0人が本棚に入れています
本棚に追加
二つ目の名前5
「気に入らなかったなら謝るよ。でもピッタリだと思って」
「気に入らないとは言ってないよ。ただ何であぶちゃんなのかなって」
少しバツの悪そうな顔をした瑞保は、それでも私が怒っているわけではないと分かったらしい。
理由はね、と口を開いた。
「シオヤアブ」
その単語が耳にザラリとした感触を残していく。
このやけに纏わりつく感触は一体何を意味するのか、私は身震いした。
「……アブって虫のことだよね?」
「そうだよ。まぁアブの仲間のうちの一種かな。黄金虫の幼虫、成虫を食べてくれるの」
瑞保は満面の笑みを浮かべて私の手を取る。
「明歩のおかげで古金先輩いなくなったんだもん。黄金虫先輩を倒した、ってことでシオヤアブちゃん。そこから呼びやすいように、あぶちゃんになったの」
明歩の苗字、塩屋だしピッタリでしょ?
瑞保言っていることは分かる、その理屈も何となく理解した。
しかしどうしても分からないことが一つだけある。
「私のおかげで、古金先輩が、いなくなった……って、どういうこと?」
声は震えていた。いや、もはや得体の知れない恐怖に全身が震えている。
握っている私の手からその震えを感じ取ったのか、瑞保は宥めるように優しく手の甲を撫でた。
「……引き出しに入ってたUSB」
いつの間にか誰も居なくなっていた会社内で、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。ゾワリと全身の毛が逆立つ。
「私知ってたんだ。明歩が完璧な企画書と、敢えて色んな数値を書き換えた企画書の2つを作ってたこと」
「まさか……瑞保が、USBを取り替えたの……?」
瑞保は私の言葉に少しだけ拗ねたように頬を膨らませる。
「だって!ようやく明歩があの先輩をやっつけてくれるのかと思ったら、結局使わず引き出しに隠しちゃうんだもん」
そう、今日私が探していたモノは古金先輩に渡したUSBと外観は全く同じもの。だがその中身は全くの別物だった。
今まで通りの日々を送るためのUSBと、もしかしたらこの日々から解放されるきっかけになるかも知れないUSB。
それを作ってしまったのは、ほんの少しの好奇心と願望から過ってしまった考えからだった。
数値をバレない程度に弄って作った企画書を先輩が我が物のように使ったなら、流石に怒られるに違いない。
もしかしたら私に仕事を回すこともなくなるのでは、と。それはとても魅力的なことに思えた。
しかしそんな企画書を作ってみたものの、最終的には先輩が数値の改竄に気づくかもと怖気ついてしまい、私は前者のUSBを先輩に渡した。
今まで通りの日々を送ることを選んだのだ。
私は大きくなる震えを抑えきれなかった。
私のせいで古金先輩は左遷されたんだ。その罪悪感が一気に襲ってきて、何かを吐き出したい気持ちでいっぱいになる。
私があんな企画書のデータなんてすぐに消しておけばよかったのだ、と後悔しか浮かばない。
胸にドロリと淀みのような気持ち悪いものが渦巻いていた。
そんな事ばかりを考えている私を他所に、瑞保は話を続ける。
「怖かったんだよね? もし改竄したデータに先輩が気づいたら、って。だから私が代わりにやってあげたんだよ。博打みたいなものだったけど怖くなかった」
同情するように空いている方の手で私の背中を擦りながら、瑞保は綺麗に笑った。
ああ、その笑顔は私達が出会ったあの日のソレとはかけ離れてしまった。
「だって私が負けることなんてないもん。だからどうするか迷う時があったら私に言ってね?絶対に勝たせてあげるから」
『うちの会社のニックネームは虫ばっかだな』という先輩の言葉をふと思い出した。
そうだ、瑞保のこの自信は彼女自身のニックネームから来ているのかもしれない。
自分の人生においては勝ちしかないと思い込んでいる。そして実際今回も、古金先輩との企画書の数値改竄に気づくかどうか、という博打に勝ってみせた。
飛田瑞保。最初と最後の漢字を取って、無理矢理当て字読みをするとその虫は現れる。
「私の名前は飛田瑞保!とんぼちゃん、っていうのが小さい頃からのニックネームなの。よろしくね!」
記憶に残る瑞保の笑顔が、何故か懐かしくなって涙がこぼれた。
そう、彼女のニックネームには『勝ち虫』が付いていた。
最初のコメントを投稿しよう!