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初夏の風は軽やかで
6月に入り、空気がより重みをもちはじめた頃、白髪が混じり始めた顎鬚を蓄え、ジャケットを着た50代くらいの男性は、私の店を訪れた。
いりなかの駅からすこし下ったところにある『最期の本の店』と名付けられたその店は、本屋ではなく、本の修理をする店。そこでは、日々様々な客が訪れ、本が持ち込まれる。それらの本は、擦り切れ、色あせ、ボロボロの姿で訪れる。もうダメだ、そう思った本が訪れるのがこの店だ。私はこの店で管理人をしている。修理を担当するのは3人の職人さん。私はあくまでも、この店の受付兼その他いろいろだ。アンティーク調の店内は、この店を訪れる本たちが恥ずかしくないようにと配慮された品が並ぶ。戻ろう、その本が訪れた話へ。
その男性が入ってきたのは、昼過ぎであった。夏ほどと迄はいかないが、既に暑さを感じ、その男性もじわりと額に汗を浮かべていた。領収書をいくつか書いていた私は、彼に仕事よってその手が止められたことに若干のいら立ちを覚えながらも、いらっしゃいませと挨拶をした。
彼は私が、そういうと軽く会釈をして、私の前までに迷いなく進み出てき
た。
「こちらで本を直していただけると聞いたのですが……」
と彼は自信なさげに行った。
「本の修理をご希望ですね?」
と私が尋ねると彼は、
「ええ、そうです」
と、言ってその顔に少し自信の色が戻った。直後、彼は自分の黒い革製の鞄に手を伸ばしたので
「奥で伺います」
と、私が言うと、彼は伸ばした手を引っ込め、2度頷いた。よろしくお願いしますという意味らしい。私は、席から立ちあがり、奥の部屋への扉を開け、彼を部屋に招き入れた。
奥の部屋は、入り口と違い、窓が2つ、それぞれ通りに面していて、外の光を取り入れている。入り口とは、まるで別世界に来たかのように明るい。慣れていなければ、目がくらむ。応接室と呼んでいるその部屋に彼を案内して、座らせると私と彼は机を挟んで、向かいあって座った。私は、彼に
「ご依頼の品を見せていただけますか?」
と、尋ねると、彼は気を取り直して
「ああ、すみません」
と言って、鞄に手を伸ばした。この部屋は、効果は不明だが、私が話のペースをつかむために、あえて強烈な明暗を付けている。どうやら、彼には効果があったようだと内心ほくそ笑んでいるうちに、彼は机の上に、タオルで包まれたものが出てきた。彼は、その包みを明かすと文庫本サイズの本が出てきた。
「失礼、拝見しても?」
と私が尋ねると、彼は不安そうな表情をうかべて、うなずく。どうやら、何かしら不安をかかえているように見える。
私は、その本を手に取り、調べ始める。まず、カバーや帯がない。角が少し折れている。天、本の上部にやけ、あとは少し傷があるな。たしかに、その本は傷んではいたが、それほど修理を必要としているようには見えない。この程度であれば、まだ読めるからと言って、修理せずにそのままの人が多いだろう。ならば、中身か。私は、本を開き、めくっていくが、今のところ書き込みもない。何が問題なのだろうかと最後のページをめくると、初めて書き込みがあった。『さき』と最後のページにちいさく書かれている。私は、あたりを付けて、その書き込みをゆびを指して、彼に見せた。
「これは……」
と私が、目で確認を取ると、彼は
「いえ、それだけは残しておいてほしいのです」
と言った。私もさすがに驚いて、
「え?よろしいのですか?」
と聞くと、彼は、
「それは大事なものなので」
と言って、しっかりと目を合わせ、2回ゆっくりと頷いてきた。先ほどまでの不安定さがなりを潜め、その重たさに私は
「え?ああ、わかりました」
と言って、目を伏せ、手元の本を見ているふりをする。大体のところは終わっているにもかかわらず……。沈黙が訪れ、気まずい空気が流れ始めたのを感じ、私は、この本の修理について話し出した。
「ところで、こちらはどのようにお調べになったのですか?」
と私は尋ねた。この店はそもそもあまり個人の客を歓迎していない。個人の客に対して、需要がそれほどないという事情と作業員が少ないため、作業が追い付かないという事情の2つがある。主な取引先は古書店やアンティークの小物を扱うような小売店、あとは図書館であった。そして、この店はWebページなどもなく、個人の客にとって非常に遠い店。この男性はなにかのつてがあるものと私は読んでいた。
「Facebookで見たので」
と彼は言った。拍子抜けするほどあっさりとした理由。ただこのご時世にこんな店を紹介する人間がいたものなのかと、寧ろ感心した。
「そうですか」
と私は答えた。少し、そっけない返しだったか。そのため、私は話を逸らすことにする。いや、元に戻すと言ったほうが正しい。
「とりあえず、拝見しました」
と私は言って、ページを閉じて、机の中央に置いた。彼は、前傾姿勢になり、少し眉間にしわがより、目を見開いて、
「どうですか」
と私に尋ねた。
「修理自体は可能です」
と私は応えた。そういうと彼は背もたれに体を預け、顔のしわが少し減り、目を伏せて、机の上の本に視線を合わせた。。
「ですが」
と私がつなげると彼は、再び彼は顔を上げて、私に目線を合わせた。私は、本に手を伸ばし、本を広げると
「この程度であれば、修理を頼まれる方はほとんどいないと思われます。大抵のお客様は、かなり損傷されてから持ち込まれますから」
と私は、本を見て、率直な意見を言った。私は彼が不愉快な顔をすると思った。しかし、私が彼を見ると、彼は少し顔を紅潮させて、頭をかいた。
「いや、その……。それはですね。人にあげるものなので、ある程度きれいにしておきたいな、と思いまして」
と彼は照れ臭そうに言う。その顔色から相手のことを悪いと思っていない人物であることは予想がついた。つまりは、この『さき』という人にあげるということ。理由まではわからないが。
「そうですか。であるならば、お引き受けいたします」
と私は言った。それほど面倒な作業ではない。下手をすれば、私でも修理できるレベル。
「ありがとうございます」
と、彼は深々と頭を下げた。
その後の料金などの話はつつがなく進み、彼は店を後にした。最初の自信のなさが嘘のようだ。気温があがり、湿度が下がったおかげか、からりとした暑さが彼が出て行った扉から吹き込んできていた。
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