第参章 穏やかな春、嵐の足音

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「エリカお嬢、います?」 よく晴れた日の昼下がり、一人の青年が壱倉邸の離れにやって来た。 その男は酷い癖っ毛の黒髪に厚い丸眼鏡、変な訛りと少々残念な人物、つまりは由貴斗であった。 「あれ、いない?……昨日はいるって言ってたはずなんだけどな」 ため口と敬語をおりまぜながら、誰もいない空間に向かって話す由貴斗。 普通使用人は仕える家の人々にため口をきくことなどあり得ない。実は由貴斗のこの話し方には、由貴斗とエリカの間で一悶着があった。 あの祝賀パーティーの後、エリカは夜の庭でときどき由貴斗と出会すことがあった。最初は軽く挨拶程度だったが、次第に少しずつ言葉を交わすようになっていった。 そして自分を見下さず、一人の人間として尊重し、異邦人の血が混ざっていることにも何の嫌悪も見せない由貴斗に、エリカが気を許すのも時間の問題だった。 日中顔を合わせる貴族と違って変に気取る様子も無ければ、他の使用人のように無関係を貫こうともしない由貴斗。それどころかときに軽口さえも言うことがあった。 エリカはそんな由貴斗のことを兄のように慕い出した。由貴斗のことを義兄と同じように、敬語と礼をもって接するようになると、慌てたのは由貴斗だった。
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