第二章

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第二章

 帝政初期に実在した古代ローマの歴史家、ティトゥス・リウィウスはこんな言葉を残している。  『自殺、それは神が人生のあらゆる刑罰のうちで人間に賦課した至上の恩恵である』  それは真理を突いた言葉ではないかと思う。人間は――いや、命あるもの全ては、自分の意思でこの世に生を受けて生まれてくるわけではない。『生まれさせられる』のだ。  生とは強制的な受諾に他ならず、対象に選択の余地はない。あまりにも理不尽で、高慢な神からの押し付けであった。  しかし、その後に待ち受ける『死』は違う。生きる側に選択権が存在しているのだ。自らの手で、自らの命を絶つ。これこそが無上の自由意志と言えるのではないのか。  神などと得体の知れない存在から、求めてもいない生を貰い受け、試練と言う形で艱難辛苦な道を歩まされる。理不尽極まりない所業だ。  しかし、そこで自ら人間が命を放擲すれば、神が与えた『生』をゴミ箱に捨てたようなものであり、また、与えられた試練すらも拒否をしたことになる。これは悪逆無道な神へ反逆を行ったも同然と言えた。  これほど素晴らしい選択はないのではなかろうか。  そして思う。  その意思を、他者が自由に操れるのであれば、それはもう神へ一矢報いたに等しいのではないのかと。  今日最後の授業である古典の授業中であった。  物思いにふけっていた俊孝は、突然教室に発生した笑い声に、意識を引き戻された。  笑いの原因は、教室の前方で聡史が発した言葉のようだ。  今授業は、古典Bに記載された『捉月伝説』の一幕に推移していた。  酔って船に寝ていた李白は、池の水面に映った月を取ろうとして、溺死するというオチの物語である。これは中国の詩人である李白の酒好きを誇張したエピソードであり、事実かどうかは定かではなかった。しかし、客観的に見れば、シュールレアリズム的なおかしさが内在する。  これについて聡史が「こいつ馬鹿じゃん」といったような、誰もが思う突っ込みを入れたせいで、笑いが起きたらしかった。  聡史はよく授業中に茶々を入れ、笑いを誘っていた。これは、すでに慣れた光景だった。クラスの中心人物であるために、誰もが許容しており、不満を言う者はいなかった。  笑いが落ち着いたところで、再び授業が再開される。『捉月伝説』の続きが教師の口によって読まれ始めた。  授業はその後妨害なく進み、やがて終わりを迎えた。後は一日の最後にあるホームルームを残すのみだった。  現在は、そのホームルームまでの短い休み時間に突入している。  俊孝は、依然として、休み時間を一人で本を読んで過ごす。ベル・ジャーの内容は、現在エスターが精神病院を退院したところまで進んでいた。  俊孝は、そこで、チラリと前方にいる聡史の姿を伺う。  聡史は、友人である神山大吾と、比澤正典と共に、大声で楽しそうに談笑をしていた。  神山、比澤両名共、聡史同様、ビジュアルは良く、校則に引っ掛からない程度には、髪型もチャラついていた。  神山は聡史ほどではないにしろ、長身で、顔も彫りの深いハーフのような美形である。比澤は、身長こそは低いものの、整った剽悍な顔のため、舐められるような真似にはあっていなかった。  おそらく、この三人が、二年四組における女子からの人気スリートップであると思われた。頻繁に、女子からの注目を浴びているのだ。今ですら、騒がしい三人の姿を、近くの女子達が興味深そうに見つめていた。  俊孝は、再び本を読み出す。  数ページ読んだところで、誰かが、俊孝の席の前に立ったことを視界の端で捉えた。  顔を上げると、桝本純佳がいた。  純佳は、物珍しそうに、俊孝の開いている本の表紙をジロジロと見ている。  一体、何だろう。俊孝は、訝しみながら、訊く。  「何?」  俊孝の問いに、純佳は、大きな目を二、三度瞬きさせると、答えた。  