明日は誕生日

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明日は誕生日

ラルヴァ―ナ大陸の実に半分を占める大国アインヴォルフ王国の中でも、山脈の麓にある広大な領地を持つ大貴族、ヒュントヘン公爵家に女児が生まれたのは、今から5年前のことだ。 産まれたときに「あん!」と鳴き、嗅覚は鋭く、吸い込まれるほど大きな丸いエメラルドグリーンの目がきらめく。ふんわりした柔らかい髪は、まるでシー・ズーのような、黒と茶色、そして白が混じりあった不思議な色彩を持っている。やがて誰からともなく、年若い公爵家の小柄な姫君のことを「仔犬姫」と呼ぶようになった。 これはアインヴォルフ国において最高の賛辞である。なぜなら、アインヴォルフ国の建国者である初代国王の相棒は、そして、この国を守護する神が使わしたという聖獣は犬であったからだ。 竜と戦い、災厄の獣と戦い、あるいは大戦を終わらせるなど、種々ある冒険譚の終わりにたどり着いた場所にこの国を建ててから死ぬまでずっと、初代国王を何くれとなく支えた愛犬は、神の力を持っていたという。その犬は寿命が尽きて死んだおりに、この土地一帯に豊かな恵みを与えた。 しかし、喜びよりもずっと大きな喪失に嘆き悲しむ王を神が哀れに思ったのか、その時まばゆい光が天から降り注ぎ、犬は人として生まれ変わった。 その王と犬の子孫がアインヴォルフ国の王家である。だからこそ、犬はこの国ではもっとも愛すべき聖なる獣なのだ。 ヒュントヘン公爵家の仔犬姫、そう呼ばれるほど犬らしい赤ん坊の誕生は、まさしくこのアインヴォルフ国では慶事中の慶事であったのである。 さて、それから5年。ヒュントヘン公爵家の子犬姫たるシャルロット・シャロ・ヒュントヘンの五歳の誕生日の前日から、この物語は始まる。 「お父さま、明日、わたしは五歳になるの!」 初夏の木漏れ日が、少女が持つ髪の、黒と茶の色素の濃さを映えさせて、大きな宝石のような丸い目の印象を柔らかくする。犬の垂れ耳のように2つに結わえた髪型は、くるくると動く彼女に合わせて柔らかく揺れ、彼女のためだけにあつらえた、手触りの良い桃色のドレスが、目の緑と、髪の黒と茶、そして白と相まって、まるで妖精のように見えた。 少女のエメラルドグリーンの目は、虹彩は冴えるような美しい緑だが、大きな黒目が美しさよりも愛らしさを高めており、小さく、しかしつんと上向く鼻と桜色の唇、そしていつも幸せそうに微笑む表情と、薔薇色に色づいた頬が、そのパーツのひとつひとつの美しさだけではなく、一流の人形作家でも不可能なほど、精巧で奇跡的な配置でもって、少女のかんばせを形作っている。 自慢げに指を広げた手のひらを父に見せる、そんなこの世の愛らしさを一身に詰め込んだ愛娘を、父であるヒュントヘン公爵は目じりを下げて見つめた。 「知っているとも、愛しいシャルロット。もう数が数えられるようになったんだね」 「お勉強を頑張っていますもの!……きゃん!」 えっへん、と胸を張り、大好きな父を見上げた少女――シャルロット・シャロ・ヒュントヘンは、勢いが良すぎたのか、小さな体を後ろに転がしそうになった。 「シャル、危ないよ。お前が怪我をしたら、僕は死んでしまう」 そう言ってシャルロットを抱きとめたのは、歳の離れた長兄のヴィルヘルム・ヴィオラ・ヒュントヘンだ。花の名前をミドルネームに持つ彼は、今は隣国の学園に通っている双子の姉たちと並んでも違和感のないほど美しい、中性的な顔だちをしている。 兄とよく似た面差しの美しい姉たちとは、家族は明日のためにと手紙のやり取りはしてきたらしいが、シャルロット本人はここ何か月か会えていなかった。明日の誕生日パーティーに合わせて帰ってくると聞いた時、シャルロットはとてもうれしかったのを覚えている。 「そうだよ、シャルロット」 「あなた、過保護がすぎますよ」 ヴィルヘルムの言葉に同意した父の言葉をさえぎって、兄の手からシャルロットをすいと奪って抱き上げたのは公爵夫人である母だ。 同年代の少女の平均よりずいぶん小柄な体は、同じく小柄な母の腕でも簡単に支えられてしまう。そのせいで、父も兄も心配なのだとシャルロットは思っていた。 「シャルロット、明日は誕生日のパーティーですからね。世界一かわいいあなたをお披露目できるのが、わたくしはとても誇らしいわ。今日はけがをしないように、母が抱いていてあげますからね」 「母上だって過保護ではないですか!」 実際は、歳をとって生まれた末の娘、妹を溺愛する家族の愛が大きすぎるだけなのだが、シャルロットはそんなことには気づかなかった。 ただただ、家族のことを大好きだと思っていた。そればかりだ。 ――だけど、そう思うたび、幸せだと思うたび、このままでいてはいけないような予感がして、シャルロットは不安になる。 いつも、こういうときにシャルロットの脳裏によぎる面差しがある。 シャルロットにはもうひとり、大切な人がいる。いいや、いたはずなのだ。 目の前でシャルロットをシャロと呼び、涙を流して抱きしめる、黒い髪と青い目の少年――彼のことを、シャルロットはとても好きだと思っていた。 あの少年に会いたい。会いたい。そう思って、でも彼が誰なのか全然わからない。 考えれば考えるほど、沼に沈んでいくような気持ちになる。会いたい気持ちだけが急いて、勢いだけがから回っていく。 急に不安になって、シャルロットは母の胸に顔を埋めた。花のような香りがふんわりと鼻腔を撫でる。 とくん、とくん、とくん。心臓の音は好きだ。安心するから。いつかずっと昔も、こうやって誰かに抱かれていた、よ、うな――。 「……お父さま、シャルは、会いたい人がいるのよ」 「お友達ができたのかい?」 父の質問に、瞼の重くなってしまったシャルロットは、むにゃむにゃとまどろみ始める。 そろそろ昼寝の時間だった。 「んー……んん……」 「おねむかしら?シャルロット」 母が優しく背をたたいてくれる。そのリズムが心地よくて、考えつかれたシャルロットはまどろみの中に沈んでいった。
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