0人が本棚に入れています
本棚に追加
きつねのよめいり
「あ、あ、あ……嘘だろ」
椛が日焼けで赤くなった顔を歪めた。その頬に、ぽつりと水滴がはじけるのを見る。
「……マジかよぃ、走るぜ!」
秋亮が叫び、俺たちは一目散に駆け出した。プールバックが、躰に当たってバシバシ音を立てる。夏休みの学校のプールが、終わった直後だった。本当はこんなモンやりたいわけじゃねぇけど、最低五日間は来ないと体育の成績にかかわるらしい。俺ら三人、体育の成績はせっかく五段階評価の五だから。
別にプールが嫌いなわけじゃねぇし、今日は三人して学校の公開プールにやってきたのだった。しなしなのプールカードにハンコを押してもらって、塩素臭い水色のプールに飛び込んだ。一度泳いじまうと後はもう案外楽しくて、俺たちは大いにはしゃいだ。そのプールが終わり、妙に熱く感じる服を着て、汗臭い更衣室を出た直後だったのだ。
さっと雲が立ち込め、そして、裸の腕にぽつりと水滴が落ちてきたのだった。どこに向かうでもなく一列で走る。雨ははげしさを増し、痛いくらいザンザンと俺らをうちつけた。アスファルトを叩く雨が、跳ね返ってレの字の形を描く。雲は黒くなく、むしろ白いのに、大粒の雨が大地を揺らし続ける。
俺らの濡れた靴が道を叩き、走る。タオルで拭いたばかりの焼けた肌は、またもびっしょり濡れてしまった。
「うわぁぁ、すげぇ雨!」
「何なんでぃ、さっきまであんなに晴れてやがったのに」
「なあなあ、これ、走っているのはヤバくないか?! どこかの店の軒先入って、雨宿りしよう!」
あたりは暗くなくて、むしろ明るいくらいで、その明るく白い道を、透明な光る雨が降ってくる。俺たちは大慌てで、よく行く駄菓子屋の軒先に飛び込んだ。ずぶぬれのお互いを見合って、ひとしきり笑う。
「ぅあははは、もうびっちょり! やべーよ、靴ん中ガボガボ! 帰ったら新聞つめなきゃ」
「本当、すごい夕立だな」
「あーあーあー、せっかく髪型セットしなおしたのに、台無しだぁ」
ぼろい庇の下から見る雨は激しいけれど透明で、見渡す視界はクリアに白い。きっと、夏によくある通り雨なのだ。
「痛い雨だったなぁ、おー、いて」
「見てみろ、あそこのコーラの缶、雨に打たれてバシバシ跳ね上がっているぞ」
椛が道端を指差す。そこにはひしゃげた赤いコーラの缶が転がっていて、激しい雨に身を悶えさせていた。
カシュ、カシュ。
缶の跳ねる音が、辺りに響いている。頭の上のビニールの軒にも雨が降り注ぎ、ばらばらとすごい音をさせていた。白い昼間に、激しい大粒の雨。銀と赤のひしゃげたコーラ缶は、なんだかうち捨てられた瓦礫みたい。
「こんな雨、すぐやむぜ」
秋亮が言って、真っ白な雨を眺めた。椛が濡れてしなったトンガリ帽子を、ジャッと絞ってる。今日はオレンジ生地に白のハートマークか。もちろん言わないが。秋亮の言葉どおりだった。雨はすぐにショボショボと誰かに怒られたかのように勢いをなくしてく。道に跳ねかえる雨の軌跡が見えなくなり、そいつらは素直にアスファルトに吸い込まれるようになった。
絶え間なく頭上を動いていた雨雲が切れ、隙間から青空が覗いた。それでも雨はまだ降っていたから、青空が見えてるのに雨がまだ降ってるという、珍しい状況になった。降り注ぐ光の筋の中を雨が通ると、それはまるで宝石を溶かし込んだようにかがやいて見え、キレイだった。
「きつねのよめいり、っつうんだぜ」
秋亮が笑った。こういう、晴れてるのに雨が降るのを、きつねのよめいりと言うらしい。なんだかおかしなその語感に、俺と椛はきつねのよめいりきつねのよめいりと繰り返した。その間に雨はもっと勢いをなくして、とうとう止んだ。雨に打たれてた瓦礫のコーラ缶が、からんと音を立てて動きを止めた。
「……アイスでも買うか?」
俺は振り返り、雨宿りしてる俺たちを眺めてた、店の中のばあちゃんに手を振った。二人が頷き、俺たちは立て付けの悪いガラスの引き戸をガタガタと開いた。いらっしゃいとばあちゃんが歯のない口で笑った。
アイスが入った箱から、秋亮はカシス、椛はヨーグルト、オレはチョコとバニラのミックスソフトクリームを厳選し、駄菓子屋を出たとき夏の午後は、さっきとは打って変わってアイスでなくても溶けそうな暑さが戻ってきてた。
雲の欠片は青空の片端に、ふわふわ浮かんでる。濡れた肌は熱い陽光にすぐに乾いて、俺は水着のプールサイドでさっと乾いてしまう熱い水の感触を思い出した。すごどこかに消える水、途端にからからになる小麦の肌。すぐにもプールに飛び込みたくて、笛の合図をうずうず待つのだ。
「清秋、アイスが溶けきってしまうぞ」
歩きながら椛が言って、俺は慌ててコーンを溢れそうだったバニラアイスを舐めた。白から零れ、茶色、白、茶色とまたがったバニラアイスの白い線はまっすぐで、俺は何だか嬉しくなって、ソフトクリームを青空に掲げた。青空のど真ん中にアイスクリーム。どっかの宣伝ポスターみたいだ。
「へへっ」
「何してるんでぃ、清秋」
秋亮が笑って、それでも俺の横で同じようにアイスを空に掲げて。椛も笑って、同じようにアイスを掲げる。
「何だこれー!」
「バカみたいだな!」
「うわ椛バカ、アイス振るなよ、俺のについちゃったじゃん!」
げらげら笑って歩く、夏休みの青空の道。コーンから溶けたアイスがこぼれそうになって、俺ら三人は同時に慌ててアイスに口をつけた。肩からかけた紺色のプールバックはやっぱり俺達と同じ歩調で、優しく躰をぶつけてきた。ジジジジジとセミが鳴き声を取り戻す。きっと駄菓子屋の前では瓦礫の缶が、誇らしげに濡れた躰を輝かせているんだろう。
最初のコメントを投稿しよう!