「何を読んでいるのかなって思って。外国の本?」  俊孝は、少しうっとおしいなと思う。なぜ急に話しかけてくるのだろう。本は一人で静かに読むべきものだ。こんな邪魔は好ましくない。  無視しようと思ったが、あまり無下にしても角が立ちそうだったので、答えてやることにした。不要に敵を作ることは、学校生活を送る上で、得策と言える行為ではないからだ。  「うん。アメリカの小説」  俊孝は、開いたままの本を微かに持ち上げ、それだけ教える。  純佳は、何を納得したのか、ふーんと頷く。そして、ナチュラルショートの髪を揺らしながら身を乗り出し、本の中身を覗き込んできた。  「英語じゃないんだ」  純佳は、俊孝に顔を向け、そう言う。顔が近いため、純佳とまともに向き合う形になる。純佳のきめ細やかな白い肌が、はっきりと目についた。  俊孝は、つい純佳から目を逸らした。そして、答える。  「そうだね。これは翻訳版。英語版は難しくて読んでいられないよ」  「天海君なら、英語でも読めそうなのに。物凄く成績良いんだから」  突然褒められた俊孝は、純佳の顔を再び見る。純佳は真面目な顔をして言っていた。  純佳の発言の通り、俊孝はトップクラスの成績を誇っている。ついこの間の中間テストでも、学年で上位十人に入るほどの成績を収めていた。クラスでの順位においても、首位である。次点がクラス委員長の坂本真一か、女子の舘花優衣あたりか。  俊孝は言う。  「それでも洋書は難しいよ。そもそも成績とは関係なく、語学はセンスが必要だから。そういう意味では、むしろ桝本さんの方が向いているかな」  特に翻訳では、個人の語学における理解力が物を言うと思っている。イディオムやニュアンスなど、微妙な性質の言葉を解釈し、適切に訳することができる平明達意な能力が求められるからだ。ローカライズの小説や漫画でも、翻訳者によって、全く違う印象の作品に映るのは、そのセンスの差によるものである。  「んー、私は全教科が優秀な天海君と違って、英語だけだから、文は読めても、意味はわからないかも」  純佳は、とぼけたように舌を出す。  俊孝は、純佳に対し、さらに訝しがる。  語学に興味があるため、純佳は洋書らしき本を読んでいる俊孝に、わざわざ話しかけてきたのだろうか。純佳の意図が、いまいち読めない。  「……」  会話の着地点がわからず、俊孝は無言で返す。  その時、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。他のクラスメイト達はそれぞれ席に着き始める。  純佳も俊孝の側を離れようとする。純佳は最後にこう言った。  「まあでも、小説を読んで外国のことを勉強するのは楽しいかも。今度面白そうな外国の本があったら教えてね」  そして優しく笑顔を俊孝に向けた後、自分の席へと戻って行く。  純佳の真意がいまいちわからず、俊孝は、頭がむず痒くなり、ポリポリと掻いた。  教室へ担任教師が入ってきて、ホームルームが始まった。  放課後になり、俊孝は、西校舎の一階にある『情報処理部』へ向かった。  扉の前に立ち、鍵を差し込んで、開ける。  鍵は部員全員が持っているため、鍵が掛かっているということは、俊孝が一番乗りということだ。  俊孝は、部室の中に足を踏み入れた。その途端、強い圧迫感を覚える。  その原因は、部屋の大部分を埋め尽くしている学校用品のせいだった。中央のかろうじて空いているスペースに、長机が置かれ、その上には、学校払い下げの旧式デスクトップパソコンが三台載っていた。  ここは元々、物置部屋だったのを『情報処理部』を設立した初代の部長が、学校に頼み込んで、無理に用意して貰った部屋だった。  その部長はもう随分前に卒業しており、俊孝は顔さえ知らない。しかし、その時から変わらず、この部屋が部室となっていた。  もっとマシな部屋に移りたいという願望は部員全員が持っていたが、如何せん、現在も俊孝を入れて三人である。