻から抜けて行く。そして、鶏の油が口の横からジワッと垂れるのだった。それが、また、次のひと噛みをそそって病み付きになってしまう。
ある程度お腹も膨らんでくると、小さなグループに分かれて話し込み始めた。
雅孝はオイサンのいるグループにいた。
「マサクンは、ここに来て、四ヶ月くらいたったけれど、どう、楽しいかい」
オイサンは、ご機嫌な笑顔を浮かべているが、少しろれつが怪しくなっていた。
「そうですね、仕事嫌いじゃないですね。未だに何を作ってるのか分からないのが、凄い所ですけれど」
雅孝はそういってビールを口に含んだ。古本はそれを聞いて大笑いした。
「確かに、何に使われているのか全く想像付かないよね」
「あれは、テレビの裏側に塗る液体なんですよ」
ハヤッチが、ボソッと言った。
「えっ、あんなモノが塗られてるんですか」
雅孝は驚いた。
「そうですよ。あの液が光を反射して、ブラウン管に像が映る仕組みなんです。うちの製品は海外にも出てて、業界では三本の指に入るくらいのシェア取ってるんですよ」
「てことは、僕の作った粉も海外に行ってるんですか」
雅孝は純粋に驚いた。自分の関わった物が海を渡るという事は、新鮮な感覚だ。船に積み込まれる青い液の詰まったドラム缶を想像した。
「そうだね。マサクンが来てから四ヶ月だから、最初の頃作ったのはもう海外に行ってるかもね」
オイサンが、頭の中で何か逆算している様で上目遣いで空中を少し見上げた。雅孝の作った製品が海外に行ったのは間違いなさそうだった。
「そう考えると意外と面白いでしょ」
古本が言った。掃除嫌いの割には、製品は自慢するんだな、と雅孝は意地悪に考えた。
飲み会の二時間はあっという間に過ぎた。どれだけのビールを飲んだかは、全く想像がつかない。ハタ坊は、割り箸を振り回しながらハヤッチにくだを巻いている。ハヤッチは、何度も「その話さっき聞きましたよ」、と反撃していた。
古本は、マッチャンと重い雰囲気で語りこんでいるようだった。あの事故のあった夜勤の掃除について喧嘩になりはしないかと雅孝は冷や冷やしたが、それは考え過ぎだったようだ。
座敷は完全に個人の居間となっていた。
おもむろにオイサンが、コップを持って立ち上がった。コップには芋焼酎が淵のギリギリまで注がれていた。
「よぉーし、みんな注目。そろそろ店を出るけれど、今回はミツに乾杯で締めよう。ミツに悩まされた日々も終わった。これからは、ハヤッチが、俺らの遣り易い方法を見つけてくれる事を祈念しよう。かんぱーい」
そういって、オイサンは一気にコップの芋焼酎を飲み干した。それに合わせて、皆も目の前にあるコップの飲み物を飲み干す。誰がどの種類の飲み物を飲んだのか分からない。テーブルの上には、空いたコップが一気に増えた。
店を出ると、既に外は真っ暗になっていた。ふと見上げると、居酒屋の背後には赤い吊り橋が、ドンと見下ろす様にあった。
吊り橋は所々にライトが設置されていて、吊り橋の赤を強調するようにライトアップされている。明かりから漏れてしまった他の部分は、夜の闇に溶け込むように深い藍色になっていた。しかし、そこに巨大な物があるという事は、シルエットだけでも十分分かった。
その吊り橋の上を車が渡っている。車のライトがとても小さいが見える。まるで流れ星がヒューと飛んでいる様にも見える。
「よぉーし、みんな乗れぇ」
オイサンはそういって、SMXの後部ドアを開けた。酔っ払いの集団がベッドに流れ込んだ。
一人乗る度に、SMXは大袈裟に左右に揺れた。
「よし、橋渡ろう、橋」
SMXに乗り込むとオイサンがこぶしを突き上げながら、運転席の古本に言った。
SMXは勢い良く居酒屋の駐車場を出た。壊れかけたアスファルトの段差を拾って、ベッドに横たわった皆が一気に空中に飛び上がり雅孝は天井で頭を打った。
吊り橋にアプローチするスロープを上がっていくのは、夜空に向かって登っていく銀河鉄道の感じだった。SMXは吊り橋の繋ぎ目を細かく拾っては車内を上下に揺さぶった。
