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第四章
アメリカの小説家、リチャード・マンシスの小説『奇蹟の輝き』に出てくる言葉をふいに思い出す。
確かあれは、主人公であるクリスが発した言葉だった。
クリスは、事故で命を落とし、天国へと召されてしまう。一方、妻であるアニーは、夫を失った悲しみに耐え切れず、自殺を行い、地獄に堕ちてしまう。
天国で、そのことを再開した恩師から聞いたクリスは、なぜ妻が地獄へ堕ちたのか問い質す。その恩師は、あの世のルールで、自殺者は地獄に堕ちるのだと答えた。
それに、クリスは憤り、こう言った。
「これ以上、何を苦しめというのか」
自殺者が地獄へと落とされることが事実なら、これ以上に残酷なことはないと思う。苦しみ抜いて、自ら命を絶ったにも関わらず、あの世でも苦しみが永遠に続くのだ。
大正時代に活躍した詩人、萩原朔太郎も、自身のアフォリズム集である『虚妄の正義』にて、似たようなことを述べている。
『自殺の霊魂は不死である。但し地獄に於いて』
このシステムを造った者が神だとしたら、神という存在は、想像を絶するサディストではなかろうか。そして思う。そのような存在がいる天国こそ、最も忌むべきおぞましい場所ではないのだろうかと。
死後、天国へ赴くのであれば、地獄に堕ちた方が幸福だと言えるかもしれない。
桝本純佳に『ゲーム』のことが発覚してしまったことを聡史へ伝えると、聡史も大きな動揺を見せた。てっきり軽く受け止めると思っていたが、直接他者に計画が露呈したとなると、深刻さに気がつき、さすがに焦りを生じさせたようだ。
聡史は俊孝の不手際を責めた。俊孝は事実、自分のミスなので、素直に謝罪を行った。南条の責苦とは違い、聡史の非難は、ある程度で終わった。背景には、付き合いが長いことと、聡史の懐事情を考慮して、ランデブーポイントを聡史の通学区間にしていたお陰かもしれない。それらがなかったら、もっと非難は苛烈していただろう。
怒りの矛を納めた聡史は、コーラを一気飲みすると、げっぷと共に訊く。
「つまり俺のこともばれたってことか?」
その問いに、俊孝は首を振った。
「いや、それはない」
純佳が読んだ『計画書』には、標的を自殺に追い詰めるメソッドやポイントだけが記入され、誰がやるのかの人名は記していなかった。いつ何時変更が生じるかわからないため、あえて人名を指定していなかったのだ。それは、どの『計画書』でも共通している。
ただ、じっくり読めば、それが単独ではなく、複数での犯行であることは露見していただろう。俊孝が即座に『計画書』を取り返したので、純佳はそれを把握するまでには至らなかったのだ。そのため、聡史が共犯者だと知られた恐れはないはずだ。それは、純佳の言動からも察することができる。
俊孝の説明に、聡史は、一応納得したようだ。
「それならいいけどよ。しかし、これからどうするんだ?」
聡史は眉を上げながら訊く。
「少なくとも今回の『計画』は中止せざるを得ないな」
この状態での『計画』実行は不可能だろう。標的である仁科楓は、偶然のトラブルにより、運良く命を永らえたのだ。
「それはそうだけどさ、桝本はどうする? 野放しにするのか?」
俊孝は聡史の質問には答えず、俯いて、ファミレスのテーブルを見つめた。
純佳に『計画』が発覚した直後、自分は、純佳を殺害しようと考えた。しかし、それはあまりにも早計で、誤った愚策だった。つくづく、実行しなくてよかったと思う。
そもそも、冷静に考えれば、まだこちらは致命傷を負ったわけではなかった。いまのところ、明確な証拠と言えるのは、あの『計画書』くらいだ。そしてそれはこちらの手中にある。すぐに処分すれば、もう証拠は――把握している部分のみだが――存在しないことになる。
そのため、純佳が明日にでも警察署に駆け込んだとしても、門前払いは必至だろう。一介の女子高生風情の妄言に付き合うほど、警察は暇ではないのだから。
しかし、それでも決して楽観視はできない。もしも純佳が俊孝達の犯行を教師や友人、親に吹聴するような真似をしたら、どう転ぶかわからなかった。あっさり鵜呑みにするような輩はいないだろうが、連続して生徒が自殺するという奇異な現象が起きているのは事実だ。中には、調査に乗り出す者がいてもおかしくはない。そうなれば、俊孝達が見落としている動かぬ証拠が出てくる可能性も否定できなかった。一体何が火種となり、自分達を焼き始めるかわからないのだ。
そしてなにより、純佳に犯行が知られてしまった以上、これから先『ゲーム』の実行が不可能になる点が気に食わなかった。すでに仁科楓への『計画』実行は中止している。これだけでも充分、完璧な経歴に傷を付けられたも同然なのだ。さらにこのまま、すごすごと退散するような真似は、絶対に選択肢として有り得なかった。ようやく軌道に乗り始めた頃なのだ。この偉大なチャレンジを、継続したい。
俊孝は言った。
「やっぱり桝本純佳を殺すしかないな」
俊孝の提案に、聡史は頷く。
「俺もそう思う」
聡史のカミサマッシュの下にある目が、肉食獣のように鋭くなったのを俊孝は見た。俺も同じような目をしているのかもしれない。
だが――。
その場合は、極めて大きな壁がそびえ立つ。これまでの犠牲者は、自殺に追い詰めるという遠隔的かつ間接的犯行で目的を遂げていた。それは、こちらが狙撃手のように、姿を見せないまま、獲物を仕留める手法だ。相手は草を食む鹿のように無防備な存在なため、容易にヘッドショットを決めることができる。仮に逃げられても、ポイントを変え、再度シュートすればいい。こちらの位置を把握されていない以上、反撃を受けることはないのだ。
しかし、今回はそれが通じない。純佳はこちらの手口と犯人を知っている。仮に純佳に対し、自殺へ追い込むような手法を使っても、容易に看過されるだろう。下手をすると、それが命取りにもなりかねなかった。
すなわち、直接的犯行のみが有効打となるのだ。
これまでの犯行も完全犯罪として成立しているが、あくまでも安全確実な間接的犯行が下地にある場合だった。それと比べると、直接的犯行は、ハードルが著しく高くなってしまう。失敗=即死の、一発勝負だ。
つまり、直接的な完全犯罪を目指す必要が出てくる。
俊孝は、純佳を殺すなら、直接的な完全犯罪しか有り得ないことを聡史に伝える。そして、そのハードルが極めて高いことも。
聡史は、眉間に皺を寄せ、唸る。
「何かいい方法は浮かばないのか?」
俊孝はため息をつく。
「今すぐ浮かぶわけないだろ。モーリアティ教授じゃないんだから」
俊孝の言葉に、聡史は微妙な表情を浮かべた。どうやらモーリアティ教授を知らないらしい。
「そのモーなんちゃらのことは意味不明だけどよ、方法をすぐにでも考えないと俺達ヤバイだろ」
俊孝は首を振り、自分の考えを伝える。
「そこは今すぐどうこうってわけじゃないと思う。警察に桝本さんが駆け込んでも、即効で俺達に捜査の手が伸びることはないはず。まあだからと言って、悠長にはできないけど」
そう、可能な限り早めに、桝本純佳を直接的完全犯罪で抹殺しなければならない。
「まあ、お前がそう言うならそうだろうな。とりあえず計画は任せたぜ。俺の頭じゃ無理だ。協力はするけどよ」
俊孝は頷く。
「わかった。早めに計画を練るよ。とにかくまた連絡する」
「オッケー」
これから『計画』作成に向けて、思案を重ねなければならない。勉強どころではなかった。期末考査、大丈夫だろうか。
会話が終わったので、俊孝は席を立とうとした。そこで、聡史が質問を行う。
「なあ、桝本って他になにか、お前に言ったか?」
俊孝は、聡史の顔を見た。特におかしな様子はなく、いつものやんちゃそうな顔がそこにあった。
純佳が口走った「改心させる」という言葉は、聡史には伝えていなかった。あれから少し考えたが、純佳の明確な目的が見当付かず、聡史に打ち明けるのは早計だと判断したのだ。だが、それ以外にも理由が存在した。自分でも不思議だったが、なぜか名状しがたい迷いが生じており、話す気が起きなかったのだ。
「いや、特にはなにも」
俊孝は、首を横に振って答えた。
「そうか」
聡史は頷く。茶目っ気のある聡史の目が、少しだけ細まったような気がした。
翌日、休日となる土曜日。俊孝は、純佳から呼び出しを受けた。