その少人数の部活のために、わざわざ別の部屋を割くのはキャパの無駄だ、というのが学校側の意見だった。そのため、未だにこの手狭な部屋を利用することを余儀なくされていた。とは言っても、隣がパソコン室であるため、そこからネット回線を引き込むことができ、その点はメリットがあった。別の部屋に移るとなると、無線LANを設置する他ないだろう。  ちなみに、部の名前である『情報処理部』は、元々『パソコン部』という名称であったが、それを現在の部長がオタクっぽく聞こえるから嫌だ、ということで、『情報処理部』という名称に変更してしまった。もっとも、俊孝としてもその感覚は同意なので、一切口を挟むような真似はしなかったが。  『情報処理部』と名前が変わっても、やることに変わりはなく、部員はそれぞれ、パソコンを使って好きなことをやっていた。  俊孝は部屋の奥へと進む。やや熱気がこもっているので、学校用品をすり抜けるようにして窓際に行き、開けた。ここからは、運動場が良く見える。  その後、俊孝は、自分用に割り当てられたパソコンの前に座り、電源を入れた。  DELL製の本体は、苦しそうな唸り声を上げながら、稼動を始めた。旧式であるため、いまいち起動が遅い。家にあるハイエンドPCに比べるとまさに兎と亀であった。  少し待ち、ようやくウィンドウズが立ち上がる。  現在、ウィンドウズ7を入れてはいるが、これも少し前にXPからアップグレートしたばかりだった。まるで過去にタイムスリップしたかのような、旧態依然のパソコン環境に、当初は舌を巻いたことを覚えている。  完全にウィンドウズが立ち上がったのを確認し、俊孝はデスクトップの端っこに置いてある、Eclipseのアイコンをクリックした。ランチャーが立ち上がり、すぐにEclipseは起動を終えた。  モニターに、複数のテキストが合わさったような、大きなウィンドウが表示される。これはワークベンチと言い、プログラムやハイパーテキストを書き込むためのIDE(統合開発環境)であった。  俊孝はこれを使って、アンドロイド用のアプリケーションを開発していた。  エディタ内には、Javaのプログラム言語が書き込まれてある。必要工程数の約半分といった量か。  今作っているのは、横スクロールのアクションゲームが行えるアプリであった。  俊孝は、長机のラック部分に置いてあったJavaの教則本を取り出し、読みながら続きを打ち始める。ある程度は習熟しているが、それでもこれは手放せなかった。  アーカイブやネットからもソースを引用しながらコードを書いていると、部室の扉が開いた。  部長であり、三年生の南条聖司が姿を見せた。  南条は、枯木のようなひょろりとした長身の体を動かし、部屋を埋め尽くしている学校用品をかわしつつ、こちらに近付いてくる。  「お疲れ様です」  俊孝は、手を止め、挨拶を行う。  「お疲れ。天海君。君、昨日部活サボったね」  開口一番、南条はそう言った。銀縁眼鏡の奥にある南条の細い目が、鋭く光っている。  やはりきたか、と思う。予想した通り、昨日のサボりを見逃してくれるつもりはないようだ。  「すみません。ちょっと家の用事があったので……」  「本当? いつも暇だって言ってたじゃないか」  真面目一徹、といった顔付きが、さらにいかめしくなる。まるで仁王だ。  面倒だな。俊孝は、少しうっとおしく思った。部活に参加する、しないは個人の自由だろうに。  「昨日だけ特別に用事があったんです。親父が出張だったし」  南条は、疑わしそうな目付きのまま、曖昧に頷く。  「ふうん。まあどちらでもいいけど、うちは三人しか部員がいないから、参加が滞るだけでも困るんだよ。そこ理解してね」  「わかりました」  俊孝は首肯した。すぐにでも作業を続けたかったし、この堅物の悪態を聞くのも御免だったので、ここは素直に受け止めておいた方が無難であった。  その甲斐あってか、南条はすぐに会話を打ち切ってくれた。  言いたいことを言い終えた南条は、長机の上に通学鞄を置いた。