吊り橋の上から見る夜の工業地帯は、煙と沢山の小さな明かりでわざとそんな風に演出している様に見えた。
近くの精錬所の煙突からは青白い炎が出ていた。他にも大小さまざまな煙突からは煙が上がって、工場地帯が眠らない場所だと主張しているようだった。オレンジや赤の明かりは工場の至る所にあって、星の種を撒き散らした様だと言うのが一番合っているかもしれない。
この光と煙の世界で、今も暑さにやられながら仕事をしている人がいるのだ。
雅孝はそれを思うとなんだかありがたい気持ちになった。そういった人がいなければ、この工業地帯は止まってしまう。工業地帯を生かし続ける為に、人は交代で働き、汗をかき、そしてここを守っているのだ。
酔っ払い達をギュウギュウに詰め込んだSMXは文句も言わずに吊り橋を走り抜けた。
・
雅孝は、朝勤が続いていた。ハヤッチの情報では、そろそろ夜勤を復活させるという事で、アルバイトの間では、その日がいつに成るのか予想していた。
雅孝には不安があった。もし、夜勤が復活したとして、自分が果たして、その夜勤組みに組み入れてもらえるかどうかという事だ。自分のやってしまった事で、こういう状況になったのは十分理解している。しかし、これ以上夜勤が無いとすると、収入的に随分とハンデを背負ってしまう。留学の計画にも支障をきたしてくる。
精神的に少し楽の出来る夜勤は必要だった。
昼間の勤務は、ハヤッチの監督とはいえそれ以外の社員の監視の目も光っている。たまに夜勤をして、気楽な環境で仕事をしたいというのが本音だった。
ハヤッチは、タワーの作業改善の案を既に上に提出した、と言っていた。それがどの様な経路をたどって、雅孝のいる工程に反映されるのか、実は誰も知らなかった。オイサンですら知らなかった。オイサンが言うには、工場長レベルまでの確認が取れた所で、GOサインが出て、そこから、下に情報が流れてくるので、最低でも一週間はかかると言う事だった。
その日も、雅孝は、朝勤に合わせてCBRで出勤をしていた。
朝の時間帯は、毎度の事ながら道路は先を急ぐ車で混み合い、工業地帯へと向かう吊り橋の付近は、大売出しの前の家電量販店の様に車の列が続いている。
雅孝はできる限りすり抜けをしていく。時には、左折の車に巻き込まれそうになる。通い始めた頃は、そういう車の動きが上手く読めず、工場に付いた頃には神経が疲れてしまっていたが、今ではそんな事は全く無くなった。
雅孝は吊り橋の入り口の料金所でチケットを渡すと、吊り橋にアプローチするスロープをギアの段を一段下げて、一気に加速して登る。
いつもの事ではあるが、吊り橋の上から見るこの港の風景は、爽快な眺めだ。
吊り橋を半分位まで渡り終えた頃、前方の工場郡の中から立ち上る煙を発見した。それは、いつもの工業地帯の煙とは違っていた。
更に、その煙の出所は、自分の工場のある方面だと分かった。
雅孝は、いつもの通勤ではありえない状況がこの先で起こっていると直感で感じた。吊り橋の中間地点まで来ると、プラスチックの焦げた臭いがヘルメットの中に入り込んできた。
吊り橋を降りて、工場に向かう道路に出る。他の工場はいつもの様に、出勤する車が駐車場に向かっていた。
雅孝が工場の駐車場に着くと、駐車場には多くの従業員が工場の方向を見たまま中にも入らずに群集となっていた。特に慌てている様子は無いが、従業員はやる事も無くただ立ち尽くしていた。
雅孝は明らかにいつもと違うと確信をした。駐輪場に向かうとハタ坊が、自慢のバイクのスティードに腰掛けてタバコを吸っていた。メールをしているみたいで、タバコの煙をいぶかりながら、携帯電話のボタンを操作していた。
雅孝のバイクが来たのに気がつくと、ハタ坊は立ち上がり隣にやってきた。
「マサクン、お疲れ様です。ちょっと今日は仕事無理っすね」
「何かあったんですか?」
雅孝はヘルメットを脱ぎながらハタ坊に尋ねた。
