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世界協定という機関にて
「あの男が、ベランデルンに入った……と?」
蜜蝋の明かりだけが灯された、薄暗い部屋。
その部屋の中央には円卓が有り、それぞれの席に黒い外套を被った六人が向かい合って座っている。五人はそれぞれ艶やかな装飾の付いた仮面で顔を隠し、その内の一人だけが素顔で平然と周囲を眺めている。
稲穂色の美しい髪に、空の色のように透き通った青の瞳。老いてなお美貌を失わない神族の長は、凛とした表情でただ黙っていた。
それが最適だと彼女は知っていたからだ。
五人の仮面達は彼女の報告にざわついていたが、やがて全員が男とも女ともつかない奇妙な声で神族の長――――シアン・アズール=オブ=セル=ウァンティアに、些か強張った口調で問いただしてきた。
「どういう事だ、ウァンティア。あの男はお前が幽閉していたのではないのか?」
誰が発したのか判らない質問。
この【機関】の会議は、常にこうして公平に行われる。
姿を隠し、声を隠し、議題を提供する者以外の人物は全員が「己」を消失する。
そして誰も恨まぬよう、世界を守るための軋轢が生まれぬようにしているのだ。
シアンもいつもはこの仮面の中に混ざっている。
だが、議題を出した者である以上、矢面に立たされなければいけなかった。
溜息を吐く気楽さすら与えられない緊張した空間で、シアンは目を細めて仮面達を見回す。特殊な耳を持つ彼女には、口調と言葉の「アクセント」で誰が誰だかという見当は大体ついていたが、それでも判らぬふりをして答えた。
「ええ。黒曜の使者・ブラックは、数か月前までは確かに隔離していました」
「ならば何故解放した! あの悪魔が危険である事を忘れた訳ではなかろう!」
「無論です。彼は唯一【紫月】と【絶無】を手に入れた者……そして、この世界を崩壊に追い込む危険性のある【逸脱者】……本来ならば死すべき存在です」
「分かっているのなら……!」
「その逸脱した悪魔の力を借りなければいけない事態が来た。だから、解放したのです……と言ったら、冷静に話を聞いて下さいますか?」
熱くなってシアンに更なる追撃を浴びせかけようとしていた仮面達は、シアンの冷静な言葉に残らず肩を震わせる。
この場の支配者は、責められるべき立場にいるはずのシアンだ。
その事を直感的に感じた仮面達は、口惜しげに首を縮めた。
「……説明してもよろしいでしょうか」
「…………話を聞こう」
先程のものよりも冷静な声に頷き、シアンは話を始めた。
「今まで確固たる証拠が出揃わなかったため、皆さまには報告する事が出来ず事後承諾のような形になってしまったのは謝ります。ですが、事は急を要する事態になっていたので……独断で彼を動かさざるを得なかったのです」
「……うむ。貴殿は先程、悪魔の力を借りねばならん事態と言っていたが……事はそれほど重大なのか? しかし、十八年前の【邪龍王事変】の時のような事が起きているとはとても思えんのだが……」
この口調は、シアンがよく知る穏健派の知識人だ。
彼はいつも冷静に話を聞き、経緯よりも結果を重視し決断を下す。それ故こちらと同調する意見が多く、シアンとしては組しやすい。話の訊き役を買って出た相手に内心礼を言いつつ、彼の質問に淡々と答えた。
「十八年前の【邪龍王事変】……あれは被害が局地的であり、また、王都のような情報が拡散しやすい地域には被害がありませんでしたね。そのため我々が箝口令を敷き、情報が出回らぬように隠していましたが……今回は、少し事情が違います」
「どういうことだね」
「今回の事は……“これから起こる事件”だからです。だから、騒ぎはまだ起こっていないのですよ。……いえ、まだ公ではないと言う方が正しいかも知れませんが」
シアンの言葉に、再び複数のざわめきが聞こえる。
それは、シアンが予知能力をもつ唯一の存在だと皆が知っているからだ。
故に、こうまで反論や批判も無く動揺しているのである。
「それは、予知かね」
訊き役の冷静な「彼」も、シアンの言葉を素直に聞いている。
シアンが予知したのは、正確に言えば今回の件とは少しずれた事象だったのだが、それを勘繰ろうとするものは一人もいなかった。
いつもの自分の当たり難い予知も役に立つものだと思いつつ、シアンはさも深刻そうな顔をして話を続けた。
「ええ。精査が必要なためまだ詳しくは話せませんが、私の予測です。水際で防がなければ、恐らく戦争……いや、世界が崩壊しかねない事態になるでしょう」
「それほどの事が……」
怯えた声が、どこかから漏れる。
世界協定の最高議会も弱々しい物になったものだと思ったが、十六年前の大惨事を経験していれば恐れるのも無理はないかも知れない。
当事者のシアンより、安全な所に居た者の方が恐れるとは、滑稽な事だが。
「邪龍王事変は予兆が限定的であり、加えて猶予が有ったため……六年がかりでの調査が可能だった。故にグリモアも容易に集める事が出来、結果として勇者と言う称号を与えるに敵う程の功績を彼らは挙げましたが……今回は、グリモアの人数が足りません。過去の適合者五人が既に死亡し、現在生存しているのは私とブラックだけです。仮に適合者が存在していたとしても、あの時ほどの戦力になる者がいるかどうか……」
「新たなグリモアを立ち上げることは不可能なのか」
「可能ではありましょうが……適合者を探し、各地に保管されている“禁書”を解放する許可を得るまでに、何年かかるでしょうね」
シアンがそう言うと、仮面達は皆顔を背ける。
そうして口々にぼそぼそと呟いた。
「……一つは、既に解放されている」
「ライクネス王国か」
「国王も早まった真似を……」
