桃陽

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桃陽

 耳元でアラームが鳴っている。どうやらまた、朝になったらしい。  俺は布団を頭まで被って、けたたましく鳴るスマホの目覚ましアラームから逃げた。 「うー」  起きないといけないのに、どうしても起きたくない。俺は好きなだけ眠っていたいだけなのに、なんで定時に朝が来るんだろう。いっそのこと仮病を使って仕事は休んでしまおうか。もちろん、それができないことは分かっている。  ……こんな葛藤も毎朝のことだ。それなのに何度同じ朝を繰り返しても、慣れることができない。  布団からのろのろと手を出してアラームを止めた。そのまま気持ちが萎えてしまわないうちに、一気に布団をはね除ける。  枕元にある煙草を取って、寝起きの一本を吸ったらようやく目が覚めてきた。  十二月一日。今日は俺の「誕生日」だ。  スマホのメール受信ランプが鬼のように光っていて、見ると「誕生日おめでとう」のメッセージが二〇通近く入っていた。もちろんそれは、家族や友人から送られたものではない。 『桃陽(ももはる)、誕生日おめでとう! 近々また店に行くから、その時プレゼント何でも買ってあげる!』 『ハッピーバースデー、俺のモモ! 愛してるよ、早くまた会いたい』 『誕生日おめでとう! 今日の夜、生誕祭行くからな、プレゼント楽しみにしてろ!』  なんだか変な気持ちになる。本当の誕生日はまだ二ヵ月も先なのだ。ぼんやりとそれらのメールを見ながら、一つ一つに返信しないといけないことを思うと、スマホを持つ手が重くなっていくのを感じた。  十八歳になってすぐに家を出て、身一つで上京してきた俺の世界は狭い。  毎日同じ時間に起きて同じ時間に部屋を出て、いつもの電車に乗っていつもの仕事をしに行く。帰りの時間はバラバラだけど、帰宅する頃には極限まで疲れてるっていうのは同じだ。夕飯は同じコンビニの弁当。毎日きっかり一時間風呂に入って、同じ時間にベッドに入る。そしてまた、同じ時間にアラームが鳴る。  来る日も来る日も同じことの繰り返し。今日が昨日の続きなら、明日は今日の続きだ。いつまでも「今日」が終わらない。  もちろん仕事が休みの日もあるけど、俺の休日の行動範囲はせいぜい電車で二、三駅。疲れが溜まった時には、一日中この散らかったアパートの部屋で寝ていることもある。  俺の仕事は体力勝負なのだ。  仕事で相手にするのは日替わりの恋人達。俺との疑似恋愛に惜しみなく金を注ぎ込む、幸せそうな男達だ。いつでもどこでも俺と番うことしか頭にない、可愛くて性欲盛んな男達だ。彼らがいなくては生きていけない俺だから、その日その日、精一杯の愛を彼らに捧げる。  話題のニュースや政治の話、車、スポーツ、音楽や映画、テレビ番組。分からないことは何でも訊いて、答えを貰うたびに目を見開いて大袈裟に相手を褒めそやす。物知りだね。さすがだね。男は自分の知識を見せびらかしたい生き物だから、このやり方ですぐに気を良くしてくれる。  またある時は、安価で買ったストラップやキーホルダーなんかのちょっとしたプレゼントをする。相手が吸う煙草の銘柄を覚えておいて、待ち合わせ場所でニッコリ笑って手渡す。「さっきコンビニ寄ったから、買っておいたよ」。数週間後、それが何倍もの額になって戻ってくるのだから全く、なんて商売だ。  求められているのは、明るく優しく前向きな、若さに溢れた元気な男の子。  だから、みんなみんな「桃陽」の虜なのだ。 「そっか、今日は俺の生誕祭かぁ……。気合入れて頑張らないと」  顔を洗って歯を磨き、着替えて朝食を済ませれば、あっという間に家を出る時間だ。