「工場で火事があったみたいなんですよ。朝方、夜勤で火事が起こって、それから中には入れなくなってるんすよ。どうなんですかねぇ、俺らは時間通りに来てるから、遅刻にはならないと思うんすけどね」
ハタ坊はそういって、タバコを一口吸った。
「オイサンはどうしてるんですか?」
「今、俺らの建屋にいけないのか警備員室に確認取りに行ってますよ。でも、無理だろうなぁ」
ハタ坊は工場の方をため息をつきながら眺めた。雅孝達が働いている建屋と煙の方角は少し違っていた。煙はモウモウと立ち上がり、空に向かって昇っていく。ある程度まで来ると、ワァっと投網を投げた様に横に広がり、拡散して無くなっていく。そんな事が飽きる事も無く延々と繰り返されていた。
工場の正門から、オイサンが小走りでやってきた。オイサンの顔にはいつもの浮かれている感じは無かった。
「オイサン、どうですか?中、入れそうですか」
ハタ坊が、オイサンに直ぐに尋ねた。オイサンは、少し息を整えると、大きく首を振った。
「今日は無理だね。最低でも今日は入れない。俺達はもう少しここで待って、ハヤッチに正式に確認を取ってもらったら、ひとまず自宅待機になりそうだ」
「マジですか」
ハタ坊は少し嬉しそうな表情をした。仕事が急に休みになったようなものだ。確かに嬉しい話ではある。
「悪い話もある。今回火災が起こったのは、俺らの工程の二つくらい前の処理をやっている部署だって事。復旧の具合によるけれど、俺らの仕事は干されてしまうかも知れんよ」
オイサンは、服の胸ポケットから、タバコを取り出し火をつけると大きく吸い込んだ。
「それって、自宅待機が続くかもしれないって事ですか」
雅孝は、焦り気味に言った。もし、そういう事が長く続くようであれば、アルバイト先を他に探さなくてはいけなくなる。社員なら自宅待機でも給料は出るだろうが、アルバイトは働いた分だけが収入なので、自宅待機は致命的なのだ。
「それも、まださっぱり。とにかく今はまだ火が出てて、それを消火する事で会社側は精一杯になってるから、情報が何も降りてこないんだよ。もうちょっとここで時間を潰しておくしかないな」
オイサンは、タバコの煙を吐きながら答えた。
雅孝は工場の上に立ち昇っていく煙を眺めた。雅孝の気持ちを少しも理解しようとしない煙は、自分の行く末をいたずらに振り回しているかのように思えた。
火事の煙が空にスッとかき消されていくように、ひょっとすると自分もこの工場での存在を消されてしまうのではないかと心配になってしまう。でも、それは決して起こりえない事だと敢えて自分を説得するように言い聞かせた。弱気になる自分をそうやって奮い立たせなければいけなかった。
工場の火事が起こってから一週間が経った頃。あれ程心配していたにも関わらず、工場はいつの間にか、通常の様子に戻っていた。朝の渋滞も起これば、昼時の食事戦争も変わらずだった。言うならば、火事が一つ起こった位では、この広い工場全てが影響を受ける事はないのだ。腕を怪我をしても、そこさえ使わなければ、足や首は問題なく動くのと一緒の事なのだ。
火事の原因は使用していた装置の老朽化から来る出火という事が知らされただけで、それ以上の詳しい情報は、雅孝達の所には降りてこなかった。それ程大した事ではなかったのかもしれないし、アルバイトに知らせる意味は無いと判断されたのかは分からない。ただ、一つ言えるのは、あの火事が起こった工程は、雅孝達が使っている原料の前処理の工程に当たり、結局、そこからの原料の供給は止まってしまった。それによって連鎖的に雅孝達の工程も作業が出来なくなってしまったのある。
火事の後、少しはストックの材料があったので、それを使って生産を続けていたが、それが無くなると建屋内の掃除が代わりの仕事となった。日頃掃除しない場所もやっていかないと、業務時間は全く埋まっていかない。それでも、一週間もすれば洗える場所が無くなってしまって、仕方が無いので大体きれいにしたと思っている空のポリ容器の洗浄をもう一度やり直しながら、就業時間の八時間を何とか過ごすように努力を続けた。