てっきり警察署にでも連れて行かれると思ったが、違うようだ。
純佳に呼び出された先は、美しが丘にある『たまプラーザテラス』だった。
『たまプラーザテラス』は、江田駅から二駅登ったところにあるたまプラーザ駅へと直結してある複合商業施設だ。『たまプラーザテラス』は、複数の『プラザ』と呼ばれる商業施設が組み合わさった構造をしており、そのプラザは全部で三つある。駅へと直結しているゲートプラザ以外は道路を挟んだ周辺に立てられ、それぞれの施設は、ブリッジにより通行が可能な造りだった。
俊孝は、中央改札を出ると、ドームのように高い天井を持つ駅舎内を歩き、北口を目指す。
北口を出た先には広場があり、大勢の人間が往来していた。俊孝は、その広場内にあるカフェテラスの前で、純佳を待った。
ここは昨夜、LINEで純佳が待ち合わせに指定した場所だった。『たまプラーザテラス』には何度かきたことがあったため、純佳の説明を聞くだけで、すぐに場所を特定することができた。もっとも、俊孝にとっては望んだ呼び出しではなかったので、幸いと呼べるもではなかったが。
俊孝は、目の前を忙しなく通過していく人々を眺めながら、昨晩の純佳とのやり取りを思い出していた。
有無を言わせぬ、というのはあのことを言うのだなと思う。純佳は、俊孝の予定を聞くことすらなく、唐突にこの場所へ明日の午前九時にくるよう指定してきたのだ。いくら理由を尋ねても答えようとはせず、「とにかく会いましょう」の一点張りだった。
俊孝は、それに従う他なかった。下手に突っぱねて、機嫌を損ねでもしたら面倒なことになりそうな予感があった。向こうはこちらの弱みを握っているようなものである。致命傷には至らないまでも、充分脅威と言える情報を知られてしまっているのだ。無駄な刺激は絶対避けなければならない。そして純佳の有無を言わせぬ態度から、向こうもそのことを自覚していることは明白だった。多少の無理でも、通す腹づもりなのだろう。
しかし、とそろりと不安になる。一体、何の用があってこちらを呼び出したのだろう。もしも俊孝の犯行を告発するつもりなら、呼び出さず、さっさと警察署へ駆け込めばいいだけの話だ。それをしないのであれば、少なくとも、警察へ通報だとか、そのような類の目的ではないのだろうと思われた。
俊孝は、昨日教室で、純佳が自分へ発した言葉を頭に思い浮かべる。
「改心させる」彼女はそう言っていた。その言葉の真意は、今もって謎だ。もしも額面通り受け取ったとしても、動機が不充分である。もしも犯行を止めさせたいのであれば、警察や周囲の人間へ伝えた方が手っ取り早い。わざわざ犯人に接触し、説得を行うメリットは皆無だと言えた。
もしかして、脅迫でもするつもりじゃないだろうな……。
胸の内に去来している不安が、さらに増大する。できるだけ早めに直接的完全犯罪の糸口を見つけ、実行した方がよさそうだ。その足がかりを得るためもあって、今日はきたのだから。
それにしても、と思う。遅い。純佳の姿は未だ見えなかった。
俊孝は、ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。
スマホの時計は約束の時間を十分ほど過ぎていた。自分で指定しておきながら、なぜ遅れるんだ。あの女は。
それからさらに五分ほど待ち、イライラした気持ちと共に、もしかしてこないんじゃないのか、と思い始めた頃だった。
「ごめん、天海君。お待たせ」
背後から声がかかった。俊孝は振り向き、文句の一つでも言おうと口を開きかけた。しかし、一瞬だが目を奪われ、その動きは停止する。
目の前にいたのは純佳だった。だが、まるで別人に見えた。白を基調にした花柄のワンピースに、黄色い薄手のカーディガン。足元は黒のウェッジソールを合わせている。いつも東陵高校の(ダサい)制服姿に見慣れているため、私服がとても新鮮に映った。服装が持つ清楚な雰囲気に、純佳はよく似合っている。
「遅くなってごめんなさい。列車が遅れちゃって」
純佳は手を合わせて謝罪した。
「あ、ああ別に気にしなくていいよ。俺もさっき来たところだし」
「そうなんだ。よかった」
純佳はホッとした表情になった。
俊孝は、その顔を見ながら、頭を掻いた。
何だか気遅れしてしまう。自分は、ジーパンに黒のチェックシャツという中学生みたいな出で立ちだ。家のクローゼットから、一分もかからずに選び出して着たものだ。正直不釣合いだと思う。
しかし、純佳はそんなことは気に留めていないようだった。
「さあ、いこう」
純佳は優しく笑みを浮かべ、俊孝の手を引いた。
それから俊孝は純佳と共に、『たまプラーザテラス』内にあるテナントをいくつか見て回った。大抵は純佳の服選びに付き合う形となっていた。しかも、不思議なことに、純佳は買いもしないのに「この服どう?」だとか「このサンダル似合う?」といった質問を、頻繁に俊孝へ投げかけていた。しまいには「このコーデ、天海君は好き?」と答えに窮するような質問も受けた。こっちはファッションなど微塵も興味がなく、今純佳が手にしている服のブランド名すらわからないのだ。適切な回答などできるわけがない。ネットで調べて答えるから待って、という言葉が喉まで出かかったが、そこは堪えた。結局、適当に褒めることで、その場を乗り切るしかなかった。
昼近くになると、俊孝は、自身が非常に疲れていることに気が付いた。徹夜で試験勉強をした時よりも、体力を消耗したのではないのかと思う。反面、純佳は元気ハツラツだった。しかも信じられないことに、あれだけ店を回ったにも関わらず、純佳はまだ一つも服を買っていなかった。一体、何のために服を見繕っていたのだろう。
そのことを純佳に質問すると、純佳は「欲しい服の目星を付けただけ」と答えた。
昼を過ぎ二人は昼食をとることにした。ゲートプラザの三階にある、ハワイアン料理のレストランへ入る。
休日であるため中は混雑していたが、ほとんど待つことなく席に着くことができた。
二人が注文を終えると、純佳と会話を行う。会話、言っても、ほとんど純佳が喋っているのを聞くだけだったが。
純佳は良く喋った。学校の勉強のことや、英語のこと、クラスメイトのこと。そして教諭達のこと。
「でね、由梨奈から聞いたんだけど、入谷先生と及川先生、やっぱり付き合っているんだって」
純佳はおかしそうにはにかんで言う。
「放課後、カウンセラー室で二人がキスしていたのを窓の外から見たらしいよ」
「ふーん、そうなんだ」
俊孝は相槌を打つ。純佳の会話の内容には、ほとんど興味がなかったが、それをあからさまに態度に表すと、不評を買いそうだったので、付き合ってやることにする。
「入谷先生、暇しているから、逢引し放題だろうな」
「そうだよねー。もしかしてこのまま二人共結婚したりして。あまりお似合いじゃないけど」
純佳の発した言葉に、俊孝は二人の容貌を思い出した。場末のスクールカウンセラーである入谷仁美は、気が強そうな目付きではあるが、充分美人と言える部類の顔である。定期的にジムにでも通っているのか、体型はスリムだ。すでに結婚していてもおかしくない条件を揃えているのに、独身であるのは、相手が見付からないのではなく、理想が高いとか、仕事が忙しいといった、スペック以外の部分が理由なのかもしれない。
一方、二年二組の担当教諭であり、英語教諭でもある及川道弘は、かろうじて中肉中背ではあるものの、頭髪が薄く、三十後半の実年齢より老けて見える。自クラスの生徒が自殺を行い、心労によりさらに薄くなったとの噂だ。それを抜きにしても、恵まれた容姿とは言い辛く、入谷と比べると随分と見劣りする教師だ。
その二人が本当に交際をしているとするならば、及川教諭は相当な口説き上手なのかもしれない。もっとも、自クラスの生徒が自殺を行い、気に病んでいるはずなのに口説きに走るとは、根は極めて図太いということなのだろうか。
「案外、あんなおっさんが好きなのかもな」
俊孝は、適当に答える。
純佳は本気で受け止めたようだ。
「ああー、ありえる。人の好み何てわかなんないもんね」
純佳は、なぜか感慨深げに何度も頷いた。
「それでね、天海君、ちょっと質問!」
純佳は急に声を張り上げ、明るい口調になった。
俊孝の胸に、ざわりとした陰のような不安感が発生した。なんだろう。もしかして例の自殺についての質問だろうか。そしていよいよ脅迫か。お金、いくら持ってる?