そしてそこからC言語の教則本を取り出す。南条もプログラムを勉強しているのだ。  南条の通学鞄には、可愛らしい小さな青い熊のキーホルダーが付いていた。それを目にする度に思うが、案外ファンシーな小物が好きなのかもしれない。深成岩のように固い男だが、根は乙女チックなのだろうか。考えたくはないが。  その後二人は無言で作業を続けた。やがて遅れてやってきた一年生の西野駿が加わり、増えたキーボード音のみが雑多な部室に響き渡るようになった。  三人になったからと言って、別段会話が弾むわけでもなかった。西野も大人しく地味な性格であるため、会話が好きではなく、南条も言わずもがなである。そもそも三人共それぞれ好きなことをやっているだけなので、特に話す必要もなかった。  ある程度作業が進んだところで、部活は終わりを迎えた。  学校を出た俊孝は、江田駅から列車に乗り、一駅下りの市が尾駅で降りた。市が尾は、青葉台駅から二駅上りの駅だ。  東口から外に出て、駅前の道路を北上する。目指す場所は、待ち合わせに指定したファミレスだった。  市が尾駅には、直結する商業施設『エトモ市が尾』があり、そこにもファミレスや喫茶店などの店舗が存在していた。しかし『エトモ市が尾』には、隣駅の影響か、東陵高生の姿も多く、どこで知り合いの目が光っているかわからない。これから会う相手も相手なので、わざわざ無用心に、粗を残す初歩的なミスは避けたかった。  その判断の元、駅から離れた場所をランデブーポイントに指定したのだ。  俊孝は、市ヶ尾駅前交差点の陸橋を渡り、雑居ビルや飲食店が並ぶ県道を進んだ。  しばらくすると、地蔵堂下の三叉路が見えてくる。  この辺りまでくれば、駅前とは違い、人通りもまばらだった。周りの街並みも、個人商店や小さなアパートばかりが目に付く。駅周辺には多かった東陵高生は、ここでは一人も見かけない。  三叉路の近くには、全国チェーンが展開されているファミレスがあった。俊孝は、そこへと入る。  店内の席は、半分ほど埋まっていた。学生服姿の者もいるが、東陵高特有のダサい制服ではないため、違う高校の生徒だとわかる。普通の制服が羨ましいと改めて思う。  それ以外のほとんどの客は、家族連れだった。  俊孝は店の奥へと進んだ。パーテーションで区切られた一番奥の四人用テーブルに、見覚えのある男の姿があった。  川戸聡史である。聡史は、俊孝に気付くと、無邪気な笑みを浮かべ、手を挙げた。映画『キャリー』に出演時の「アンセル・エルゴート」の笑顔とイメージが重なる。あれは確か、キャリーを苛めるシーンだった気がする。結局は、キャリーに殺されてしまったが。  俊孝は聡史の元まで行くと、通学鞄を隣の椅子へ置き、正面に座った。この席は、立地の関係か、周りの席から少し離れている。密談やよからぬ計画を行うのに、打って付けの場所だった。  「今日は部活行ったみたいだな」  聡史は、制服姿のままの俊孝を無遠慮に見ながら言う。聡史も同じく制服であり、部活帰りであることを暗に語っていた。  「まあね。昨日サボったことを部長に咎められたよ」  「部長? ああ、あのクソ真面目そうな学者みたいな奴か」  「そう。堅物で嫌になるよ。事あるごとにうっとおしい」  「じゃあ今回の次はあいつを狙うか?」  聡史は整った眉根を上げて、冗談めかして言う。  俊孝は肩をすくめて首を振った。  「あれは無理だよ。自殺なんかしそうにないから」  「むしろお前の方が自殺しそうだもんな」  聡史の茶化した言葉に、二人は同時に笑い合う。  学校では、決して会話をしない二人だったが、会うといつも漫才の掛け合いのようになってしまう。性格は間逆だったが、不思議と馬が合った。  二人の席にウェイトレスがやってきた。注文を訊かれ、俊孝はテーブルの上を見る。そこには、飲みかけのコーラが入ったコップが置かれてあった。聡史はすでにドリンクバーを頼んだようだ。  俊孝も同じように、ドリンクバーを注文した。