洗ったポリ容器の水切りをする為に、口が下になるように床に置く。建屋の前に、整然とポリ容器がひっくり返えした状態でズラリと並んだ。時間を掛ければこれだけの事ができると雅孝は並んだポリ容器達を眺めていた。
雅孝が詰め所に戻ると、そこにはハヤッチがいた。
オイサンは浮かない顔でパイプ椅子に座り、腕組みをして動かないままだった。
ハタ坊はタバコをゆっくりふかしている。そして、浅く座ったパイプ椅子をギシギシと鳴らしていた。
古本も、マッチャンも皆一様に黙ったまま、長机の周りを囲んでいた。
「マサクンで、最後。ハヤッチいいよ」
オイサンが、そういうとハヤッチは、A4の紙を配り始めた。
その紙には『新規配属について』という見出しが大き目のフォントで、紙の一番上に目立つように付けられていた。
ハヤッチの説明を受ける前から、手元の資料を皆が読み込み始めた。ハヤッチはそのスピードに負けまいと、急いで話を始めた。
「あのですね、先日の火事で、僕達の前の前の工程の工場が焼け出されてしまいました。復旧までには当分掛かると言う結論が出た為、僕達の部署は、人員を他の作業場に振り分ける事となりました」
ハヤッチはここまで一息で説明した。誰も直ぐには意見を言える訳でもなく、この文章のまま受け取るしかないようで、口を開く者はいなかった。
「振り分け人員と、新しい配属先はこの紙に書いてある通りです」
紙には、今まで聞いた事の無い部署名と、その横に大体二人ずつの名前が記されていた。
雅孝はマッチャンと連名になっていた。古本は、派遣元へ一旦引き上げという事になっている。オイサンはハタ坊と一緒だった。
「これはいつからやるの」
オイサンが紙を見たまま言った。
「そうですね、明日からって事になります。どういう仕事をするのかは、その現場での指示という事でお願いします」
ハヤッチは、申し訳なさそうに下を向いた。
友達同士の馴れ合いやサークル活動で仕事をやっている訳ではない。仕事なのだから効率を高め、無駄な所を排除すると言う考えでやって行かなければいけない。仕方の無い事ではある。こういった急な変化に直ぐに対応が出来る。その為のアルバイトである。
アルバイトは、このA4の紙に従うしかないのである。
このペーペーチームは今日を持ってひとまず解散となるのだ。再びこのメンバーで始められるかは、今は誰も答えられない。分かっているのは、明日は何か新しい仕事を与えられると言う事だった。そして、その仕事を覚え直す必要に迫られる瞬間が既に始まっている事を感じた。
詰め所の中は、沈黙で満たされていた。パイプ椅子の軋む音すらしない。
スプレーからも、タワーからも、棺桶からもいつもは騒がしく思えていた音達が詰め所に忍び込んで来る事は今日は無かった。
・
雅孝が新しく配属された部署は、今までいた場所よりも、もっと正門に近く、通勤するのに長々と工場内を歩かなくていいので、遅刻の心配が少し減った。
建屋自体は随分と古いもので、建屋の中は装置とパイプでギュウギュウに埋め尽くされていた。
そこの中で、雅孝は作業をするのだった。風の通りが良くないので湿度が高く、ヘルメットの中は、じっとりと汗で蒸しあがっている感じだった。
この建屋で作っている製品は、初め黄色い液体である。それをパイプに通し、ろ過を何度か繰り返し、処理を行うと最後は緑色の液になって出てくる。それがこの建屋の生み出す製品だった。
この緑色の液が一体何なのか、全く想像も付かなかった。ただし、目に入ると随分とまずいものだという事で、前の仕事で使っていた保護メガネではなく、海水浴に持っていくようなゴーグルが保護メガネの変わりに支給された。
ここの部署では夜勤もあって、一通りの作業を覚えると、雅孝は前からいた作業員と一緒に夜勤に入った。この黄色い液体は十五分毎にサンプルを取る必要があって、前の建屋の時のような、仮眠を取ったり、ジュースを買いに行くような時間は持てなかった。
休む事無く流れてくる黄色の液体が、一晩中雅孝をその場に釘付けにするのだった。
