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幼なじみが、看病。
風邪をひいた。
ピピッ、と合図する体温計に手を伸ばす。三十八度二分。その数字を見て、溜息が天井に飛んでいった。
体調管理には気を配っていたつもりだった。ちゃんと手洗い・うがいをして、夜更かしを極力避けて規則正しい生活を送っていたのに。
頭がぼーっとする。重くて、怠い。咳をする度に少し痛む。
せっかくの日曜日なのにな。しかも外は快晴。カーテンからこぼれる光が眩しい。
コンコン、とノックの音がした。
お母さんが何か持ってきてくれたのかもしれない。冷たいものだったらいいな、なんて期待しながらベッドから体を起こす。
「入るぞ―」
しかし、開かれた扉から聞こえたのは、お母さんとは程遠い低い声だった。
「なんだよ、その顔。ママだと思った?」
どんな顔してたんだろう、と両手で顔を押さえる。
「図星かよ」
笑って言ったその男の子は、りんごが乗ったお皿をローテーブルに置き、ベッドの隣に腰かけた。
日向 翔。
お互いに物心がついた頃には既に隣人同士だった、いわゆる幼なじみ。
幼稚園はもちろん、同じ小学校、中学校を卒業し、現在、これまた同じ高校に通っている。家族ぐるみでも仲が良く、プールやバーベキュー、旅行にも一緒に行く間柄だ。
昔も今も、私たちはいつも一緒にいる。
「どう? 熱」
翔の大きな手が、私の額に触れる。
「あつっ」
険しい表情を浮かべ、温度が表示されたままの体温計を手に取った。
「うわ、結構あるな……」
「三十八度……」と呟きながらケースにしまう。
「りんご、食える? 俺が切ったんだぜ」
お皿を差し出し、「どう? どう?」と明らかに称賛を求めてくる。恐らくお母さんに教えてもらったんだろう。すごく綺麗に切れていた。
「可愛いだろ、うさぎ。あ? 皮はいらないとか文句言うなよ」
だって、と思わず言い訳が飛び出す。
普段なら食べるけれど、今は硬いものをあまり口にしたくない。
「ここに栄養あるんだからな? まあ、ネットの情報だけど……」
語尾に向かうにつれ小声になっていく、翔の科白。可笑しくなってきた。
わかった、と了解し、りんごに手を伸ばそうとしたその瞬間、何故かお皿を引っ込められる。
「食わせてやろうか」
りんごを片手に、にやり、と見たことのない笑みを浮かべた。
どきっとしたのは熱のせいだと思う。うん、きっとそう。
「ほら、口開けて」
「あーん」という声につられ、ゆっくりと口を開く。甘酸っぱい味が舌に広がった。美味しい。
口を動かしている間、その様子をじっと見つめられていた。だんだん恥ずかしくなってきて、誤魔化すように、なに? と尋ねた。
「いや、すげえ美味そうに食うなと思って。俺が切ったからだな」
冗談を言って笑う翔に、私もつられて笑った。
「はい、完食ーっ」
完食後、再びベッドに横になり、お皿をテーブルに移す翔にお礼を言った。
「おう、どういたしまして」
なんとなく、さっきより呼吸が落ち着いてきた。食べ物の力ってやっぱりすごい。
「これさ、お前に借りてた漫画」
差し出された紙袋には、翔に貸していた数冊の少女漫画が。
「意外と面白いのな、こういうやつも」
一ヶ月前、生粋の少年漫画育ちの翔が「おすすめの少女漫画を貸してほしい」と言ってきた。意外な要望に驚いたけれど、自分の好きなものを共有できるのは嬉しい。特に理由も聞かずに喜んで渡した。
「特にこれとか」
翔が紙袋から取り出したのは、私も特にお気に入りの作品だった。
「実写化するんだってな。こないだCMで見た」
そう、今をときめくイケメン俳優と若手女優のダブル主演で、なんと映画化が決まっているのだ。ファンの私からしてもキャスティングはイメージ通りだし、CMでちょこっと流れていた主題歌も、爽やかなアップテンポでピッタリだった。絶対に観にいきたい。
「そんなに行きたいんだ? すげえうずうずしてるけど」
行きたいに決まってんじゃん、と返す私を笑い、「決まってんだ。面白え」と続けた。
何がそんなに面白いのか。でも、翔の笑顔には不思議と元気をもらえる。私も自然に笑顔になり、気づけば声を出して笑っていた。
「じゃあさ、俺と一緒に行くか」
突然の提案に、へ? と思わず変な声が出てしまった。
「なんだよ、その反応。嫌なの?」
そういうわけじゃ……、と言葉に詰まる。
まさかそんなこと言われると思ってなかったから、ちょっと驚いただけで。
