臆病者の恋

1/11
3713人が本棚に入れています
本棚に追加
/122ページ

臆病者の恋

side 智之 「智之さん…好き…」 掠れた声が耳朶を打ち、更に恋情を激しくさせる。 客と店員。10も違う女性。それに――うまく行くわけがないのだから、と何度も迷って躊躇って、手を伸ばすのをやめては、諦められなくて…だけど好きだと言うつもりもなかった。 「…一生言わないつもりだったのに」 恨み言をこぼしてから、僕は観念して、僕の心の奥にしまいこんだ感情を取り出して、言葉にした。 「好きですよ、咲良さん。とっくに僕は、一店主としてのラインは踏み越えてました」 多分、咲良さんが手の内を見せてこなかったら、告げるはずもなかった思いを、僕は吐露させられて、今も――。 「やっぱり帰らないでください…って言ったら、どうします?」 僕のずるい質問に、彼女はいつだって正直に素直に答えてくれるから。 「私も…もっと傍にいたいです」 「そんなこと言われたら、絶対帰せないじゃないですか」 結局僕の我慢も理性も、あっけなく瓦解して、我儘な欲望が弾ける。 触れるのが怖いくらい、彼女の身体は綺麗で、しなやかだった。 いつ以来だっけ、誰かとこんな風に肌を重ねるのは。 自分の中にまだこんなにも、熱く滾る想いがあることに驚いた。 ベッドの中で他愛ない話をしているうちに、咲良さんは眠ってしまった。 肩が出ていたので、風邪をひかせては…と思い、毛布を掛けてから、自分はベッドを出た。 夜中の2時。世の中には自分しか起きてないんじゃないかと錯覚するくらい、室内も外も、静かで暗い時間。 バルコニーに出ると、薄暗い月がひっそりと輝いてた。 自分なんかが幸せになってはいけないのに。 舞い上がった気持ちに水を差され、過去の咎を責められているように思えた。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!