臆病者の恋

9/11
前へ
/122ページ
次へ
「また午前様? 智之さん、最近帰り遅すぎ」 開店準備が忙しく、疲れて帰って来ると、華絵にきゃんきゃん責められる。 「…オープンまではどうしても、いろいろやらなきゃいけないことがあるんです。わかってください」 「智之さん、ひとりでやらなくてもいいじゃない」 「人を雇う余裕なんてないです」 土地と建物は、コネとツテを借りたけど、あとは自分の力でやりたかった。 コーヒーも独自の仕入れルートを確保した。無論森グループの仕入れと共同にすれば、安く済むのはわかっているが、それだとどうしても質が落ちる。 「それでこんな時間まで頑張って、コーヒー一杯でいくら儲かるの? 智之さんだったら、もっと大きな仕事出来るじゃない」 「売り上げの大小が人のモチベーションの高低に比例するわけではないでしょう?」 確かに本社にいた頃は、何千万単位の商談を手掛けたりもしていたから、それに比べれば、カフェは規模が小さい。小さいけれど、やりがいはある…と自分では思っていたのに、妻の目には小さい男に映っているらしい。 「そうだけど…でも」 「悪いけど疲れてます。この話はまた今度にしてくれませんか?」 強引に打ち切ると、華絵は形のいい唇を尖らせて、不服そうにする。 家にいるよりも、忙しくても、店にいた方が気持ちが休まる…。そんな風になっていった。 華絵ともすれ違いばかりで、最後は同じ家に暮らしていても、会話も殆どなかった。 もともと、それ程夫婦仲が良かったわけじゃない。会社跡取りという肩書が無くなった僕に、華絵は興味を無くしたんだろう。 そして壊れていく家庭を肌で感じながらも、僕は何もしなかった。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3732人が本棚に入れています
本棚に追加