「決まりな」
へへっ、と笑う翔の顔は心なしか赤くなっていた。しかもすごく嬉しそう。なんだか可愛く思える。私、どうかしてるよ。
「初デート、だな」
なんでそうなるの、とすかさずツッコミを入れる。
「だって俺ら、高一にもなって二人でどっか行くの初めてじゃん」
そっちじゃなくて……。
「ああ、なるほど」
私の表情の異変に気づいたみたいだ。
「なんでデートか、ってこと? そりゃあ……、年頃の男女が二人で出かけるのって、逆に他になんて呼べばいいんだよ」
言い返せずうーん、と唸る。
「だろ? デートじゃん」
半ば強引に決められてしまったけれど、その日がすごく楽しみになった。デート、という表現が正しいかどうかはもう気にしないでおくことにする。
「だからさ、その」
言いづらそうに、ちらちらとこちらを見てくる。
「もっかい貸して、これだけ! 読みたくなってきた!」
なんだそんなことか。
軽く拍子抜けし、いいよ、と笑って承諾する。
「さんきゅ! 前売り券、用意しておくから。俺に任せとけ!」
頼りがいのある宣言に、さすが! と称賛を浴びせる。
「楽しみだな」
ふと目が合う。何故か、離れない。何秒経っても。胸の鼓動が早くなる。熱が上がってきた? 苦しい。でも、嫌じゃない。
「じゃあ俺、そろそろ帰るわ」
……どうしてだろう。それだけは嫌だった。
「ん?」
反射的に伸びた腕。そして手は、立ち上がった翔のTシャツを掴んでいた。
「えっ……、な、なんだよ」
わからない。わからないよ。でも、まだ一緒にいたいと思った。
風邪をうつしてしまうかもしれない。でも、離れたくない。
「と、とりあえず離して」
言われて離した手を、布団の中に隠すように入れる。
「わかったよ、もうちょっといてやる」
うつしちゃったらごめん、と謝った。
「いいよ、うつる覚悟で来たしな。……つーか」
再び隣に腰かけたあと、怪訝な表情を私に向ける。
「もしかして、熱上がった?」
「もっかい測ってみろよ」と体温計を渡され、試してみる。三十八度二分。まったく変わっていなかった。
「寝ぼけてんの?」
そんなことない。でも、自分の行動の意味がわからない。
「俺がいたら寝れねえだろ」
「いいのかよ」と念押しされる。私は頷いて返した。
「でも珍しいよな、お前が熱出すなんて」
私から目を逸らしながらそう言った。
「疲れたんじゃね? 最近忙しそうだし、お前」
そんなことない、とは言い切れない。私には心当たりがあった。
「頑張ってるもんな、学校祭の実行委員」
その科白に、思わず翔の顔を見つめた。
知ってたんだ、クラス違うのに。
「さすがにわかるよ、あんだけバタバタと走り回ってたら」
廊下を駆ける自分の姿を思い出し、苦笑する。
クラスの会議だけじゃなくて、実行委員だけが集まる全体会議にも参加しなくちゃいけない。責任感は常につきまとうし、効率の良さも求められる。
初めての学校祭。なんとなく面白そうと立候補したものの、現実はそう甘くはなかった。
「もう来週末か」
正直、クラスの出し物の準備は予定より大幅に遅れている。このままじゃ、未完成のまま当日を迎えてしまうことになる。
焦っても何も良いことがないのはわかっているけど、考えれば考えるほど自分を急かしてしまう。
「大丈夫か?」
何が? と返す。本当はわかってる。でもわからないふりをした。
「何が、って……。わかってんだろ?」
優しく笑う翔の手が近づく。頭に触れ、ゆっくりと撫でてくれる。
「あんま抱え込むな。すげえ顔になってんぞ」
溢れ出ていきそうな涙を引き止めるため、ちょっと引っかかった「すげえ顔」について問いただした。
「怒んなって」
ふう、と息を吐いて私を見つめる。
「せっかくの可愛い顔が台無しってことだよ」
下げたと見せかけて、実は上げただけ。なんなの、もう。
「あーもう、照れるわ! 俺こんなキャラじゃねえのに」
額を手で覆いながら不満を漏らす。
別に頼んでないのに、と翔の行動を不思議に思いながらも、頭の中でその科白が再び流れる。
せっかくの可愛い顔が台無しってことだよ。
……何処かで聞いたことあるような。
「お前が喜ぶと思ったのに」
翔の呟きで思い出した。そうだ、来月の映画の原作に出てくる科白だ。
「そうだよ、思い出したか?」
漫画を手に取り、表紙のイケメンを指差す。さっきの科白は、このキャラクターが発したものだったりする。
「こういう男、好きなん?」
頷いたあと、カッコいいもん、と理由を付け足した。