ドリンクバー単体だと割高だが、昨日の『臨時収入』が残っているので、そこから支払おうと思う。  俊孝は、ドリンクバーのコーナーで、アイスティをコップに注いでくると、席に戻った。そして、少しだけ雑談を行った後、本題に入る。  俊孝は、隣の椅子に置いていた通学鞄から、A4用紙を数枚取り出した。これは、部屋にあるコピー機で使う紙を流用したものだ。ノートだと処分が煩雑で、証拠として残ってしまう恐れがあったため、避けたのだ。他にはタブレット端末での電子ノート運用も候補に入れたが、取り回しに難があり、除外することにした。ルーズリーフも嵩張るのでNG。結局、すぐに処分も書き込みも可能なA4用紙単体に落ち着いたのだった。ただし、紛失には充分注意しなければならないが。  A4用紙には、ワードで『計画』が印字してある。  これは、二年三組の女子生徒、仁科楓を自殺に追い込むための計画書だった。事前に調べた仁科のプロフィールや、性格、友人関係などを始め、自殺に追い込むフローや注意点を記入してある。  まだ完成形ではないので暫定ではあるが、大まかな骨組みは出来上がっていた。今回は、仁科の性格を考慮し『最初の犠牲者』と同様の方法で追い詰めれば、目的は達成が可能だろうと踏んでいた。もしも駄目でも再トライすればいい。これは『殺人計画』ではないのだ。殺人のように、失敗すれば現行犯逮捕さえあるリスキーな犯行ではなく、あくまで遠隔的、間接的手法である。何度でもやり直しが効くのも利点と言えた。なぜなら実行するのは被害者自身であるからだ。  もちろん、そこに計画が存在していることは知られてはいけないし、黒幕が我々だという証拠も残してはいけなかった。それも、ちゃんと考慮に入れてある。  俊孝は、計画書を聡史に渡した。聡史はそれに目を落とし、眉根を寄せて読み出す。  非常に真剣であり、普段の学習態度から考えても、信じられない姿だ。これを勉学に活かすことができれば、もっと成績は上がるだろうに。  しばらく時間が立ち、計画書を読み終えた聡史は顔を上げた。テストで高得点を出した時のように、満足気な表情だ。  「オッケーオッケー。これでいいと思うぞ。良く出来てる」  聡史は簡単に計画を肯定した。  「何か意見は?」  聡史は、自身満面で首を横に振った。  「いや、ないな」  あくまで下書きのような段階の計画書だが、骨子は出来ている。それに対し、全く指摘が入らないのも、少し不安を覚えた。  「適当に賛成しているだけじゃないだろうな。熟考したか?」  聡史は、鼻を膨らませ、意気軒昂に答える。  「したさ。これで問題ないよ。そもそも、お前の計画なんだ。必ず上手くいくはずさ。これまでもそうだったろ?」  聡史は、諸手をあげて、俊孝を誉めそやす。  聡史の言うように、これまでの計画は全て俊孝が立てたものだ。思えば、今回を含め、聡史から指摘が入ったことはほとんどなかった。計画は俊孝に丸投げの状態、と言っても過言ではない。  もっとも、そうだからと、こいつに計画を一任するのも、それはそれで不安が生じるのだが。  俊孝は溜息をつく。  「まあ、それならそれでいいけどさ。いいか。あくまでもこれはまだ試作レベル。本格的な計画書は改めて完成させるから、それまで下手な動きはするなよ」  俊孝の指示に、聡史は大きく頷いた。  「わかっているって。ちゃんと指示には従うよ」  そう言うと、聡史はコーラを一気に飲み干した。  万全を期してはいるが、当然、完璧な計画など有り得ない。いつどこで犯行が露呈するかわからないのだ。そうなった場合、一体どれほどのペナルティが我々に課せられるのか。こいつはそのことを自覚していない節がある。  しかし、これが聡史の性格である以上、仕方がない話だった。少なくともこれまで、兵士のように確実に計画は遂行してくれている。問題が生じたこともなかった。こいつがいくら没分暁漢だろうと、こちらがしっかりと頭を働かせていればよいのだ。