「しかし、ライクネスは勇者を失い、次代を立てる事を急務としていた。解放を行った際に、もし今代の勇者が適合者であればあるいは……」
「だが音沙汰がないではないか。適合したなら何故知らせてこない」
「照会したが回答はまだだ」
「ルガールめ……なにを考えている……」
同じ声でさえずる仮面達の様は、どうかすればたった一人が何人もの声音を使って喋っているようにも思えてくる。恐らくみなが同じ状態なのだろう。
彼らの誰も、確証や答えを持っていないのだ。
(…………平和に胡坐を掻き過ぎたのかしらね)
十八年前から六年間、ずっと世界の為に頑張っていた仲間達の事を思い出すと、答えを議論する事も出来ない裁定員達に憐みが湧いてくる。
やはりあの時、一度人族の世界を壊してしまった方が良かったのだろうか。
しかしそれも考えても仕方のない事だと思い、シアンは薄く溜息を吐いた。
「……とにかく。私はブラックにあることを頼みました。彼以外に適任はいない、そう思って……しかし、事態は彼を動かすだけでは収まらなくなっている」
「どういう事だ」
「私は、予知で災厄の『一つ』を視ました。……けれど……」
「災厄は一つではなかった……と、そう言う事か」
冷静な相手の言葉が返って来て、幾分か安堵したシアンは頷いた。
「私は以前から、ある男を密かに探っていました。……その人物は、世界の破滅を望みかねない人ならざる者。私がラッタディアに長年滞在していたのも、ブラックを動かしたのも、全てはその男の企みを水際で阻止しようと考えていたからです。けれど、災厄は一つの火種を消すだけでは収まらなかった。その男が居る限り……世界に平穏は訪れない事が判って来たのです」
「むう……悪魔を解き放たねばならぬほどの男か……」
訊き役の緊張したような声に、シアンも思わしげに目を伏せる。
「……もしその男を野放しにすれば、人族の世界は近い将来間違いなく滅びる事になるでしょう」
「だが、ブラックが遺跡への潜入を許可されれば、事態は好転する……貴殿はそう考えているのだな」
「……はい。……ブラック・ブックスは、私の切り札です。彼がアタラクシアへと向かう事が――――悲劇を未然に防ぐことになる」
ブラックと……本当の黒曜の使者であるツカサがあの遺跡へ向かい、何か一つでも黒曜の使者の事を掴めれば、その力が無暗に使われるのを防ぐことができる。
“あの男”の企みも、時代の流れに押され消えていくはずだ。
だからこそ、彼らをアタラクシアへと導く必要が有った。
彼らにラッタディアの過去を見せたのは、気まぐれからではない。
全てはあの遺跡に存在する遺産を目指させるための事だった。
神族ですら深淵を見ることが許されない、空白の国の知識。
それを、理を破壊する逸脱者と、理を持たぬ異世界の少年に掴んで貰う為に。
「……確かに、彼は幾分か変わったように思える。ハーモニック連合国での功績は目覚ましく、我々も悪徳の力がこうも正義の力に変わろうとは思っても居なかったがゆえ、報告を聞いた時は俄かには信じられなかったが……」
訊き役の冷静な言葉に、次々と仮面が頷く。
「左様、あの男は人の為になる事はせんと思っていたからな」
「年を取り、子供を抱えたことで人の心を知ったか」
「それでもあの男のした事を考えると、全てを信用する事は出来んがな」
「…………」
彼が忌み嫌われて、何年経つのだろう。
やむを得ない事情で破滅を招いたとしても、罪は罪だ。
それは解っていたが、仲間として、時には母親のような存在として彼を見て来たシアンにとって、裁定員達の言葉は辛い以外の何物でもなかった。
けれど、今は違う。ブラックには守るべきものが出来た。
彼は変わったのだ。
だからこそ、シアンも彼を守ってやらねばならなかった。
「疑念はごもっともです。ですが、これまで彼が大人しくしていた事も考慮してやって下さい。……彼は今やっと成長し始めています。人を思いやると言う事が、分かりかけて来ているのです。だから、どうか……彼を信じて、見守ってやっては下さらないでしょうか」
シアンのその言葉に、仮面達は顔を見合わせたが……やがて、頷いた。
「協力する……とは言いかねるが、静観するという事は約束しよう」
「どうせ、悪魔は貴方にしか従わないでしょうからね」
「彼を動かす詳しい理由をお聞かせいただけたら、協力も考えます」
「ただし……彼が暴走した時の責任は取って頂きますよ」
しめた。
と言いそうになったが、いつものように微笑んでシアンは口に手を添えた。
「ええ、出来る限りお話ししますわ。……私がどうしてブラックを動かしたのか。そして……何故それを、隠しておかなければならなかったのかを。世界協定の……裁定員としてね」
世界協定とは、この世界の平定を司る機関。
この世界が平和になった時に、国同士の諍いを裁定するために造られた、ありとあらゆる罪を裁くための機関だ。
だが、この組織体の成り立ちは――――誰も知らされていない。
この場所に居る全員が、それを疑問にも思わず裁定員として収まっている。
その異常さに、今まで誰も疑念を抱かなかった。
いや、思わない事を強いられている。それがこの世界の理だから。
けれど、あの男は疑念を抱いた。そして……真実を、取り違えたのだ。
(……疑念を持つのは、しかたない。けれども、この世には暴かなくて良い真実と言うものもあるわ。……それを理解できる者こそが、真実を知るに相応しい)
願わくば、ツカサとブラックが“あの男”のように“真実の受け取り方”を間違う事なく、正しい道へと歩いてくれればいいのだが。
そう思いながら、シアンはこれまでの事をゆっくりと話し始めたのだった。
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