俊孝の予想に反し、純佳の質問は突拍子のないものだった。
「天海君の好みの女の子って、どんな人?」
「え?」
虚をつかれた俊孝は、一瞬、呆気に取られる。
「だから、天海君の女の子のタイプ。どんな人が好き?」
純佳は、頬杖をつき、悪戯っぽい表情で、こちらを見やる。だが、目の奥には真剣な色が秘められている気がした。
俊孝は返答に困った。純佳は、この質問により、何を知りたいのだろうか。もしかすると、脅迫のための情報収集か、あるいは自ら発した「改心」の糸口を掴むという魂胆があるのかもしれない。仮にそうでなくとも、答えようがない質問だ。俊孝自身、女の好みというものがよくわからないのだ。これまで人を好きになったことがなかったし、恋愛といったものにも興味すらなかった。先ほど純佳の質問を聞いた際、一瞬だけ脳裏によぎったものがあった。影法師のような真っ黒い人型のシルエットだ。それは何ら感情のない、冷たくて暗い虚無だ。
「わからないよ。どんな女の子が好きなのかなんて」
「自分のことなのに?」
「うん」
俊孝の首肯に、純佳はふーんと、口を尖らせて頷いた。機嫌を損ねたのかな? と思ったが、目は穏やかさに包まれていたので、そうではないとわかる、
やがて、二人が注文したメニューが運ばれてきた。
午後も午前と似たような道程を辿った。ほぼ純佳のショッピングだった。だが、今回純佳は、ちゃんと物を買ったようだ。ブランド名はわからないが、水色のワンピースだ。俊孝が特に可愛いと褒めたものである。そして、買ったのはそれだけで、午前中に付けた目星らしき商品は、午後には一顧だにしなかった。女の子の買い物とはこんなものなのかと、舌を巻く。
ある程度買い物を終えたところで、二人は地下にあるフードコートにて休憩をとった。
その際、俊孝はこんな質問をしてみる。
「桝本さん、洋書に興味があるの?」
マックシェイクを飲んでいた純佳は、ストローから口を離し、小さく頷く。
「うん。少しね。私、将来語学の道に進みたいから」
「と言うことは、翻訳とかよくやってるんだ?」
純佳は、眉根を寄せ、うーんと唸る。
「よくってほどじゃないけど、ある程度はコンスタントに勉強してるかな。学校の課題とか、Z会の教科書とか。それに、時々、友達に英語の訳頼まれることもあるし」
「そうなんだ」
おぼろげに、純佳を殺すための計画の道筋が見えてくる。
「それがどうかしたの?」
純佳は、純粋な目でこちらを見る。
「俺も英語の訳でわからなかったら、桝本さんに頼もうかなって思ってさ」
まるっきりの嘘を言う。しかし、純佳は信じたようだ。
「それなら任せなさい。いつでもやってあげるよ」
純佳はどこか嬉しそうに胸を張る。
「ありがとう」
俊孝は微笑んだ。水面下に垂らした釣り針に、魚が食いついた感触がした。焦らず、ゆっくりと、リールを撒かなければならない。
純佳が思いついたように、口を開いた。
「その代わりと言ったら何だけど、ほら、この前言ってたでしょ? ペールジャー? あれ今度貸してね」
「あ、ああいいけど」
少し面倒だなと思う。直接証拠にはならないだろうが、こちらの痕跡がある物をあまり手渡したくはなかった。それに、近い内に死ぬんだから、もう返ってこないかもしれないじゃないか。
「あの本でいいの?」
「他になにがあるの? 外国の本」
少し俊孝は考えて、言う。
「洋書じゃなく、全部翻訳版だけど、有名どころでは、スティーブン・キングやリチャード・マンシスとかかな。あとはジェイ・アッシャーとかマイケル・カニンガムも持ってるよ」
前半はともかく、後半は自分で言っていて、吹き出しそうになる。純佳の反応を見る限り、いずれの作者の名前も知らないようだ。
「よくわかんないけど、ペール・ジャーでいいかな」
「わかった」
本を貸すのが先か、純佳が死ぬのが先か、といったタイミングだろう。拒否は不自然なので、許可するしかない。
会話が途切れ、しばらく無言が続く。フードコートの喧騒が、やたらと大きく聞こえた。
俊孝は、その中、ずっと疑問に思っていたことを質問しようかどうか迷っていた。なぜ今日自分を呼び出したのか。なぜ、『犯行』について、何も聞かないのか。それを誰かに話したのか。『更生させる』とはどういう意味なのか。
それらの話が出ない限り、今日会った意味がないと思う。このままでは、ただ遊んでいるだけではないか。
俊孝が思い切って、質問しようとした時、純佳が先に言葉を発した。
「そう言えば、由梨奈が言ってたんだけど」
その内容は、取るに足らないただの雑談だった。出鼻を挫かれた俊孝は、仕方なく聞きに徹した。
何を考えているのだろう。一体いつになったら本題に入るのか。
俊孝の疑念をよそに、純佳は楽しそうに喋っている。
そして、とうとう二人が別れる最後まで、純佳は『犯行』の話も、『更生』の話にも触れることがなかった。
警察署に連行されたり、脅迫されることもなく、無事に家へと戻った俊孝は、部屋へ入った。
靴下を脱ぎ、ベッドへと身を投げる。沼へと沈み込むような感覚と共に、どっと疲れが押し寄せた。
たかだが買い物なのに、相当疲労困憊していた。普段滅多に他者と行動を共にせず、不慣れな時間が続いたため、想像以上に体力を消耗したようだ。それに、相手がこちらの弱みを握っているというストレスも、それに拍車をかけていた。
俊孝は、仰向けの状態で、天井をぼんやりと眺める。
結局、純佳が何の目的でこちらを呼び出したのかわからないままだった。ただ一緒に買い物をしただけである。もしかすると、本来目的があったのだが、理由があって遂行しなかっただけなのかもしれない。あるいは、今日は様子見で、いずれ何らかのアプローチがある可能性もある。この辺りの詮索は、現段階でいくら考えても憶測の域を出ず、純佳に聞かない限りは、判明しないだろう。
しかし、今日の呼び出しは無駄ではなく、多少なりとも収穫があった。
俊孝は、ベッドからゆっくりと立ち上がる。体は疲れきっているが、休んでいる暇はない。
俊孝はパソコンへと向かい、電源を入れて、起動させた。
まず第一に、純佳を殺すに至って、一番重要なのはその犯行方法である。直接的犯罪だと銘打っても、ミステリー小説のように、殺人だと判明し、それを隠匿するトリックを弄するようでは確実に御用だろう。やはりベストは、殺人だと判明しない手法、例えば事故や自殺に見せかけて殺す方法が最適だ。
その中でも自殺こそがもっとも成功率が高いような気がする。なぜなら、こちらはすでに三人も自殺に追い込んでいるのだ。この三人に対しては、遠隔的、間接的手法で犯行に及んでおり、今回のように直接手を下さなければならない犯行に比べ、ハードルは著しく低かったが、それでも成功させてきた。無理に未経験である事故死という方法を取らなくても、一日の長がある自殺の方が、極めて安全かつ、確実に事を遂げられるのではなかろうか。そして、その方法が、僅かながら、形を帯びているのだ。
次に肝心なのが、純佳を殺すまでの間、これまでの犯行が露呈しないことである。完全な口封じは無理なので――だからこそ殺すのだが――純佳の言動を把握しておく必要があった。仮に誰かに伝えたとしても、それをこちらが知っておけば、対策は可能だ。それに、殺す際、純佳の動きが掌握可能であったなら、遂行の一助にもなる。
現在、それを現実化する手段はすでに手元にあった。
俊孝は、起動したパソコンのデスクトップに置いてあるEclipseのアイコンをクリックした。IDEが開き、Javaのソースコードが記述されていることが見て取れる。
これは、部室にあるIDEと全く同じものであった。そして、中にあるデータも。
家で作業するために、定期的に持ち帰って、データを反映させていたのだ。それがこんな形で役に立つとは思わなかった。
これからだ、と俊孝は思う。これから本格的に直接的完全犯罪の『計画』を練っていく必要がある。これはその足がかりだ。
必ず成功させてやる。
俊孝はそう誓った。
純佳と『たまプラーザテラス』で買い物をしてから、十日ほど経った。その間も純佳は学校で頻繁に俊孝へ話しかけてきていた。その話の大半が、高校生によくあるような、テレビやネットの話題である。俊孝は、それに対し、これまでと同様、付き合うことにしていた。
その状況がしばらく続くうちに、不思議だが、当初感じていた困惑や不快感といった感情が、随分と薄れつつあった。今では、さほど抵抗なく、自然と接することができるようになっていた。前に感じた逃げ出したくなるほどのクラスメイト達の視線も、以前ほど不愉快ではない。
ほんの少しだが、純佳との会話が楽しいと思ってしまう自分がいることに俊孝は気が付いた。聡史との会話の時とも違う、微妙な感情だ。一体どういうことだろう。こんな感覚は、初めてである。