「俺とどっちがカッコ……」
言い終える前に漫画を指差してやった。
「即答かよ」
拗ねる翔を笑いながらも、本当は半分嘘だったりする。
高校生になって、翔はすごく魅力的になった。背は見上げるほどに伸びたし、顔立ちだって大人っぽく整ってきて。
実際、翔のことを「イケメン」だとか「カッコいい」と噂する女の子は多い。既に何度か告白だってされてるみたいだし。
見慣れている幼なじみの私がそう思うんだから、間違いない。と思う。でもなんか悔しい。だからちょっと意地悪したくなった。
「まあいいけど。俺が頑張ればいいだけのことだし」
え、と思わず声が出た。
「……なんだよ」
モデルにでもなりたいの? と思ったことを率直に尋ねてみた。
「違えよ、そんなんじゃねえの」
「でもなろうと思えばなれるか」と調子のいい科白を続ける。単純なヤツ。
「おい、咳してんじゃねえかよ」
突然咳き込んだ私の体を起こし、背中を優しくさすってくれた。
「大丈夫か」
手の温もりになんだかほっとする。咳は自然と治まった。
ふと顔の角度を変えると、予想以上の近さに翔の顔があった。
「わ、悪い」
ううん、と誤魔化そうとしてもできない。
どくん。どくん。どくん。どくん。どくん。
心臓が、うるさい。
「ごめん、喋りすぎたな」
頭を支えられながら横になったあと、翔が謝った。
「ちょっとは元気になれば、と思ったんだけど」
「ごめんな」ともう一度謝る翔に首を振る。
悪いのは私の方だ。帰る、と言ってくれていたのに引き止めたんだから。うつしてしまうリスクも高い。学校祭のこともあるのに。罪悪感がだんだんと大きくなってくる。なにやってるんだろう、私。
「もしかして、もう帰れとか思ってる?」
こういう時、私たちは幼なじみのプロだな、なんて思う。表情だけで、考えていることがなんとなくわかってしまうのだ。
「今更一緒だって」
あぐらをかいた体勢のまま、距離を縮めてくる。
「お前が寝るまで、ここにいる」
耳元で聞こえたその声と科白に、胸まで熱くなってしまう。
……どきどきしてる。
「手、出して」
言われるがまま布団の中から手を出すと、ぎゅっと握られる。あったかい、と呟いた私に得意げな表情を向けた。
「心があったかいんで」
有名な迷信。だけど逆だった気がする。手が冷たい人は、心があったかい。それを教えてあげると、「えっ……」と言葉を失った。その様子を見て笑いを堪えられなかった。
「じゃあ俺、冷たい人間?」
不安そうな翔に、違うよと否定した。
「焦った……」
ほっとした表情に微笑んで頷くと、笑ってくれる。
ただの幼なじみなのに。偶然隣の家に生まれただけなのに。嬉しかった。大事にされてるんだなって実感できる。
目を閉じた。もう眠ってしまいそう。
本当は、つないだ手に緊張してる。手汗だって感じてる。
でも、翔の体温には安心感がある。
このままずっと、翔と手をつないでいられたら。
翔の隣にいられたら、いいのに。
「やっぱ可愛いな、お前……」
不意に聞こえた、低く甘い声。私を「可愛い」と言った。
今のは、夢の中の翔が? それともここはまだ現実で、またキャラの真似でもしているの?
目を開けた。
夢でも真似でもない。だって見えたのは、赤く焦った顔だったから。そもそもあの漫画にそんな科白は存在しない。
「びびった。起きてたのかよ」
ヤバい、顔が更に熱くなる。そして絶対にもっと赤くなってる。もう熱なんか下がらない。
私、翔のこと……。
「聞いてた、よな? 今言ったこと」
震える声で返事をした。
「……恥ず」
再び額を手で押さえる。真っ赤な顔は隠せていない。可愛い。
「うるせー」
どうやら声に出してしまっていたらしい。「男に可愛いとか言うな」と怒られてしまった。今度はちゃんと胸にしまっておこう。拗ねた顔も可愛い。
「……お前は」
手を離して呟く。
「お前は、すげえいいやつで」
唐突に伝えられた褒め言葉。胸がこそばゆい。同時にそわそわする。
「頭も良いし、字もキレイだし、人望もあって……」
「でも」と続ける。
「幼なじみなんだ、ただの。家族同然なんだ、って思ってた」
……「思ってた」?
「入学してちょっとした頃にさ、クラスのやつが言ってたんだよ、お前のこと可愛いって」
知らない所でそんなふうに思われていたなんて。間接的に聞いたとはいえ、ちょっと照れくさい。
「気づけば他のやつも言い始めて、なんか……イラついた」
えっ? と思わず声が出る。
イラつく、ってなんで?