散らかった部屋をそのままに玄関の扉を開けると、十二月の冷たい風が俺の両頬を包み込んだ。予想以上の寒さに、慌ててマフラーを首に巻き付ける。  駅を目指して歩きながら、俺はコートのポケットに手を入れてマフラーに口元を埋め、寒さに身震いした。いつの間にか、もうすっかり冬だ。  十二月の街はクリスマスの装飾に彩られていて、ショーウィンドウやケーキ屋の前にはクリスマスツリーが飾ってあった。カラフルな街並みは見ているだけで頬が弛んでくるが、クリスチャンでない、ましてやこの街に家族も恋人も友人もいない俺には関係のないイベントなんだと思うと、少し切なくなった。  最後に賑やかなクリスマスパーティーをしたのは、中二の時だったっけ。今から四年前だ。同じ学校の仲間達と、カラオケに行って盛大に盛り上がった。誰かがこっそり持ち込んだビールを飲んで、呂律の回らない滅茶苦茶な歌声にみんなで笑い転げた。  高校に入ってからは? そうだ、みんなでパーティーなんて子どもっぽいことはしなくなってしまったんだ。俺が通っていた高校の連中は、自分達も子どもであることに変わりはないくせに、クリスマスは恋人と二人っきりで過ごすものだなんて、やけにマセた考えを持っている奴らばかりだった。それに便乗した俺も俺だけど。  高二のクリスマスは、思い出すと最低な気分になるから記憶から抹消、なんて。  高三のクリスマスは、高二の時と比べるといくらかましで、当時付き合っていた数学の講師と朝まで一緒に過ごした。年末には「結婚するから」とフラれたけれど。  子どもの頃のクリスマスは殆ど記憶にない。忘れてる訳じゃなくて、単純にパーティーなんてやらなかったのだと思う。俺の家にはサンタもキリストも父親も来なかった。  今年のクリスマスは誰と過ごすことになるんだろう。稼ぎ時だから客の誰かと一緒に過ごすというのは確実だ。誰でもいいけど、できれば特別な日に街を一緒に歩いていても恥ずかしくない人だったらなおさらいい。  そんなことを考えながら電車に揺られ、アナウンスに耳を傾けるでもなく二駅目で下車した。  この街も、クリスマス一色だ。サンタのミニドレスを着た女の子が店先で呼び込みをしている。こんな早い時間からキャバクラなんてやっているのかと思って目を向けたら、どうやら有名なスイーツショップらしい。剥き出しの細い足が寒そうに震えていた。  そんな煌びやかな空間を抜けて裏通りの方へ出ると、一気に視界に映るカラーが減った気がした。今はどの店もシャッターが下りているが、飲み屋やキャバクラ、ホスクラ、風俗店だらけ。この界隈では夜になれば特別なネオンが光り出すから、イルミネーションもツリーも必要ないのだ。  俺は「LCビル」と表札の出ている古びた建物の中に入り、エントランスを通ってエレベーターのボタンを押した。マフラーを外し、目深にかぶっていたニット帽を脱ぐ。地下一階に着いてエレベーターを降り、正面の入口から俺の勤務先である「BMC」──「ボーイズ・メイト・クラブ」に入る。 「おはようございます……」  けだるい声で挨拶すると、中にいたスタッフが一斉に俺の方を向いて言った。 「桃陽、誕生日おめでとう!」  俺は着ていたコートを脱ぎ、それを小脇に抱えて苦笑した。 「嘘っこの誕生日だよ。俺、まだまだ十八歳」 「雰囲気、雰囲気」  店長の北村さんがやってきて、俺に花束をくれた。真っ赤な薔薇が十九本。キザな人なのだ。 「桃陽、今夜の生誕祭は期待してるからな。がっつり稼いでくれよ。誕生日おめでとう」 「ありがとー、店長。できるとこまで頑張るよ」  照れ臭くなって、俺は花束を抱えたまま小走りで待機室に向かった。
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