俊孝は、休み時間、純佳に声をかけた。普段はほとんど純佳からなので、自分から声をかけるのは珍しいなと、頭の片隅で思う。ただ、これには明確な目的があったためではあるが。
「桝本さん、ちょっといい?」
次の授業の準備を行っていた純佳は、こちらを見るなり笑顔になった。
「なに? 天海君」
俊孝は、手に持っていた紙袋を純佳へ差し出した。
「これ、前言ってた本。ペール・ジャー。貸してあげる」
純佳は紙袋を受け取ると、中身を確認し、嬉しそうは表情を作る。
「ありがとう! 覚えてくれたんだ」
純佳は心底喜んでいるようだ。目がキラキラと輝いている。それほどこの本が読みたかったのだろうか。まあ、いい。これからが本題だ。
「約束だったからね。それと、もう一つ。以前、アンドロイド用のアプリケーションゲームの話したよね?」
「うん。パソコン部で作っているやつね」
「パソコン部じゃなくて、情報処理部。それで、ついこの前完成したんだ」
お馴染みの突っ込みを混ぜながら、俊孝は言葉を続ける。
「桝本さん、プレイしたいって言ってたから、どうかと思って。これも約束していたことだし」
俊孝の甘言に、純佳は、大きく頷いた。
「本当? 私やりたい!」
純佳は明るく同意する。俊孝は、思わず笑みを浮べそうになった。釣り糸に食い付いた魚が、より深く針を飲み込んだことが、感触として伝わってきた。
「アプリケーションは、部室のパソコンの中なんだ。昼休み、取りにこない?」
「うん。行く行く! ありがとう」
純佳は、目を細くしながら笑って首肯する。完全にアプリケーションを取りにくる考えだ。上手くいったと喜ばしく思う。順調に前へ進んでいるようだ。
「じゃあ昼休み、ご飯を食べたら、呼びにくるね」
俊孝はそう言い、純佳の元を離れる。自分の席へは戻らず、教室の入り口へ向かう。
しばらく背後に、純佳の視線を感じた。やがて、近くの席の友人に、楽しそうに話しかける純佳の声が聞こえてきた。それはとても機嫌が良さそうな雰囲気に包まれていた。
昼休みになり、俊孝は昼食を済ませる。そして歯を磨いた後、純佳に声をかけた。
「桝本さん、準備できてる?」
「できてるよー」
純佳は指でオッケーマークを作って答えた。少しはしゃいでいるようだ。
「スマホ持った?」
「うん」
「じゃあ行こう」
俊孝は、純佳を連れ立って教室を出る。その時、一瞬だけ教室の前方に目を向ける。神山達と机を囲んでいる聡史と目が合った。
俊孝は、微かに頷いてみせる。聡史には、すでに考えを伝えてあった。これからの道程を、聡史も把握しているはずだ。
問題ない。上手くいっているさ。心の中でそう呟く。
俊孝は、聡史から目を逸らし、純佳と共に教室を出る。
西校舎の一階へ辿り着き、鍵を使って情報処理部の扉を開けた。
部室の中を見た純佳は、その狭さに驚いているようだった。情報処理部員達は皆、平常化してしまっているが、本来はこの反応が当たり前である。誰だって、この雑多部屋には、閉口するだろう。
「奥のパソコンが俺のだよ。アプリはそこに入っている」
俊孝は、純佳を奥までエスコートした。
パソコンの前に座り、電源を入れる。
ウィンドウズが立ち上がる間、純佳は質問を行った。
「どうやってスマホに移すの?」
俊孝は、ポケットから、USBケーブルを取り出した。これは、自宅から持ってきた俊孝の所有物だ。
「これで移行させるよ。すぐに終わると思う」
やがてウィンドウズが立ち上がり、俊孝は、Eclipseを開く。そして、IDE内にあるデバイスビューを表示させた。デバイスビューは、接続された実機名を明示させるものだ。
準備が終わると、俊孝は、パソコンと純佳のスマホをUSBケーブルで繋ぐ。
少し間があり、やがてデバイスビューに、純佳のスマホの実機名が記された。これは接続が正常に完了したことを意味する。
順調にいきそうだと思う。あとは移行である。
Eclipseで作成したアプリケーションを実機に移行するためには、実機に応じた専用のドライバが必要になる。それはすでにインストール済みであり、純佳のスマホに合せたドライバを選択してあった。
俊孝は、IDE上のメニューバーから『実行』をクリックする。そして、移行させたい実機名を選択し、実行させた。
ドライバによる移行が始まる。
しばらくすると、スマホに目を落としていた純佳から、声が上がった。
「すごい。アプリケーションが表示されたよ」
俊孝は、満足し、小さく息を吐く。
「多分、動作も問題ないはずだ」
純佳のスマホの機種名を知ることができたお陰で、純佳の機種と同じエミュレーターを用意することが可能となっていた。そこで、何度もアプリケーションのテストを行い、確実に動作することを確認していた。通常のゲーム部分だけではなく、もう一つの隠し種の部分も。
「へーよくこんなの作れるね」
純佳は、移行が完了したスマホ画面内のアプリケーションを眺めながら、感嘆の溜息をつく。その感想が本音だということがこちらにも伝わり、俊孝の中に素直な喜びが生まれた。
「まあね。大変だったよ」
本当に。特に隠し種が。
「ありがとう天海君。家に帰って、遊ぶね」
「ああ」
俊孝は、パソコンをシャットダウンしながら頷く。こちらも家に帰ったら、仕込んだ『種』が動作しているか確認しなければならない。
「感想、LINEするね」
「わかった」
二人は会話を交わしながら、情報処理部を後にする。
廊下を歩きながら、俊孝は高揚した気分に包まれた。順調に事が進んでいる時ほど、ハイになることはないのだ。
純佳に渡したアプリケーションには、ある『仕掛け』が施されていた。俊孝が作ったゲーム部分は、ガワであり、内部構造的には、遠隔監視アプリそのものであった。
遠隔監視アプリとは、その名称通り、インストールした端末を通じ、持ち主を監視することが可能なアプリだ。GPSシステムを使った位置情報の取得や、LINEやメールなどのメッセージの監視、内部データーの閲覧といったことが行える。一度インストールされてしまえば、スマホから、持ち主のプライバシーがほぼ全て筒抜けになってしまうのだ。
このアプリを俊孝が一から構築したわけではない。『ケルベロス』や『Spy Zie』といった監視アプリを元に、内部へと組み込んだのだ。俊孝のスマホにインストールされている受信用のアプリも、それらを元に作成してある。
これにより、純佳の行動が監視可能となり、俊孝達の犯行が外部に漏れたかどうかの把握ができるようになった。また、純佳を殺す際のサポートにもなるだろう。犯行を完了させたら、消去すればいい。解析すれば判明するかもしれないが、わざわざ警察がそんな真似をするとは思えなかった。いざとなれば、スマホ自体を破壊すれば、証拠は完全に消えてなくなる。これが足枷にはならないはずだ。
わずか十日ほどの期間での作成だが、自分でもよく作れたなと思う。ガワとなったゲーム部分も何ら不自然なものではなく、まさか内部に監視アプリが仕込まれているとは想像だにしないだろう。ゲーム自体も自信作で、自分で作ったせいなのか、単純に面白いはずだ。そこを評価されると嬉しいと思う。
自分が監視対象になったことを露ほども知らず、純佳はにこやかに話しかけてくる。俊孝も優越感があるのか、楽しく応対できた。
純佳に遠隔監視アプリを渡してから、三日経った。アプリは問題なく機能し、純佳の動きが手に取るように把握できていた。今のところ、俊孝達の犯行を他者に漏らすような動きは見えず、またすでに漏らした様子も見受けられなかった。
夜、純佳からLINEが届いた。受信用の監視アプリにも、純佳が外部とのやりとりを行った際、通知が届くように設定してあるため、二通同じメッセージを受信する形になる。何度か純佳とやりとりをしたため、既知のことではあるが、未だに何とも妙な気分にさせられてしまう。
LINEの内容は、今度の休日遊びに行かないかとのことだった。
俊孝は、監視アプリを開き、純佳の位置情報を確認した。GPSを使った監視アプリは、グーグルマップと連動しており、地図上で相手の居場所を特定することができる。
確認した限りでは、純佳の居場所は宮前平の住宅街で、自宅にいることがわかった。家に帰ってからも外に出た形跡はなく、連絡も友人達と他愛もないやりとりを行っただけのようで、この誘いは企てされたものではないとの判断が可能だ。
俊孝は、純佳の誘いを了承した。『計画』の方も進んでおり、そのために必要な準備だった。少なくとも二度、純佳とプライベートで会わなければならない。
純佳が指定した場所は、伊勢山皇大神宮だった。横浜市でも有名な神社である。