一方、楽なところもある。それは、装置の掃除などの作業がこの工程には無い事だった。
流れっぱなしの装置は年に二度生産を止め、中をきれいにするそうだ。それも、業者がするので、作業員には関係の無い話だった。
雅孝にとって面白かったのは、この黄色い液が何処から来ているのか分からない事だった。そのせいで色々と想像が膨らんだ。繋がったパイプの上流をたどって行くと、そのまま壁に到達して、そして、パイプ自体は壁に開けられた穴から隣の建屋に向かって伸びているのだ。
隣の建屋に入れば、粉末を溶かして黄色い液体を作っているのかもしれない。それともペースト状のものがドラム缶で運ばれてきて、薄めると、この黄色い液体になっているのだろうか。
ちょっとやる気を出して、隣に行ってみれば直ぐに分かる事である。
しかし、職場にいる他の誰もがそういう事を気にしている様には見えなかった。そのせいで、なんだか聞くこと自体がおかしい様に思えてしまって、雅孝は気が付いていない振りをしていた。
逆に、自分で調査をしようと、隣の建屋にパイプの先を見に行っても、また、反対側の壁までパイプが延びていって、そのまた隣の建屋に伸びていたとしたらどうだろう。今度は隣の隣の建屋を調べなければならなくなる。そこまでして、この黄色い液体が何であるのかを知る必要があるだろうか。
そんな事を考えていると、雅孝の思考は止まるのだった。意識的に止めると言う方が正しいかもしれない。
雅孝は、今の与えられている仕事をこなして、そして、間違いを起こす事無く終業時間まで繋ぐという事に専念した。
マッチャンには、この部署の仕事は合っている様だった。夜勤になっても朝勤のチームからの引継ぎで掃除の分担などが仕組まれるような恣意的な状況を感じる事は無いし、第一、他の人がしっかりと仕事をこなしているので、後から来た雅孝達は、それに合わせるまでが大変だった。
データのごまかしや製品量の勝手な増量などは、ここでは一切認められてなかった。勿論、これが当たり前の事で、今までのあの建屋でやっていた事が変わっていたのだ。
雅孝も、一ヶ月もすると、ここのペースに慣れていった。
それから、建屋から出て行く緑色の液体は、この後乾燥させられて、粉にされるという事までは、周りの人の話で分かってきた。しかし、それが何に使われる為の物なのかは、結局分からなかった。
その日は、雅孝は朝勤で午前中の測定を終わらせ、詰め所に戻ってきていた。
ここの建屋の詰め所は、建屋の横に建てられた独立した建物内にあって決して仮の作りではなかった。建物にはいくつかの部屋があり、一部は床にパンチカーペットが敷かれて、パソコン等が並ぶオフィスになっていた。あの簡易的に建屋の一部を間仕切りした詰め所とは随分と違いがある。
雅孝は、事務用の椅子に座って、休憩を取っていた。
詰め所のドアが開いた。ハヤッチだった。一ヶ月ぶりに見たハヤッチは何処か懐かしい気分に雅孝をさせた。
「マサクン、久しぶりですね。どうです、ここの作業は?」
「もう随分慣れました。全く前の作業とは違うんで困っちゃいましたけれどね」
ハヤッチは、クロスの張られた事務椅子に腰掛けると、タバコを取り出した。雅孝は、『室内禁煙』と書かれた張り紙を指差した。ハヤッチは、目を丸くさせ、直ぐにタバコをしまった。
「ははは、どこも禁煙になって来ましたね。当たり前ですね。うちが珍しい方でしょうね。ところで、うちらの建屋の復帰の話なんですが、そろそろ、第一陣で立ち上げをする予定に成っているんですよ。それで、行ったり来たりでお手数なんですが、そろそろ戻ってきてもらう必要がありそうなんです」
「そうなんですか?ようやく再開ですか」
ハヤッチの話は雅孝を十分に驚かせた。思った以上に早い復帰だからだ。
「はい。あの建屋の製品は意外とドル箱なんで会社としても復旧を急いだみたいです。上には異動の話をしてますので、近いうちにまた、転属という事でお願いすると思います」
