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「また午前様? 智之さん、最近帰り遅すぎ」
開店準備が忙しく、疲れて帰って来ると、華絵にきゃんきゃん責められる。
「…オープンまではどうしても、いろいろやらなきゃいけないことがあるんです。わかってください」
「智之さん、ひとりでやらなくてもいいじゃない」
「人を雇う余裕なんてないです」
土地と建物は、コネとツテを借りたけど、あとは自分の力でやりたかった。
コーヒーも独自の仕入れルートを確保した。無論森グループの仕入れと共同にすれば、安く済むのはわかっているが、それだとどうしても質が落ちる。
「それでこんな時間まで頑張って、コーヒー一杯でいくら儲かるの? 智之さんだったら、もっと大きな仕事出来るじゃない」
「売り上げの大小が人のモチベーションの高低に比例するわけではないでしょう?」
確かに本社にいた頃は、何千万単位の商談を手掛けたりもしていたから、それに比べれば、カフェは規模が小さい。小さいけれど、やりがいはある…と自分では思っていたのに、妻の目には小さい男に映っているらしい。
「そうだけど…でも」
「悪いけど疲れてます。この話はまた今度にしてくれませんか?」
強引に打ち切ると、華絵は形のいい唇を尖らせて、不服そうにする。
家にいるよりも、忙しくても、店にいた方が気持ちが休まる…。そんな風になっていった。
華絵ともすれ違いばかりで、最後は同じ家に暮らしていても、会話も殆どなかった。
もともと、それ程夫婦仲が良かったわけじゃない。会社跡取りという肩書が無くなった僕に、華絵は興味を無くしたんだろう。
そして壊れていく家庭を肌で感じながらも、僕は何もしなかった。
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