休日、俊孝は純佳との約束のため、待ち合わせ場所である宮前平駅へ向かった。宮前平駅は、江田駅より四つ上りの駅だ。
俊孝は、そこで純佳と合流した。純佳の服装は、この前、俊孝と一緒に選んだワンピースを着ていた。手にはボストンタイプのハンドバックを手にしている。こちらは相変わらずジーパンにTシャツ、昔から使っているボディバッグという格好であった。
合流後、二人は横浜駅へ向かい、そこから桜木町駅へと到着した。伊勢山皇大神宮は、ここから徒歩十分ほどの場所にあった。
桜木駅から紅葉坂を通り、路地へ入った後、神社の正面入り口へと辿り着く。
二人は鳥居をくぐり、石段を登り始める。休日なだけあり、他の参拝客は多かった。
石段の近辺には、今は散ってしまっているが、染井吉野が植わっていた。春はさぞかし華々しく映えることだろうと思う。もっとも、大して興味がないので、春にくることもないだろうが。
俊孝は、染井吉野から目を逸らし、純佳へ質問をした。
「どうしてこの神社にきたんだ?」
純佳は答える。
「んー、パワースポットだから」
「はあ? パワースポット?」
そんなもの信じているのかこいつは。そもそもなぜそんなことのために、こちらまで呼び出したのだろう。
俊孝の怪訝そうな表情から、意図を読み取ったらしく、純佳は付け加えた。
「友達から聞いたの。横浜で一番強いパワースポットがここだって」
純佳は、少し照れたように説明した。丸っきりスピリチュアル的な要素を信じて言っているわけではなさそうだ。
「そうだとしても、なぜわざわざ俺と?」
「お守りを買うため」
「お守り?」
相も変わらず、純佳が考えていることが読めない。宇宙人と話しているみたいだ。どうしてその程度でこちらを付き合わせるのか。
純佳は、大きな目をこちらに向けて言う。
「後で一緒に買おう」
俊孝は手を振った。
「いや、俺はいらないよ。お守りなんて信じていないから」
純佳は膨れっ面をすると、肘でこちらのわき腹を小突いた。結構強く、痛みと共に石段から落ちそうになる。
「やめろよ」
恨みがましい顔をしている純佳へ、俊孝は抗議した。何なんだ一体。本気ではなさそうだが、怒らせるようなことを言ったらしい。
「買うの! 私達はお守りを」
純佳は強く訴えてくる。なぜそこまでこだわるかわからなかったが、純佳はどうしても一緒にお守りを買いたいようだ。弱みを握られている以上、下手に刺激しないほうがよさそうだった。
「わかったよ。後で買おう」
俊孝はため息と共に同意する。
「よろしい」
純佳は、満足気に笑みを浮かべた。
その後二人は、石段を登りきり、巨大な注連縄柱の下を通る。そして本殿へと到達した。
伊勢山皇大神宮の本殿は、神明造の厳かな社である。なんでも百五十年前当時の姿のまま移築され、今もなおその形様を保っているらしい。相当歴史ある建物のようだ。
俊孝は、純佳と他の参拝客に混ざって、お参りを行う。
それが終わると、純佳はこう言った。
「友達から聞いたけど、この神社は太陽の神様が祀られているんだって」
俊孝は、前に調べた伊勢山皇大神宮のおぼろげな知識を思い出す。
「ああ、天照大御神のこと?」
「なにそれ?」
知らないらしい。俊孝は、純佳に天照大御神の解説を行った。日本神話に登場する主神であり、日本の総氏神とも呼べる存在であることや、天岩戸の君隠れの話にも言及する。
天照大御神の名前自体にはピンとこなかった純佳だったが、エピソードそのものには少しだけ見聞があるようで、話を聞き終わると、納得した表情をみせた。
「その話聞いたことある。あま……何とかの話だったんだ」
「そうだね。天照大御神」
純佳は、感心したように熱っぽい眼差しをこちらに向けた。
「だけどさすがだね。天海君。色々詳しいね」
「そうかな? これくらいは一般常識だと思うけど……」
事実だと思ったので、俊孝は肩をすくめて言う。純佳は気に食わなかったようだ。
「褒めてやったんだから素直にありがとう、って言いなさい」
純佳は俊孝の肩を何発か叩いた。さっきもそうだが、こいつは手加減というものを知らないらしい。結構痛い。文句を言うつもりはないが、思わず苦笑いが漏れる。
それを純佳は好意的に受け取ったらしく、中の良い友達にするように、小さく笑った。
参拝を済ませた二人は、社務所にて純佳が要望していたお守りを購入した。
桜の花びらがデザインされた、ピンクと青のお守りである。二つで一セットあり、俊孝は純佳に言われるまま、半分だけ代金を支払った。
社務所の職員からお守りを受け取った純佳は、青色の方をこちらに手渡す。
「これって、なんの意味があるんだ?」
俊孝は、青色のお守りをためつすがめつしながら訊く。
純佳は満足した顔で、ピンク色のお守りを財布に取り付けながら答えた。
「意味なんて気にしないの。それを肌身離さず身に付けててね」
諭すような口調に、俊孝は渋々純佳と同じく、財布へお守りを取り付けた。別に邪魔になるようなものではないし、その気になったら捨ててもいいので、今はこれでいいか、と思う。
その後、俊孝と純佳は、伊勢山皇大神宮を後にし、近くのアイスクリームショップへと入った。何でも伊勢山皇大神宮は、アイスクリーム発祥の地であるらしく、名物の一つとして数えられているようだ。近辺にはそれを銘打ったアイスクリーム屋も多い。純佳はなぜかその点には詳しく、今度は俊孝は説明を受ける番だった。
天照大御神のことは知らなかったくせに、という言葉が喉まで出かかったが、また叩かれそうなので止めておくことにした。
店内の丸テーブルへ座り、注文を行う。俊孝はバニラアイスを、純佳はなんとストロベリーとカプチーノの二段アイスを頼んでいた。甘いものが好きなのだろうか。
やってきたアイスを二人で食べている時、俊孝は本題を切り出した。できるだけ不自然にならないよう、さりげない口調を心掛ける。
「そうそう、思い出したけど、桝本さんにちょっとお願いがあるんだ」
「何?」
純佳は、スプーンに付いたカプチーノアイスを舐めながら聞き返す。警戒心を抱いた様子はなかった。
俊孝は、ボディバッグから、一冊の黒い文庫本を取り出した。
本の名前は『大鴉』エドガー・アラン・ポーの詩集だ。原書版であり、全文英語で書かれてある。
俊孝は、その文庫本を純佳に渡した。
「付箋を付けている部分を翻訳して欲しいんだ」
俊孝は、文庫本を指差しながら言う。
純佳は付箋を付けてあるページを開いた。その部分は、タイトルにもある『大鴉』の物語詩が記載されているページだ。
「短い内容だから、そんなに時間はかからないと思う」
文庫本に目を落としていた純佳は、ふーんと頷いた。純佳は、リーディング能力も高いはずなので、詩の内容をすでに翻訳して読んでいるのかもしれない。
純佳は複雑な表情を浮べながら、『大鴉』の表紙を見て言う。
「なんだか少し怖い内容だね」
「まあね。ちょっとホラーめいたところはあるかな」
なにせ、主人公が徐々に狂っていく話なのだ。
「でも、有名な作品だよ」
エドガー・アラン・ポーは、この作品により、一躍有名人になったと聞く。言わば出世作である。
「そうなんだ」
純佳は、大して興味なさそうに相槌を打つ。外国の本に興味があるような節があったのに、この反応は意外だった。それとも、この本はお気に召さなかったのか。まあいいと思う。翻訳さえしてくれれば、何ら問題ないのだ。
「お願いできるか?」
俊孝は再度頼む。
純佳は本を閉じ、大きく首肯した。
「わかった。やってみるね」
「ありがとう」
俊孝は軽く頭を下げつつ礼を言った。順調に事は推移している。
ハンドバッグに文庫本を収めている純佳へ、いくつか補足を伝えた。
「頼んだ身分で悪いけど、できるだけ早めにして欲しい。あと、翻訳を記入する紙は何でもいいけど、封筒に入れてきてくれ」
本来なら、記入用紙はこちらが用意するべきものだが、ここは純佳の手持ち用品を使ってもらう必要があった。
「うん。オッケーだよ」
やや不躾な要望にも関わらず、純佳は快く了承する。疑う素振りも、不満を言う素振りもなかった。
しばらくして、二人はアイスクリーム屋を出る。そして、朝待ち合わせした宮前平駅で純佳と別れた。
青葉台駅で降り、一人で家路を歩く。
問題なく準備は進行している。そのはずだ。なのに、なぜか心の中に棘が刺さったような不快感が生じていた。連日『計画書』を書いていたせいで、体調が悪くなったのだろうか。
その不快感は、いつまで経っても晴れなかった。
休み明け、俊孝は聡史に呼び出しを受けた。記憶にある限り、聡史の方から呼び出しを行うのは初めてであった。
ランデブーポイントも聡史が決めていた。これも珍しいことである。指定した場所は、鷲沼駅から結構離れたファミレスだった。聡史も、相手の懐事情に配慮する神経を持ち合わせていないらしく、俊孝は、ランデブーのために、余分な出費を強いられる形となっていた。しかし、それはこれまで俊孝が行っていたことなので、文句を言うのは筋違いである。