「分かりました。楽しみにしてますよ。ペーペー部隊復活ですね」
雅孝の顔は笑みに溢れた。また、あのメンバーで仕事ができる事が嬉しかった。ここも慣れれば悪くは無い作業だった。しかし、スプレーやタワーに粉を投入し取り出して、掃除すると言う一連の作業を任される方が、何処かやりがいがあるのだった。戻った時には、以前より良い製品を作れる気がした。
雅孝に転属の話が来たのは、ハヤッチと話をしてから二週間ほど経ってからだった。
馴染みの建屋に入ると、懐かしい匂いがした。いつの間にか、ここの液体の匂いに体が反応するように成っていた。決していい匂いではないが、嫌ではない。雅孝はその事に気づくと少し誇らしく感じた。
仕事自体はきつい時もあるが、それも嫌ではない。それが自分のこの仕事に対する本心だと雅孝は思った。
詰め所に行くと、マッチャンがいた。古本も戻ってきていた。ハタ坊もいる。
しかし、オイサンの姿はそこには無かった。
「オイサンはどうしたんですか?」
雅孝は尋ねた。
「オイサンは新しい所に気に入られて、もう少し残ってくれって言われたんすよ。ちょっと残念ですけれど」
ハタ坊が、タバコを吹きながら答えた。
「そうなんですか。でも、戻ってくるんですよね」
雅孝は気持ちがすっきりしなかった。ここの再稼動の初日に、オイサンは是非いなければいけない人物だと思っていたからだ。オイサンがいて初めてペーペー部隊と言えるのでないかと思うのだ。
ハヤッチが、詰め所に来た。いつの間にだろう、ハヤッチのヘルメットは、グリスや擦り傷のようなものが至る所に付いていて随分と汚れていた。それは、ハヤッチが現場でせっせと仕事をした証拠なのだ。
「お疲れ様です。今日からここでまた作業開始します。最初はスプレーから動かして、タワーと棺桶の工程はその製品が出来上がってからやるという事でお願いします。あと、夜勤も入れていく必要があるので、すいませんがシフトの方も考えてください」
そういって、ハヤッチはカレンダーの下に名前の書ける余白ある紙を長机の上に置いた。
雅孝の夜勤は来週からという事で決まった。特に誰も文句を行くわけでもなく、すんなり決まった。最初の夜勤はマッチャンと一緒だった。
雅孝は、久しぶりの夜勤という事もあって、早めに家を出た。シフトの時間には十分に間に合う時間で、遅刻する事はまず無いはずだが、早めに出勤をして、朝勤のチームとのオーバーラップ時間を少し多めにしたかったのだ。
慣れてない作業ではないし、問題が無ければ、すんなりと引継ぎは終わってしまう。しかし、そこで時間の制限によって“抜け”を作りたくなかったのだ。
夕暮れの近づく吊り橋の上はとても気持ちよかった。空は赤く、夕焼けに成っていた。
工業地帯はうっすらと黒いベールがのしかかってくるように、夜がしっとりと包み込み始めていた。それに抵抗するように、工場内の街灯が通路を照らし、巨大な装置達の端々に取り付けられたいくつもの橙色の電球が、こじんまりと鉄骨やパイプを浮き上がらせていた。
街では既に秋の始まりが感じられていたが、勿論この吊り橋を渡った先の工業地帯にもその秋の気配というのはやってきていた。
雅孝はバイクを止めると、赤とんぼが駐車場の上を群れを成して飛び回っているのに気が付いた。この空気の決して良くない中を、赤とんぼ達は気兼ねする事無く飛んでいた。
詰め所に付くと、朝勤のハタ坊達がいた。そして、オイサンの姿もあった。
しかし、オイサンは作業服ではなく、濃紺のスーツを着ていた。
「オイサン、お久しぶりです。どうしたんですか、スーツなんか着て。それでスプレー掃除は出来ないですよ」
雅孝はそう言いながら手に持っていた荷物を長机の上に無造作に置くと、オイサンの傍に近寄った。
オイサンのスーツは濃紺で真っ白なワイシャツに青のネクタイがいいアクセントになって映えていた。雅孝が余りにも珍しい物を見るように見ているので、オイサンは笑った。しかし、特に何も言わない。仕方の無い事だった。それは本当に珍しい物を見ているからだ。