そして何より、大切なパートナーでもあった。下手に波風を立てない方が得策だろう。  頭を切り替えるために、ここで計画の話は打ち切ることにした。  後は雑談へと移った。『別のゲーム』の話題である。毎日一緒にやっている『Sky Face』についてだ。共通の趣味であるため、会うと必ず話が出る。  新しく注いできたドリンクを飲みながら、聡史と『Sky Face』の話題で盛り上がった。  今ここのシーンだけを切り取れば、ただの高校生同士の会話に見えるに違いない。どこにでもある光景だ。  聡史と時折笑いを交えつつ、話を続けていると、ふと唐突に、聡史とゲーム内で出会った時のことを思い出した。  一年ほど前のことだ。今考えても、奇跡的な確率だったと思う。まるで運命であるかのように。  当時、まだ『Sky Eace』をプレイし始めだった俊孝は、ルーキーエリアという、初心者向けに調整された区画で、黙々とレベル上げとクエストの依頼をこなしていた。  そのような中、一人のプレイヤーがチャットで声をかけてきたのだ。それは同じように、まだ初心者であるファイターだった。  原始人のような腰巻を身につけ、木製の斧を背負ったそのファイターは、一緒にプレイをしないかと提案してきた。まだフレンドすらろくにおらず、ほぼ全てをソロでこなしていた俊孝は、渡りに船とばかりに、その申し出を快く了承した。  それが聡史との出会いだった。  当初は、お互いが同じ高校の人間だと知る由もなく、顔も本名も知らない遠隔地の相手として、友好を深めていった。  だが、ポツポツと互いの情報を交換する内に、共通点がいくつも現れ、やがて二人が、同じ都道府県の、同じ地区、しかも同じ高校に在籍しているのだという事実が判明したのだ。  その偶然に両者は大変驚き、同時に興味を持った。同性同士であるものの、会おうという流れになり、二人はオフ会を開いた。そこで顔を合わせたのだ。  それは、二人が共にプレイをするようになってから、およそ半年ほど経過しての出来事である。その時はまだ一年生で、クラスも別だった。学年全員の顔を把握しているわけではないので、二人共ほぼ初対面同然だった。しかし、チャットでのやりとりは毎日のようにやっていたため、そこに齟齬はなかった。出会ってものの数分もしない内に意気投合をし、長年の友のように接することができた。  それからも付き合いは続き、今に至る。二年に上がって、同じクラスになった時は、さすがにお互い目を丸くし、運命だと笑いあったものだ。  ただ、当初からの――なぜだかわからないが――二人の中にある暗黙のルールとして、学校内では接さないというものがあった。どちらかが言い出したわけではなく、自然とそうなっていた。俊孝としても、学校ではあまり人と会話を交わしたくないため、むしろ煩わしくなく都合がよかった。  俊孝は、聡史と交流する時に、たまに思う。ネットがきっかけで始まった仲だが、もしも普通に面と向き合って出会っていたら、このような関係にはならなかったのだろうと。性格は正反対であり、学校のポジションも、付き合う友人の質も違うのだ(もっとも俊孝には友人と呼べる存在はそういないが)おそらく、お互い関わろうとはしなかったはずである。  それがこのような関係になるとは、実に不思議なものだ。運命とは未知数なのだと、つくづく実感させられる。  ファミレスを出た二人は、それぞれ別ルートを通って、駅へと向かった。聡史の家は、宮前区の方にあり、利用する駅は鷺沼駅である。俊孝の住む青葉区とは、反対方向の上り列車を使う必要があった。  そこでふと思い当たる。ここにくるには江田駅から下ってきたことになる。聡史も通学区間の定期券を利用しているはずなので、市が尾駅で降りたとなると、わざわざ一駅分多く料金を支払ったということだ。往復なら二駅分か。  市が尾駅は俊孝の通学区間内にあるため、俊孝自身は、自前の定期券で事足りた。つまり、聡史は俊孝よりも多く身銭を切っているのだ。『計画』の話をするために。  