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5歳になりました
この日のために整えた庭には、ヒュントヘン家の小さな仔犬姫であるところのシャルロットお嬢様を敬愛する庭師が、丹精込めて育て上げた薔薇の花が咲き乱れている。
涼しい風に乗ってかすかに香るように配置された大ぶりな薔薇は、シャルロットのために生み出された品種だというから、この家のものがどれだけ小さな姫君を愛しているのかがわかろうというものだ。
そばにはシャルロットの兄姉たちの名をつけられた、紫だったり桃色だったりと色彩豊かな薔薇がシャルロットの白い薔薇を囲うように植わっている。ならば、その周囲をささやかに引き立てるローズマリーの緑は、さしずめ使用人たちだろうか。
白に染めた布を惜しげもなくつかった日傘がまぶしい太陽を心地よくさえぎって、薔薇の華やかな香りと、涼し気なハーブの香りが招待客を楽しませた。
「いやあ、ヒュントヘン公爵家の庭は見事だという話でしたが、実際に見てみると想像以上で驚くばかりですなあ」
「ええ。ええ。香りもいいですが、あの花々の見事なこと!私なら薔薇のアーチなどと安直にやってしまいますが、ここはずっといたくなるような心地よさですね」
「しつらえがいいとはこういうことをいうのでしょうなあ。なんでも、仔犬姫の誕生日だからと姉君が庭師と考えたのだとか」
「いやはや、ヒュントヘンには才媛ばかり生まれる、あやかりたいものです」
用意された冷たいハーブティーは、菫の色をして、談笑する紳士たちの喉をまろやかに潤している。これも、外国から取り寄せた希少なハーブのお茶だという。
「このお茶もまた良いものです。レモンシロップを入れると、これこのように」
「おお、色が変わるのですな。面白い」
そうやって楽し気に話す男性陣とは反対側の、軽食が並べられているスペースでは、華やかに着飾った令嬢やその母親たちが、用意された目にも楽しい菓子にはしゃいでいる。
たっぷりの生クリームを使ったトルテには、春らしく大ぶりの苺が飾られてつやつやとしている。ここまでの大きさの苺をそろえるには、けして並みならぬ労力がかかる。それも愛娘のためにこともなげにしてしまえる主人の器量に、とりわける使用人も誇らしげな顔を隠さない。
トルテだけではない。口にいれればほろほろと崩れる揚げ菓子、シュネーバル。アーモンドを振りかけたものや干したオレンジを砕いて混ぜ込んだものなどさまざまな種類が並んでおり、幼い令嬢や令息の目を奪う。
焼きアーモンドが食べやすいように花柄の小皿に取り分けられ、その向かいのテーブルでは干し苺をたっぷり混ぜ込んだクラップフェンが、さくさくと奥方たちの歯を心地よく刺激し、しっとりとした揚げ菓子特有の触感でもって舌に甘さを伝えていた。
おいしいお菓子に、幼い令嬢、令息はもちろん、それを監督する母親ですら舌鼓を打たざるを得ないのだ。
こちらには、子供用にとオレンジを絞ったものにシロップを混ぜ込んだ甘い飲み物が用意されており、まだ今日の主役が来てもいないのに、ヒュントヘンの仔犬姫たるシャルロットの誕生日パーティーは和やかな笑い声に包まれていた。
「マルティナ、シャルロット様と仲良くできるといいね」
「ええ、お父さま。けれど、わたくしが綺麗だから、シャルロット様に嫌われてしまわないかしら」
そう言って、ふふ、と自信ありげに胸を張る娘がいて、それをたしなめる父親の姿がある。父について紳士たちの間に入っていった少女は、騎士団長を代々務めるティーゼ侯爵家の娘だった。
「わたくし、ここにいる中で一番きれいだもの」
アインヴォルフ随一の貴族たる、ヒュントヘンの公爵家の末娘の友人とくれば、そこから得られるものはたいていのうまみの比ではない。まして、シャルロットを溺愛するもののはその当主以外にもいるのだ。
だからこそ、友人になれれば娘のためにもなるだろうと思って連れてきたが、どうやらこの勝気な娘には少し早かったようだ。
「マルティナ、お前は良い子だが、もう少し勉強するといいね」
「どうして?お父さま。自信を持つのは大切だとおっしゃったではないですか」
つんと上向いた鼻に、くっきりとした眉。緑の美しい目に、輝く金の髪とくればそれはたしかに美しいだろう。
だからこそ、周囲の、シャルロットを見たことのある貴族たちは同情まじりの暖かい目でマルティナ・ティーゼを見つめたのだ。確かにマルティナは愛らしい娘ではあるのだが……。
その時だった。
――ふいに、波が引くように、人のざわめきが止まった。
屋敷の中から、幼い少女が歩いてきたのだ。いいや、それだけならこんなにも誰もが口を開けたままでいることはないだろう。
日の光に透けた白金の髪はふわふわと、少女が歩くたびに風を受けてなびく。幾筋かの黒い髪が流れ落ちるように白い髪を彩り、小ぶりな顔を囲っている。
緑の吸い込まれるような瞳は大勢の招待客を見て一瞬戸惑ったように揺れるが、後ろを振り返って一拍、もう一度こちらを見て、はにかんだように細まった。
薔薇色に染まった頬、アーモンド形の目を縁取る長い睫毛。すべてが精巧で、すべてが完璧で麗しい。
桃色のドレスには庭の大ぶりなものとと同じ薔薇が飾られており、それがまた少女の美しさを引き立てている。
後ろに立つヒュントヘン公爵夫妻、そして長兄のヴィルヘルムが誇らしげに微笑む。この日のために留学先から帰ってきた双子の姉姫が自慢げに胸を張った。
少女は――ヒュントヘン公爵家の仔犬姫――シャルロット・シャロ・ヒュントヘンは、この場にいる誰よりも――いいや、誰もが人生のうちで見た中で最も美しい少女だと、誰もが理解した。釣り合うものなど誰もない。この姫君は、そのくらいにずば抜けて愛らしい容姿をしていたのだ。
誰からともなく、感嘆のため息と、仔犬姫へのお祝いを口にする。先ほどの静けさから一転してざわめきを取り戻した会場で、たった一人だけ、眉をひそめ、悔し気に奥歯をかみしめている小さな令嬢がいたことには、だれも気付かなかった。
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