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金の記憶
新宿の紀伊國屋書店の裏の、雑居ビルの3階にその喫茶店はあった。
「素敵な喫茶店ですね」
と香奈が言った。
「私まだ東京のこと、よくわかんなくて…」
「僕だってそうだよ」
「いいとこ教えてもらっちゃった。この喫茶店、これから私も使わせてもらいますねっ」
「そんな、どうぞどうぞ」
僕らの会話はずいぶんと初々しい。
「それでどうかな? 劇団の手伝い、お願いできないかな?」
僕は大学の演劇サークルで、毎日なんだかんだと忙しかった。
「美術のですよね」
「もちろん。で、どうだった? うちの芝居」
芸術科の立体の創作展でたまたま知り合った香奈を、僕の劇団に誘っていた。
「私、ああいう舞台を見たの初めてだったんです。すごく感動しました」
「よかったぁ」
香奈が出展していた立体は、木のブロックを組み合わせたような形で、巨大なパズルのような、迷路のような作品だった。
木の持つあたたかみと、数的なシャープな図形の連なりが、鮮やかな対比を生み出していて、そのハーモニーが素晴らしかった。
ちょうど今取り組んでいるうちの舞台に参加してほしいと、正式に依頼したのは先月のことだ。
返事をもらいにきた僕は、この時、実は、とんでもなく緊張していた。
新宿のあんまり人の来ない隠れ家風の喫茶店に、女の子とふたりでいるなんて、これはまるでデートみたいで、僕の心臓は実はすごくバクバクしていた。
高校を卒業するまで、女の子とろくに話したことがなかったから仕方がない。
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