ランデブーポイントは、いつも俊孝が指定しており、いつもこのような形になっている気がする。少し悪い気がするので、次からは、聡史が身銭を切らないで済む場所を指定してやろうと思った。  俊孝は、市が尾駅から列車に乗り、青葉台駅を目指す。  列車に揺られながら、頭の中で、『計画』の内容を改削する。概ねはそのままで構わないものの、細かい修正は必要だった。完璧なロードマップは存在しないが、作業手順書のように、瑕疵なく作り上げなければならない。一つのミスが破綻を招き得るのだ。  青葉台駅へ到着し、松風台に向かいつつ、頭の中で犯行計画のフローをなぞる。いくつか変更点が見付かったので、帰ってから計画書を添削しようと思う。  榎が丘の交差点に差しかかった時に、俊孝は、近くに人がいないことを確認して、鼻歌を歌った。  ベルリオーズの『断頭台への行進』だ。  幻想交響曲は、エクトル・ベルリオーズが作曲した最初の行進曲であり、恋に深く絶望し、アヘンを吸った、想像力豊かな芸術家を描いた五章からなる楽曲だ。  『断頭台への行進』は、その第四楽章目にあたる。  アヘンによる服毒自殺を図った芸術家の青年は、夢の中で愛する人と出会うものの、その愛する人を殺してしまう。  青年には死刑が宣告され、暗く荒々しい行進曲と共に断頭台へと連れて行かれる。青年が愛する人を思った瞬間に、ギロチンが下ろされ、青年の首が飛んでしまう。その直後、賑やかになった行進曲と共に終わりを迎えるのだ。  幻想交響曲は作曲者であるベルリオーズの失恋体験を元にしたものであり、いわば自叙伝と言えた。  三十歳になったベルリオーズは、ピアノ奏者である恋人と付き合い始め、婚約までいく。二人の関係が成就すると思った矢先、恋人は別の男性を見つけ、結婚してしまうのだ。  その裏には、ベルリオーズとの結婚を反対していた母親の策略があった。  それを知ったベルリオーズは、殺害計画を立てて、自身を裏切った恋人と黒幕である母親を殺そうと決意する。しかし、不首尾から、実行が叶わず、絶望したベルリオーズは、入水自殺を図った。  結局は未遂に終わり、彼は救助されるが、その時はもう恋人と母親への殺意は消え失せていた。そして、同時進行で進めていた幻想行進曲は、その後完成したのだ。  幻想行進曲は、全編に渡ってその名が冠する通り、幻想的なものになっている。失恋と挫折、そして殺害計画と自殺。それらを下地にした管弦楽は、こちらがアヘン中毒者になったような気分にさせる。特に、最終章の『ワルプルギスの夜の宴』は、よりそれが顕著だろう。死んだ青年の葬儀で、魑魅魍魎達がお祭り騒ぎを行い、ディエス・イレと化した音楽は、不気味で騒々しいレクイエムという形で終わりを迎えていた。  俊孝自身、部屋で『計画』を立てている時は、幻想行進曲を流すことが多かった。ベルリオーズが殺害計画を模索している時、同時進行で作られたものだからだろう、インスピレーションが湧いてくる気がするのだ。  根本的に幻想交響曲が好きだという点もある。特に『断頭台への行進』の部分は気に入っていた。金管楽器が奏でるマーチは、群集の鈍く重い嘲笑のようで、青年の死を心待ちにしている愚かな人々の姿が、ありありと脳裏に思い浮かぶためだ。  それらのせいか、音楽を流していない時でも、『計画』を考える際は、条件反射のように『断頭台への行進』がイヤーワームとして流れるようになってしまった。  俊孝は、鼻歌を歌いつつ、交差点を抜け、松風台の住宅地へ入っていく。  音楽が流れ続ける頭の中に、これまでいくつか『計画』を成功に導いた際の喜びが思い起こされた。そして同時に、これからの『計画』を実行する際のスリルが、経験として体を震えさせた。楽しみだ、と思う。  その光景を脳内で反芻していると、不思議なことに、脳裏にいた断頭台の青年は、いつしか自分の姿と重なった。
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