「オイサンは、今日で辞めるんですよ、この工場を」ハタ坊がオイサンに代わって言った。
「えっ、本当ですか。辞めるって、これからどうするんですか」
雅孝は驚きを隠せなかった。オイサンがここを去るという事が現実と重ならない。当然オイサンはここに戻ってきてぺーぺー隊を存続させると楽しみにしていたからだ。
「そうなんだよ。今日で辞めるんです。まぁ、スーツ着てくることも無かったんだけどね。ここは長かったし。けじめという事で」
オイサンは照れながらスーツの襟を正した。
「これからは、どうするんですか」
雅孝は聞いた。
「もう、次の所は決まってるんですよね、オイサン」
古本が言った。
「この前、転属された頃から、転職活動をちょくちょくやってて、それで、まぁまぁの所に決まったからね。ラッキーだった」
オイサンは、そういった活動を転属中にしていたのだ。雅孝がパイプの中の液体の数字を拾っていた時に、オイサンは次の人生の一手に踏み出そうとしていたのだ。雅孝は驚いた。驚きはきっと顔に出ているし、それを隠せそうに無かった。
ハタ坊達が帰り支度をするまで、オイサンは詰め所で待っていた。どうやら、今から居酒屋“しょうちゃん”で軽く飲んで帰るらしかった。
準備が出来るとハタ坊達は「お疲れでした」と言って、詰め所を後にした。オイサンもそれに続いて詰め所を出て行きかけた。しかし、ちょっと足を止めて、クルリと振り返ると、軽快なステップを踏みながら、雅孝の側に来た。
「前にも言ったけれど、ここは二年以上、居る所じゃないよ。目標通り計画を進めなよ」
オイサンはそれだけ言うと、小走りでハタ坊達を追いかけた。
詰め所には、雅孝とマッチャンだけが残った。
スプレー達の動いているエアーの音が良く聞こえた。
夜中、二時過ぎ。雅孝はタワーの作業手順チェック表を確認しながら、タワーの作動スイッチを入れた。それと同時に、タワーの下から勢い良くエアーの吹き上げる音が沸いた。
雅孝は、タワーに備え付けられている梯子を登り、上から粉が吹き出ていない事を確認した。
雅孝が詰め所に戻ると、マッチャンはデータ表にデータを書き込んでいた。
「タワー動かしたんで、少し休憩ですね。いつもの自販機行きますけれど、どうします?」
雅孝はマッチャンに聞いた。マッチャンは、ボールペンの手を止めて、少し考えた。
「データ表やってるんで行くの止めときます。でも、僕の分も買ってきてもらっていいですか?何でもいいです」
マッチャンはそういって、雅孝に百円を渡した。何でもいいというのは、つまりデスジュースでも良いと言う事だな、と雅孝は勝手に解釈した。
雅孝は駐輪場に行くと、いつもの様に競争相手も無くきれいに並べられている自転車に乗った。
夜中の工場は機械の作動音と蒸気やエアーの噴き出す音がそこかしこでしていた。いつもの光景だった。しかし、人間的な要素の無いそれらの音は、出てきては直ぐに大気に飲み込まれて無くなってしまう感じだった。
通路を照らす街灯は相変わらず薄暗かった。道をあらかじめ知っていないと、地面に置かれた装置にぶつかってしまってもおかしくない。
雅孝は慣れたハンドルさばきで自転車を巧みに操った。
オイサンが良くやっていた、スラロームの通路に来た。あの頃に比べて雅孝は随分とスラロームの走り方が上手くなった。
アウト イン アウト。
自転車を斜めにして巧みに体重移動を繰り返して、スピードを殺さない様にペダルを踏む。
ここを抜ければ、世界の自動販売機まではあと少しだ。
雅孝はスラロームの立ち上がりと同時にペダルを更に強く踏み込んだ。自転車は、きれいな弧を描きながら、直線に向かう体勢になった。
秋の夜空の下は、夏の作業服だけでは少し寒く、襟筋や袖口にヒューヒューと冷たい風入り込んできた。そろそろ、冬用のジャンバーが欲しいな、と雅孝は思ったのだった。
終
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