部活を終えた俊孝は、江田駅から上がりの列車に乗り、鷲沼駅で降りる。そこからしばらく歩き、聡史が指定したファミレスへ到着した。
ファミレスへ入ると、すでに聡史はいた。奥のテーブル席に座っている。
俊孝が向かいの椅子に着くと同時に、聡史は口を開いた。
「経過はどうだ?」
聡史は審問官のように頬杖を付き、質問を行った。少しだが圧迫感のようなものを感じる。
「大丈夫。順調だよ。例の『翻訳』の件もちゃんと受けてくれた」
「そうか? それならいいが。だが時間がかかりすぎじゃないか?」
聡史はアンセル・エルゴートに似た綺麗な眉根を上げて、訊く。
俊孝は両手を開いた。
「そこは前にも説明しただろ。少し時間が必要だって」
「できるだけ早めにやるとも言ってただろ」
「やっているじゃないか」
いきなりどうしたんだ聡史は。俊孝は訝しむ。何やら不満を抱えているようだ。滅多にこのような詰問はなかったのに。
聡史はさらに不満を続けて言う。
「俺にはやっているとは思えない。このままだと他人に俺らのことをバラされるぞ」
「そのことも前に説明しただろ。いますぐ漏れる危険は低いって。桝本さんに仕掛けたアプリからも、それは証明されている。バラされた形跡もないし、そんな予兆も今のところはない」
「今のところは、だろ。今すぐにでも誰かに話すかもしれない」
「桝本さんと接する限りでは、そんな様子は感じられないぞ。とにかく、もう少し待ってくれ。ちゃんと上手く事は進んでいるから」
俊孝は説得を試みる。だが、聡史はそれでも納得しないようだ。
「それが信じられないんだよ。何なら俺が『計画』を立てて実行してもいいんだぞ」
お前の『計画』こそ信じられないだろうが、という言葉をつい発しそうになるが、俊孝は飲み込んだ。ここでそれを言ったら、本当に激怒しそうだ。
しかし、妙な不満を抱えていることが、はっきりと見て取れた。早めに対処しないと、致命傷になりかねない。
俊孝は、思い切って聡史に尋ねた。
「一体どうしたんだよ。聡史。様子がおかしいぞ」
俊孝の質問に、聡史は身を崩し、椅子の背もたれに寄りかかった。本音を話そうという姿勢のように思えた。
聡史は、睨むような目付きをこちらに向け、答える。
「俺は不安なんだよ。お前が桝本に取り込まれないかって」
「どういうことだ?」
聡史の意味不明な疑問に、俊孝は眉根を寄せる。何を言い出すのか。
聡史は言った。
「お前、随分と桝本と仲が良くなっているじゃないか」
「それが? 『計画』のためだろ。接近する必要があるのも、以前話したじゃないか」
聡史は、諸々の説明を忘れたのだろうか。いくらこいつが馬鹿でも、そこまで失念するほどではないはずだ。まさか、健忘症にでもかかっているんじゃないだろうな、
聡史は、少し間を置いて言う。
「一部では噂になっているぞ。お前と桝本が付き合っているんじゃないかってな」
俊孝は、意外の感に打たれた。そんな噂が出ていたのか。とはいえ、無理もないかもしれない。学校でも頻繁に会話を交わすようになったのだ。
「このままだと『計画』に影響が出るかもな」
俊孝は少し考える。確かにその可能性はありえるかもしれない。このまま純佳が『自殺』により死んだ場合、自分に何かしらの疑念を抱かれる恐れはあった。純佳に接近する必要があったとはいえ、予想以上に純佳のコミュニケーションが過多だったことが原因だ。本来は、プライベートでのみ、少しずつ接触を繰り返すつもりであった。誤算と言えば誤算だ。
しかし、これで大きな支障が出るとも思えかった。
「『自殺』が完璧に遂行できれば、何の問題もないだろ。少しくらい疑われても」
聡史は、肩をすくめ、軽く両手を上げる。
「まあ、お前がそう言うならそうだろうけどよ、さっきも言った通り、俺はお前が心変わりするんじゃないかって心配なんだよ」
「馬鹿か。そんなわけないだろ」
ふと、純佳が以前発した「改心させる」という言葉が脳裏に思い起こされた。結局、そのことについての言及は、まだ純佳からはなかった。現在もなお、目的と真意は不明である。
だが、純佳から何を言われようと「改心」などという変節には至るはずがなかった。それは自身が一番わかっている。俺は人の言動に惑わされるほど間抜けではない。
「お前の杞憂に過ぎないよ。そもそも俺と桝本さんが付き合っているっていうのも、てんで誤解だし」
俊孝の弁明に、聡史はホッとした顔をする。
「そう言われればそうだな。俊孝が人から懐柔されるわけないもんな」
聡史は態度を軟化させた。あっさりと納得したらしい。単純な奴だと思う。
聡史は、預けていた背もたれから体を起こすと、前のめりになった。
「たださ、俺が疑いを強めたのは、お前が楽しそうに桝本と話していたせいだよ。あれ、結構上手い演技だぜ」
俊孝は面食らう。自覚がなかったのだ。俺が楽しそうに会話していた?
「本当か?」
「ああ」
俊孝は頭を掻く。原因は不明だが、なぜかそのように映ったらしい。それを指摘され、動揺があった。
聡史は俊孝の反応に疑問を抱くことなく、平然とした様子でドリンクを飲んでいる。こいつが言ったことだから、大して意味はなく、ただの思い込みの可能性もある。考えるだけ無駄なのかもしれない。
俊孝に対する疑いが晴れたため、二人は、その後再度『計画』における確認を行った。そして、少しだけ雑談を交わし、解散する。『Sky Face』のログインも約束していた。時間はないが、こちらも重要任務なので、止めたくなかった。停滞していると、聡史置いていかれてしまうのだ。
家に帰り、夕食までの間、パソコンのモニターに『計画書』を表示させる。概ね完成しており、あと一息だ。
なのに、なぜだか身に入らなかった。聡史が言った懐柔という言葉と、楽しそうに会話を行っていたという言葉が、グルグルと渦巻きのように、頭の中を駆け巡っていた。
五日後の休日。俊孝は、純佳を『たまプラーザテラス』へと呼び出していた。先日、LINEで翻訳が完了したとの連絡があったためだ。純佳は学校で手渡すと伝えてきたが、俊孝は断り、お礼を兼ねてプライベートの時に渡して欲しいと申し出た。純佳はそれを容易く了承し、俊孝は待ち合わせ場所を『たまプラーザテラス』に指定したのだ。
昼直前の時間、俊孝は前回と同様、北口前の広場にて、純佳を待った。この時間に決めたのは、純佳に伝えたお礼が昼食を奢ることだったからである。
俊孝がここに到着してものの数分も立たない内に、純佳はやってきた。今回は遅刻はしなかったようだ。
「お待たせ。遅れてごめん」
「約束の時間よりも早いから遅れてないよ」
「天海君いつも早いよね」
「時間厳守は社会人の基本だからな」
「なにそれ。学生なのに」
純佳が呆れたように言う。こうして軽口を叩き合う相手が、聡史以外にもう一人増えたことは、思いもよらない事実だ。そして、それがいずれ消えてなくなるのも。
「お腹空いちゃった。天海君がご飯食べてくるなって言ったから」
「そうだな。ご馳走するから腹を空かせてないと」
純佳は、小動物のような目を、悪戯っぽく輝かせた。
「ご馳走って高級レストラン?」
「まさか。お金がもったいないよ」
「ケチな男は嫌われるぞー」
純佳は囁くように言った。
「働きに見合う報酬なだけだよ。そこまで大変な仕事じゃなかっただろ? 焼肉で我慢してくれ」
それでも充分、手痛い出費だったが、自分の身を守るためだ。仕方がない。
「翻訳、結構難しかったんだよ。ねぎらって欲しいなー」
純佳は口を尖らせる。しかし、満更でもなさそうだった。
「ねぎらっているさ。ゲートプラザの四階にある焼肉屋、今日キャンペーンだから、安く済むぞ。それに休日ランチもやってるしな」
「なによそれ。全部天海君のためじゃん」
純佳は吹き出す。そして二人は笑い合った。
焼肉屋にて、俊孝は、純佳から翻訳した紙が入った封筒と、貸していた『大鴉』を受け取った。中身を確認したい気持ちがあったが、我慢してそのままボディバッグへ収める。
その後、食事をし、キャンペーンと休日ランチにより安くなった二人分の会計を、俊孝が支払う。
店を出た二人は『たまプラーザテラス』を見て回った。前回とは違い、周辺に建っているノースプラザやサウスプラザにも立ち寄る。
日が落ち始めた頃に、二人は駅のホームで別れた。
早々に家へと戻った俊孝は、自室の机に座り、百均で買った薄手のゴム手袋をはめた。そして、デイパックから純佳から貰った封筒を取り出す。
開封し、中身を確認する。
