桃陽

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 俺が煙草を取り出したその瞬間、インターホンが鳴ってスタッフの声が待機室に響いた。 「桃陽くん、リュウくん。予約のお客様と指名が入ったのでフロントにお願いします」 「え?」  俺の予約は昼過ぎからだ。予定が早まったのだろうか? 聞いてない。  一服したかったけど、仕方なく立ち上がって一緒に呼ばれたリュウに顔を向けた。 「リュウ、もう慣れた? 一緒に行こ」  最近この仕事を始めたばかりのリュウは、俺より一つ年上なのにどこか垢抜けない、初々しい青年タイプのボーイだった。緊張のためか、頬を真っ赤に染めている。 「まだ全然慣れない。ああ、超ドキドキする」 「俺も最初はそうだったよ。でもすぐ慣れるし、どうやったら上手くいくか模索してる今の時期が一番楽しいんだよ」 「そうかなぁ……」  フロントに続く廊下を歩きながら、リュウが力なく笑った。 「俺も早く桃陽みたいになりたいよ」 「すぐだよ!」  リュウの頬から赤みが消える。引き締まった、かっこいい顔になった。 「よしっ! 頑張るわ」 「うん!」  フロントに着くと、スタッフがやってきてリュウに「仕事道具」の入った小さな鞄を手渡した。俺はその後ろでぼんやりと立ちながら、壁の時計に視線を向ける。やっぱり、予約の時間よりも一時間早い。何も予定が無ければ客の都合で時間が早まることもあるけど、一言教えてくれたっていいのに。 「桃陽」 「はい」  ベテランスタッフの秋山さんが、俺に申し訳なさそうな顔をする。 「予約してた鷹田さんがさ、どうしても早く桃陽に会いたいって店に来ちゃったんだよ。二階の201の個室に入ってもらってるから、行ってあげてくれる?」 「うー。やっぱり。俺、あの人とのプレイちょっと苦手なんだよね……。開始は早まっても、終了時間は変わらないんでしょ?」 「ああ。まぁ、その分売上がプラスになるって考えれば、さ。それに桃陽の誕生日だから早く来てくれたんじゃない? プレゼントっぽい物持ってたし」 「うー」  仕方なく、俺はパーカーのポケットに手を突っ込んだままでエレベーターに向かった。が、すぐに頭を切り替える。リュウが頑張ると言っていたんだから、先輩の俺だって頑張らないと。  俺の常連客の一人、鷹田治彦は三十五歳のサラリーマンだ。気の弱そうな顔と、年齢の割に少し腹が出ているという、冴えない見た目の普通の男。おまけに、超が付くほどのM気質だ。一回り近く年下の俺に罵られるのが何よりも嬉しいというのだから、人の性癖は奥深い。  エレベーターが二階に着いて201号室のインターホンを鳴らした時、既に俺の顔は客好みのきつい表情になっていた。 「桃陽!」  ドアが開き、鷹田さんが嬉しそうな顔を覗かせる。俺は目を細めて、その顔に冷たく言い放った。 「なんで予定通りの時間に来ないんだよ。お陰でゆっくりできなかったんだけど」 「ああ、ごめんよ桃陽……。どうしても桃陽に会いたくて、居ても立ってもいられなかったんだ」 「ふぅん」  失礼します、の言葉も省いて、俺はずかずかと部屋の中に上がり込んだ。 「桃陽の為にさ、今日は仮病使って会社休んだんだよ。それほど会いたかったんだ」  嬉しいけど、社会人としてそれで良いんだろうか。  他の客にそれを言われたら「じゃあ今日は俺もいっぱいサービスする!」なんてことを可愛く言うんだろうけど、彼の場合は別だ。 「へぇ。ズル休みして売り専で男買ってるなんて、鷹田さんは本当に、どうしようもない変態だよね。会社の人にバレたらどうなるのかな? 周りの反応見てみたくない?」 「あああ、桃陽。お願いだから秘密にしといてくれよ」  本気で言っている訳じゃないのは、お互いに分かっている。 「いいよ。秘密にしておく。その代わり、ちゃんと俺を満足させてよ」  そこでようやく俺は意味ありげにニコッと笑ってみせた。鷹田さんの頬が、まるで思春期の少年みたいにポッと赤くなる。不覚にも可愛いと思ってしまった。 「そ、そうだ! 今日は桃陽の誕生日だね。プレゼント買ってきたから、受け取ってよ」  恐らくはカモフラージュの為に着ているスーツの上着を脱ぎながら、鷹田さんがベッドの上に置いてあった大きな袋を俺に差し出した。金色のラッピング袋に赤とピンクのリボンがひらひら付いている。持ってみるとずっしりと重く、だけど柔らかかった。 「何かな」  リボンをほどいて中を開けると、そこには真っ白なクマがいた。 「………」 「ほ、本当は高いブランド物のアクセサリーとかも考えたんだけど、桃陽なら他の男からももらうんじゃないかと思って……。だから、桃陽に似た可愛いのを選んできたんだ。一応、それもブランドなんだよ」  袋からテディベアを取り出す。汚れ一つない、真っ白でふわふわの手触り。しっかりとした手足。ブルーの瞳。俺はベアをじっと見つめた。 「べ、別に桃陽を子ども扱いしてる訳じゃないよ。本当に、桃陽に似合うと思って……」  鷹田さんが言い訳がましいことを言っているが、俺はあと一歩で泣きだしてしまいそうなほどに心が震えていた。  ──ああ、あの汚ねぇクマのぬいぐるみか。つまずいてムカついたから、捨てたわ。母ちゃんに買ってもらった? 知らねえよ。 「っ……」 「あの男」の声。今日、これで二度目だ。  俺は真っ白のテディベアを強く胸に抱き、何度も頭を振って笑った。 「ありがとう! 絶対、大事にする!」 「桃陽……」  見ると、鷹田さんの方が泣きそうになっていた。 「……何、うるうるしてんだよ、気持ち悪い。さっさとシャワー浴びてくれば」  冷ややかに言うと、鷹田さんはハイッと元気よく返事をして、弾丸のようにバスルームに走って行った。 「可愛い」  俺は白いベアをベッドの上に座らせ、頬を弛めてその愛くるしい姿に見入った。そうしているうちに視界がぼやけ、目の前のベアが段々と古ぼけてゆく。  ──駄目だ。今日はどうしても「あの頃」のことを思い出してしまう。
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