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王太子の過去
――「彼女」を目にした瞬間、どうにも苦しい渇望が沸き起こったのを感じた。
その日、アルブレヒトは相棒の犬を選ぶ目的で、王族の相棒となるために育てられた仔犬のいる犬舎へとやってきていた。
王族の相棒を決めるというのは、この国の建国神話にのっとった一種の儀式だ。
かつての王の相棒が犬であったことから、今の王族にも同じように犬というそばに仕える存在を選ぶしきたりがあった。
かつては犬が王を選んだというが、形骸化して久しい今では本当かどうかわからない。ただ、父王はその伝説を信じていたのか、愛犬をことのほか大事にしていたらしい。
母王妃をおざなりにしてまでいつくしみ、愛犬が死んでからはろくに政務もなさずひきこもっている父王に、アルブレヒトはあまり会ったことがなかった。
ただ王族としての義務だとしても、犬にああやって人生すら振り回されることにはなるまいと思っていた。……母王妃が毎日恨み言を募らせるのを間近で聞いているから。
下手すれば城下の民より豪奢な建物で、ふかふかの羽毛布団にくるまれた、よく固太りした仔犬たちを冷ややかに見やって、アルブレヒトは息を吐いた。
どの犬も同じに見える。自分は、王族としては欠陥品なのかもしれなかった。
愛嬌を振りまく茶色の犬、こちらを見て尻尾を振る犬。なるほどよくしつけはされているらしい。
適当なところで目に付いた犬を選ぶか、そう思ったとき、ふいに、きゃん!と澄んだ高い音――否、これは悲鳴だ――が聞こえた。
音は犬舎の外から聞こえた。アルブレヒトの足は、焦ったようにそちらへ向いていた。
「殿下?!」
驚いたようにアルブレヒトを追いかける育成師は、アルブレヒトが音のした場所へだどりついてから、十秒ほどののちに、ようようアルブレヒトに追いついた。
アルブレヒトの息が上がる。知らず、走っていたようだ。
犬舎の裏手、暗い木の陰。そこに立つアルブレヒトの眼前には、木の根元に空いた穴の中、薄汚れたぼろ布らしきものが、先ほどまで犬舎の中にいた犬の数匹に転ばされていた。
「きゃん……!」
力なく這い上がり、また転ばされて穴の中に落ちるそのぼろ布は、どうやら泥にまみれた仔犬らしい。
けれど、アルブレヒトにはその事実などどうでもよかった。たとえ「彼女」が本当にぼろきれでしかなくたって、同じことをしただろう。そう、彼女。彼女は、雌の仔犬だった。なぜかアルブレヒトにはそれがわかったのだ。泥にまみれたこの仔犬のことを、彼女だと断じるくらいに。
アルブレヒトは、さく、と一歩木に近づく。ちょうど犬舎の裏口だった。アルブレヒトに気づいたのか、それまで彼女をいじめていた仔犬や、犬舎にいた仔犬たちが、裏口だというのに押し合いへし合いして犬舎の柵をくぐり、尻尾を振って近寄ってくる。だがそれには一瞥もくれずに、アルブレヒトは今目にしている泥だらけの仔犬をそっと持ち上げ、胸に抱いた。
「殿下、汚れますよ」
アルブレヒトの行動を、犬を大切にする王族としての行動ととったのか、育成師は手を差し出した。
「そいつは外の野良犬が父親でしてね、まああまり血統が良くないというか……。王子殿下にはふさわしくない雑種ですよ」
「彼女は」
「……は?」
「彼女は、必要とされていないのか」
アルブレヒトが彼女といった対象を図りかねたのだろう。育成師は呆けた顔をして、「まあ、そうですね」とすこし顔をひきつらせた。犬を大切にする国柄ゆえに地位の高い育成師にとって、まだ立太子もされていない王子一人など、軽んじてもいいと思っているのか。
けれど、同じく犬の育成師として、建前の顔を向けることを考えた結果の顔だったのかもしれない。だが、もうそんなことはどうでもよかった。
「彼女だ」
「……?その犬が、ですか」
育成師の育てたとは言えない仔犬を選んだアルブレヒトに対し、育成師は不満げな声をあげた。
「そんな犬より、こちらの血統の優れた……」
「くどい」
もみ手をしながらすり寄ってくる育成師に吐き気がした。彼女に決めたと言っているのが聞こえていないのだろうか。
数分前の自分なら思いもしなかっただろう、過激な考えに笑ってしまう。
腕の中から、丸い茶色の目を向けられることに、背が震えるような歓喜を覚える。
誰もいらないなら、自分がもらおう。腕の中に抱いて、自分の唯一として。
そうして、自分の一部として生きてほしい。
それは、世界の色が変わるような、魂の執着。
後ろでまだなにか言い募る育成師の声を背に受けながら、アルブレヒトは自室へと歩を進める。
名前はなんというのだろうか。だれもつけていないのなら、自分がつけてもいいだろうか。
愛らしい名前がいい。彼女に似合うような。
この日、この時。生まれて初めて、アルブレヒトは自我の芽生えた心地がした。
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