自由病

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  月光の髪長姫(ラプンツェル)が去った。そのとき――この塔に「髪長姫」を囲う趣意の変質が明らかになり、私の夢想は、(つい)えた。  月光の髪長姫は、最も長くこの塔で暮らした少女だ。色淡く、光を透かし金にも銀にも見える髪を、私は月の光に例えて(たた)えた。 「おはよう、髪長姫(ラプンツェル)。今日から君は、このおとぎの世界のお姫様だ」  そう初めて私に声をかけられた少女は、見知らぬ場所での目覚めに戸惑う。辺りを見回し、石造りの古風な丸い部屋と、壁に埋まった大きな二枚の鏡に驚く。そして私の存在にも。  月光の髪長姫とて同じだったが、あれほど落ち着いた笑みを浮かべて、鏡の上の天井に吊られた鳥籠を見上げた子はいなかった。 「初めまして、鳥さん。あなたの(くちばし)、水仙の花のようで素敵ね。鳥さんとお話しするのは初めてなので、失礼があったらごめんなさい。でも貴方のような紳士がお話し相手で、嬉しいわ」  昼間にもかかわらず、燃え続ける灯りの数々に照らされながら披露された挨拶は、私たちに典雅な楽しみの日々を確信させた。  この塔は古く無骨な見た目に反し、贅が尽くされている。しかし良家に生まれ、人にも物にも不足なく育った彼女には、この空間ですら窮屈で寂しかったことだろう。衣食住の心配は欠片もない。階を隔てて寝食も分離されている。かといって、それらは彼女がかつて持っていた分の一部にすぎないだろうに、それ以上を求めるつもりはないらしかった。  彼女は毎日慎ましくも、私たちの期待を裏切らず楽しませた。優美な容姿と所作のみならず、歌声がそれは見事で、窓辺で背に光を負って歌う姿は格別だった。  塔の壁は厚く、その厚みはつまり外へと続く窓までの距離となる。幅は少女の身体より僅かに広いくらいだが、奥行きは横になるのに充分な、壁の中の空間。そこはいつも姫君の特等席だ。ひとたび景色を見下ろせば、塔の高さを思い知る。しかし硝子(ガラス)も木板もない窓が呼び込む、新鮮な風が心地良いのだろう。  窓から差す光は、向かいの壁にはめ込まれた2枚の鏡を(きら)めかせ、少女を喜ばせる。鏡は高価な代物だ。月光の姫には馴染みの物だろうけれど。  鏡を見つめる様子からは、少女が自身にどれほどの価値を見出しているのかが(うかが)い知れる。月光の姫の場合、寝乱れた髪を()くときくらいしか自分の姿に向き合わず、そのときでさえ伏し目がちだった。  あまりに謙虚な彼女のことを、いつからか哀れに思っていた。  私は歌を好む彼女のために、知る限りの歌を教え、時には自ら作って歌った。遠い異国の歌、都市の流行歌、農民の歌に、子守歌。空想の物語から史実まで、あらゆる物事を歌った。  そして、それを歌う彼女の美に酔いしれた。彼女が私の声の源ではなく、外を見つめて歌うようになったのに、気づきもせず。 「羽に風を勝ち取って 身を逆さまに鳥はなお 誇りを胸に歌うだろう……」  ある日、異国の城を守る騎士たちが口ずさんでいた歌を、物騒な言葉を置き換えて歌った。城が落ちようとも最後まで気高かった彼らの姿が、月光の姫に重なったのかもしれない。裕福な家庭を失っても、涙も見せずに生きる彼女に。  歌い手の思いなど、相手にすべて伝わるものではない。私はそれを知っていたはずなのに、虚飾の日々の美しさに、目を曇らせたのだ。
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