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さて、何故私が生まれたかといえば、それは3時のおやつになる為である。愛しい我が子の喜ぶ顔を思い浮かべながら、この家のお母さんが私たちを作ったのである。
ああ、私たち、と言ったが、確かに皿の上にいるドーナツは私だけでは無い。大きなお皿に十ほどのドーナツがのせられている。
彼等もまた、私のように思考しているのだろうか?しかし私たちには会話をする術がないからそれは確かめようがないことだ。
イヤ、たとえ会話をしても、相手が思考しているかということは知りようのない事なのかもしれない。哲学的ゾンビの証明、そして、Cogito ergo sum、とな。
証明できるのは自分の自我だけだ。深く考えるとちょっと怖い気もするが、かの哲学者が言ったことは確かに真であろう。
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