「軽々しく言われてムカついたんだよ、俺の方がずっとお前のこと知ってんのにって。ずっとお前の……そばにいたのにって」
悔しそうな表情で頭を掻く。
「他のやつが言ったのを聞いて、自然とお前のこと意識して見るようになって、確かに可愛いなって思って……、それで」
私を見つめた。
「誰にも渡したくねえな、って思った」
その熱い視線、気持ちから目が離せない。次の言葉を、どうしても期待してしまうから。
「お前が好きだ」
息が止まる。声が出ない。
「俺のこと、ただの幼なじみとしか思ってないのはわかってる。漫画借りてお前の好きなタイプの男になれたらなんてやってみたけど、全然なれそうにねえ。わかってる。わかってるけど……、言わずにはいられなかった」
翔の声が詰まる。
「こんな気持ちになるとか、俺も突然で混乱してる。すげえダサいし痛いしさ……。でも、嘘じゃないんだ。お前が好きなんだ」
「お前じゃなきゃ、ダメなんだ」と呟くように告げたその瞬間、こらえていた涙が溢れた。
「えっ、ちょっ、泣くほど嫌なのかよ! ごめん、ごめんって……。なあ、おい……、ってなに笑ってんだよ」
嫌なわけない。嬉しい気持ちしかない。幸せしかないよ。
だって、私も翔のことが好きだから。
「……え」
呆然とする顔に、嬉しくて泣いていることを伝えた。
「お前も、俺の、ことを? え、マジ、か」
文節ごとに切ったような口調でうろたえている。私はゆっくりと頷いた。
「やべえ……、すげえ嬉しい」
同じ視線になりたくて体を起こす。
「お、おい、急に起き上がって大丈……」
心配して投げてくれる言葉を遮り、感謝の言葉を伝えた。
好きになってくれて、ありがとう。
「……俺もだよ。まさか同じ気持ちだなんて考えたことなかったし。これ、夢じゃねえよな? すげえ嬉しい。ありがとな」
胸がじわ、と温かくなる。好き、という気持ちを真正面から伝え、受け止めたからだ。
どうしよう。触れたい。翔に、ふれたい。
「あの、さ」
目を伏せた翔の顔が近づく。
「……キス、してい?」
そう尋ねた直後に「いや、何言ってんだ俺」と自身に言い聞かせる。
「ダメに決まってんのに。あー、くそ」
悔しがる表情にキュンとする。もどかしささえも愛おしく感じてしまう。
「でも、お前のこと大切にしたいから」
「だから」と囁いた口が耳元に近づく。
「ほっぺだけ、許して」
左頬にちゅ、と小さく音が鳴った。
「お前のほっぺた、すげえ柔らけえな。食っちまいたい」
ふざけているはずなのに、大人っぽい声にゾクッとする。
「やべえ、もっかいしたい」
「次は右がいいな」と開いた口が右頬に近づく。
「していい?」
返事の代わりに目を閉じた。熱い頬に少し冷たい唇の感触。今度は高い音が出た。優しくそっと離れ、同時に目を開ける。
「やばい」
目にお互いの顔が映るくらいの距離で、そう呟いた。
「すげえ……、気持ちいい」
頭が更にぼーっとする。脳まで熱い。
風邪だから熱いのか、高ぶる翔への気持ちがそうさせているのかわからない。
今はただ、この時間を終わらせたくない。それだけだった。
「幸せだ、俺」
キスが終わったのも束の間、ぎゅうっと強く抱きしめられる。やっぱり安心する翔の匂い。でも、感じたことのない体温や腕の力に鼓動が激しくなる。
「熱いな、お前の体」
「ここも真っ赤」と額にもキスを落とす。
「心臓もすげえドクドクしてる」
耳元で流れる甘い声。ずっと一緒にいた幼なじみなのに、なんだか知らない人みたい。カッコいい。好き。
肩を掴んだまま体を離す。ふ、と笑ったあと、鼻にキスを落とした。こそばゆくて、声が漏れてしまう。
「今の声、すげえエロい。鼻、感じた?」
恥ずかしいからやめて、と訴える。「エロい」なんて初めて言われた。
「そういうとこもエロい。可愛い」
ぱしっと軽く肩を叩いてやった。
「俺……」
私の肩に顔を埋めて呟く。
「ヤバい、抑えらんねー……」
「でもお前は病人だ」と自身に言い聞かせるように続けた。
「お前に嫌われたくねえから、これ以上は我慢しとく」
名残惜しそうに立ち上がったと思いきや、ぎゅっと抱きしめてきた。
「最後に、補給だけ」
普段の私なら、その表現に笑ってしまうと思う。でも今は共感しかできない。これほどしっくりくる言葉はない。翔を、補給する。
「治ったら覚悟しとけよ?」
また見たことのない笑みを浮かべ、私にそう宣言した。
〈完〉
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