おそらくルーズリーフを切り取ったのであろう紙が、数枚折り畳まれた状態で入っていた。それらを開くと、日本語で詩のようなものが綺麗な字で記入されてあった。
『大鴉』の翻訳文だ。俊孝は、純佳に依頼せずとも、『大鴉』の内容は知っていた。その記憶を元に、純佳の翻訳文を読んでも、プロのそれと比べて、何ら遜色のない的確で明瞭な訳出であることがわかった。『大鴉』自体整然とした文であるものの、隠喩が多く、翻訳の難易度は高いはずだ。よく訳したものだと思う。
『大鴉』は、夜更けに人語を喋る大鴉が主人公の部屋を訪れ、次第に主人公が狂気に陥っていくストーリーである。俊孝は、その訳詩の数箇所に着目した。
『大鴉』はそれぞれ六行、十八の詩節(スタンザ)で構成されている。その中で使えそうな文がいくつか見付かった。
二詩節目、十詩節目、十二詩節目、十七詩節目と十八詩節目か。この辺りが妥当だろう。
それらが記入されている部分をそれぞれ切り取り、適切な形になるよう組み合わせて、一枚に仕上げる。下地には紙の空白部分を使い、糊で貼り付けた。
そうして完成した文は、こうである。
『わたしは悲しみを忘れようと努めた。だけどもうたくさんだ。この哀れな心から抜け出すことができない。わたしは孤独なのだから』
完全なる純佳の『遺書』であった。
糊で貼り付けてある点は不自然に映るかもしれないが、筆跡に加え、この紙に付着している指紋は純佳のもののみである。検分が入っても、偽物だと判断つかないだろう。
俊孝は、慎重に『遺書』を折り畳み、机の中に入れると、ゴム手袋を外した。そして、パソコンを起動させる。
ワードを開き、『計画書』を確認した。
すでに『計画』は完成済みだった。純佳には飛び降りによる自殺を行ってもらう予定だ。しかもあの二年四組の教室から。そのために『遺書』を純佳に書いてもらったのだ。
『計画書』には、フローや決行日時、注意点などが事細かに入力してある。これを印刷し、可及的速やかに聡史へ渡さなければならない。その後、実行である。
『計画書』を印刷している間、疑問に思う。これまでとは違い、犯行直前の昂ぶりを全く感じないのだ。心にあるのは、ヘドロのような濁った感覚のみ。
いつも『計画』を考えている最中、頭に鳴り響いている『断頭台への行進』は、近頃全く聞こえなくなった。
これは一体、どういうことだろう。
二日後、部活が終わり、俊孝は聡史と共に、人気のなくなった二年四組の教室で、軽いリハーサルを行うことにした。
聡史とは学校でコミュニケーションを取ることは滅多になく、おそらくこの時が、ほぼ初めて学校で会話を交わす瞬間であると思われた。このような機会がなければ、本来はありえなかった。
「オッケー。ここから桝本を落とすんだな」
聡史は、昨日渡したばかりの『計画書』を読みつつ、教室の前方にある窓を指差した。窓からは、夕日が差し込んでいる。
「ああ。その際はゴム手袋を必ず着用しろよ」
俊孝は抑揚のない口調で、注意を促す。
「わかっているって。さすがに指紋をわざわざ残すような真似はしねーよ」
聡史は意気揚々と答える。随分とテンションが高めだ。まるで祭の準備の最中のようである。
反面、俊孝はドライだった。何となく気が重く、気分が良くない。このリハーサルも可能な限り早めに終わらせたかった。
しかし、それでも慎重に続けなければならない。自分達の人生を守る『計画』遂行のためなのだ。
「桝本を殺した後は『遺書』を仕込むんだな?」
「そうだ」
俊孝は、机の上に置いてある自分の通学鞄を顎でしゃくった。純佳の『遺書』はすでに鞄の中に入れてある。これでいつでも利用可能だ。
『計画』は簡潔かつ明瞭なものだった。口頭で純佳を放課後、ここに呼び出し、聡史が隙をみて、窓から落とす。下はコンクリートなので、確実に死ぬはずだ。そして、『遺書』を純佳の机か、通学鞄に仕込む。
細かい点は他にも沢山あるが、概ねそのような流れだった。
「上手くいくかな」
聡史は突然、不安を口にした。なおも気分が高まっている状態だが、単純な憂慮は心の奥底にあるのだろう。
「……いくさ。多分」
俊孝は、ぼそりと呟いた。
俊孝と聡史は、それから何度か打ち合わせとリハーサルを行い、解散することにした。決行は、一週間後の金曜日に決めた。
これまで通り、二人が一緒に行動している姿は見られたくなかったので、時間を置いて別々に教室を出ることにした。
俊孝は聡史より先に教室を後にする。
夕日に染まっている下駄箱を出ると、視線の先に誰かがいた。その人物は、こちらを確認すると、歩み寄ってくる。どうやら自分を待っていたようだ。
それは純佳だった。
「遅かったね」
純佳は微笑みながら言う。落ちかけた陽光に顔が照らされ、朱を帯びているようだった。
「待ってたのか?」
俊孝は、純佳に訊く。純佳は頷いた。
「うん。一緒に帰りたくて」
微かに、心臓が高鳴ることを自覚する。
「迷惑だった?」
「いや、そんなことはない。一緒に帰ろうか」
俊孝は、思わず了承してしまう。純佳はほっとしたように、よかった、と呟いた。
俊孝は、純佳の横に並び、共に歩き出す。
「天海君が中々出てこなかったから、もう帰ったのかと思っちゃった」
「プログラムを作るのについ夢中になって、遅くなったんだ」
「そう。パソコン部も大変だね」
「情報処理部な」
二人は会話を交わしながら、校門を抜け、駅へと続く県道へと出る。
しばらく歩くうちに、いつしか二人は無言になっていた。いつもは積極的に話しかけてくる純佳の言葉数が少ないのだ。自分から一緒に帰ろうと言っておきながら、どうしたのかと思う。
江田駅直前にある東名高速の高架下を通った時だった。高速を走る車の反響音に混ざって、純佳の声が聞こえた。
「ねえ、今日、この後天海君の部屋に行っていい?」
俊孝は耳を疑った。
「何だって?」
「だから、今日これから天海君の部屋に行っていい?」
純佳は言葉を繰り返す。
「なぜ?」
「別に、特別な理由はないけど……」
純佳は、様子を伺うように、こちらを上目使いで見てくる。胸の鼓動が、先程より強く高鳴った。
気が付くと、俊孝は頷いていた。
「……ああ。構わないよ。少しの時間なら」
俊孝は頬を掻く。さっきから何だか調子がおかしかった。勝手に、体が動いている。まるで頭と体が乖離したかのようだ。
急遽、客人と化した純佳と共に、俊孝は、江田駅から青葉台駅へと向かった。駅前から家を目指して歩く。この道をこうして誰かと共に帰るのは、一度もなかった。というより、誰かと一緒に下校するなど、高校生活が始まって初のことである。
家へ着くと、母の恵美子がいた。俊孝は黙って純佳を部屋に通そうとしたが、あっけなく気付かれてしまった。純佳も挨拶をしたそうだったので、仕方なく二人を引き合わせる。
純佳から挨拶を受けた恵美子は、まるで天変地異が起きたかのように驚いた。実の息子が誰かを家に招いたことが、よほど信じられないらしい。本人を前に、恵美子は「あなたが女の子を連れてくるなんて!」と卒倒しそうな勢いで、言葉を吐いた。
その後、お茶などの差し入れを用意すると言って憚らない恵美子を説き伏せ、俊孝は、純佳を部屋に案内した。
部屋に入り、俊孝は、純佳を机の椅子に座らせる。物がない部屋なので、座る場所がベッドかそこしかないのだ。ベッドは何だか気が引けるので、椅子に落ち着いた。
その時、机上のパソコンに、例の『計画書』が入っていることを思い出し、ドキリとする。しかし、わざわざ起動させる真似はしないだろうから、問題ないのだと思い直した。だが、通学鞄の中の『遺書』には、注意を払わなければならない。
他には自身の『計画』に繋がる証拠は、少なくとも、この部屋の表面上にはないはずだ。日中、俊孝の不在時に、母が部屋へ入る恐れがあるため、可能な限り証拠を排していたのだ。そのお陰で、こうした急な来客にも対応できた。僥倖である。
俊孝はベッドへ腰掛ける。純佳は、部屋の中を物珍しそうに見渡していた。独房のように、殺風景な部屋だと思っているのかもしれない。
やがて、純佳は顔を下に向けた。二人の間に、沈黙が訪れる。家の前を通る自家用車のエンジン音が、大きく響く。
気まずさを感じ、俊孝は話題を提供しようと思った。そういえば、ペル・ジャーはまだ貸したままだった。あの本の感想を訊くのはどうだろう。
そうやって話題を決めた矢先、純佳は口を開いた。
「天海君、前からあなたに訊きたかったことがあるんだけど……」
「訊きたいこと?」
先手を打たれ、俊孝はハッとする。一体何だろう。嫌な予感がした。
「うん。あの時見た、人を自殺に追い詰める紙のことについて」
そのことか。俊孝は、胸がざわめくのを感じた。純佳は、やはり疑問をずっと心中に秘めていたようだ。顔付きを見てわかる。
ここは慎重に対応する必要が出てきた。下手な弁明は命取りになりかねない。
「……ああ、それがどうしたんだ?」
俊孝は静かに訊き返す。
「もうあれ、やっていないよね?」
純佳の問いに、俊孝はゆっくりと首肯する。
「もうやっていないよ」
これは嘘ではない。実際は、人を自殺に追い詰めるのではなく、直接的に殺害する手法を実践しようとしているのだから。そして、その対象が自分だとは、純佳は想像だにしていないようだ。
「そうよかった」
俊孝の表情から、純佳は、事実だと見抜いたのだろう、喉のつっかえが取れたように、ホッとした顔を見せた。
これで質問は終わりなのだろうか。違うはずだ。
純佳は、さらに質問を続けた。
「どうしてあんなことを始めたの?」
俊孝は息を飲む。事実を知ったため、当然の疑問である。むしろ今まで訊かなかったことが不思議なくらいだ。
「……」
俊孝は答えに窮した。いくら理由を尋ねられようと、自身でも明確な答えを持ち合わせていないのだ。強いて言うならば「楽しかったから」なのだろうか。
「どうして黙っているの? 言えない?」
押し黙った俊孝へ、純佳は質問を重ねる。それは、教師が悪さをした生徒を問い質すような風情だった。
俊孝は、薄闇の中、純佳の顔を見つめる。純佳は真摯な表情だ。窓から入ってくる光を受け、純佳の目が刃物のように光っている。
少しだけの沈黙を経て、俊孝は決心した。作り話や嘘は逆効果になる。かといって、言わないのもよくない。ここは正直に話した方がベストだろう。事の発端と、その時の心情を。ただし、いくつか重要な部分は伏せる必要がある。少なくとも、聡史が関与していることは、おくびにも出してはいけない
俊孝は、顛末を純佳に話し始めた。
「そうなんだ……」
話を聞き終わった純佳は、沈痛な面持ちで、俯いた。奇々怪々な事件の動機と心情を聞かされ、純佳は困惑しているようだ。おそらく当初は、恨みがあるとか、揉め事があったなどの分りやすい理由を想定していたようだが(岡部真澄を始め、多少はあったが)実際、中心にあるのは『無』である。納得できる動機は存在しなかった。その後の『計画』も、難関試験にチャレンジするかのような、ただのフロンティアスピリットが継続の要だったのだ。ようは娯楽のようなものである。それは聡史も同じのはずだ。
純佳は黙ったままであった。理解不能な説明に対し、持ち合わせる言葉がないのだろう。俊孝は、今更ながら、正直に話したことを後悔し始めた。ベストな判断だと思ったが、読み違えたか。もしもこのまま立ち上がり、友人に全てを話すと言って出て行ったら……。
俊孝がそこまで考えた時、純佳は、俯いたまま、何事か喋り始めた。俊孝は、純佳のナチュラルショートに包まれた頭を見る。
「私ね、思うんだ」
純佳は、極力抑えたような声でそう言う。そして、続ける。
「天海君がそんな行動を取ったのも、天海君が孤独だったから」
「孤独?」
意表を突く純佳の解釈に、俊孝は目が点になる。
「うん。天海君が一人じゃなかったら、こんなことしなかったと思う」
純佳は顔を上げ、真っ直ぐこちらを見据える。純佳は、真面目な表情だった。
純佳は椅子から立ち上がり、俊孝の座るベッドへ歩み寄った。そして、俊孝の真横に腰掛ける。ベッドが二人分の体重を受け、大きく沈み込んだ。
制服同士が触れ合うほどの距離になり、俊孝の心臓は、図らずも大きく跳ね上がる。
そのような俊孝の反応は露知らず、純佳は正面を向いた状態で話を続けた。
「天海君、一人でいちゃ駄目だよ」
俊孝は返事に困る。
「そう言われても……」
実際のところ、純佳は聡史が共犯者である事実を知らない。つまり、俊孝が全てを一人で企図したと思っているのだ。だからこそ、出た言葉なのだろう。しかし、それは誤認である。現に俊孝は、聡史とはコミュニケーションを取り、共に犯行に及んでいる。孤独と断ずることはできないはずだ。
とはいえ、一般的に見れば、俊孝自身、充分孤独な人間の部類に入るかもしれないが……。
「ねえ、あの時私が言った『更生させる』って言葉、覚えている?」
純佳はこちらに顔を向けて訊く。
「あ、ああ覚えているよ」
純佳は、以前から気になっていた文言について触れた。
「私があんな言葉を言ったのは、天海君に悪事を続けて欲しくないからだよ」
「だったら、わざわざこっちに伝えず、警察に行けばいいだろ」
純佳は首を振った。
「ううん。そういう意味で言っているわけじゃない。被害者を出したくない――その気持ちも強いけど、なにより、天海君に罪を犯さない普通の人になって貰いたいの。私自身が」
純佳は『私自身』という単語を強調して言う。
「……」
純佳の意図がわからず、俊孝は複雑な表情を浮べてしまう。何が言いたいのだろう。
俊孝の顔を見て、純佳は、今度は体ごとこちらを向いた。ほぼ正面から、俊孝を見据える。
純佳は小さく息を吐くと、決心したような表情でこう言った。
「私、俊孝君のことが好き。だから、あんなことをやって欲しくない」
しばらく、純佳の発した言葉の意味が、脳に染み渡るのに時間がかかった。やがて、氷が溶けるように、理解の兆しが訪れる。
純佳が、俺のことを好きだと?
俊孝は、純佳の顔を呆然と凝視した。純佳は、真剣な眼差しを向けていたが、恥ずかしそうに目を逸らす。
その状態で、口を開く。
「ずっと前から好きだったよ。気が付かなかった?」
俊孝は首を横に振った。わかるわけないだろ。そんなこと。こっちは、恋愛だとか好きという気持ちがわからないんだ。
俊孝は、そう心の中で呟くも、口に出せなかった。
俊孝の無言を肯定と捉えたようで、純佳は、髪をかき上げて、再びこちらを見つめる。
「それで気になってたんだ。天海君がずっと一人きりでいること」
「俺は一人でいるのが好きなんだよ」
「ううん。きっとそれは違うよ。心の底では寂しがっているのがわかるもん」
何を勝手に。俊孝はそう思う。純佳の完全な憶測だ。むしろ偏見である。なぜ、こうも自信満々に言い切れるのだろう。
だが、不思議に言い返せなかった。純佳の勢いに飲まれてしまったのか。
純佳は、こちらを見つめたまま、優しく微笑む。そこには慈愛のようなものが含まれている気がした。
「でも天海君は、もう一人じゃないよ。私がいるから」
そう言うと、純佳は、ゆっくりとこちらに身を寄せた。何をするのかと思った矢先、純化は静かに俊孝を抱き締める。
抵抗できなかった。身体が硬直し、心臓が再度高鳴った。体と頭が痺れたように、小さく震える。
気が付くと、俊孝も純佳を抱き締めていた。柔らかい純佳の身体の感触が、制服越しに伝わってくる。ほのかに甘い臭いが鼻腔をついた。
二人はしばらくそのままだった。密着しているため、二人の間に温もりが生まれ、自分の鼓動の高さが純佳に伝わっていないかと心配になった。
やがて、純佳は顔を上げた。間近で俊孝と見つめ合う形になる。薄暗い部屋の中、純佳の吐息を感じる。
そして、二人は唇を重ねた。身体が自然に動いていたのだ。なぜだろう。しかし、その疑問は気にならなかった。純佳の唇は、マシュマロのように柔らかく、滑らかだった。その心地いい感触が、俊孝の唇を捉えている。電撃のような快感が、頭から足先まで貫いた。
唇を重ねていた時間は、ものの数秒だった。しかし、永遠にも感じるその瞬間が、俊孝の心に、木漏れ日のような暖かさを与えていた。
唇を離した純佳は、静かに目を開く。そして俊孝の顔を見て、ハッとした表情を浮べた。
俊孝は気が付く。自分の頬が濡れていることに。俊孝は涙を流していたのだ。これはどうしてだろう。自分自身、困惑した。
純佳は、優しげに笑みを浮べると、そっと俊孝の涙を拭った。
俊孝は、再び、今度は自ら、純佳へキスをした。純佳も抵抗せず、それを受け入れる。
今度は時間をかけた。しばらくの間、夕闇覆われた部屋の中で、湿った音が広がる。
切ない甘酸っぱさが満ちる頭の中で、俊孝は思う。純佳を失いたくないと。
なぜだが唐突に湧いた強い気持ちだった。俺はなんということを考えていたんだ。純佳を、こんな大切に想う女の子を殺そうと計画していたなんて。
お互い唇を離し、見つめ合う。純佳は愛おしそうに小さく微笑む。俊孝もそれに応じるように、笑みを浮べた。
すでに頭の中から、純佳に対する殺意が消え失せていた。その空いた隙間へ埋まるようにして、純佳に対する愛情が湧き上がっている。こんなこと、生まれて初めてであった。
純佳の可愛らしい顔を見ながら俊孝は思う。純佳を殺すのは止めよう。もっと一緒にいたいから。
俊孝は、そう決心し、純佳を強く抱き締めた。
それから三日後のことだった。俊孝の元に、純佳が自殺したとの報が届いたのは。
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