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1、思い人
桜の咲く時期に、開店したパン屋さん。
僕は、気になってしょうがない。
駅から僕のアルバイト先のコンビニへ向かう通り道沿いに、新しくできた小さなお店。
真夜中の三時、定刻どおりに業者のトラックがやってきて、弁当や牛乳が入った荷物を受け取る。
お客も誰もいなくて、体も疲れ始める時間帯。
業者を見送った際に、お店の入り口を見ると、明かりもついていない家々の中に、ぽつんと小さな光が目に入った。
それが、開店したばかりのパン屋の明かりと分かるのには、そんなに時間が掛からなかった。
そのパン屋は、女性一人で営んでいると人づてに聞いた。
自分のお店の人の他に、近くの場所で働いている人がいると考えると、
なんだかほっとすると同時に嬉しくなった。
僕は、人と話すことがとても苦手だ。
だから、人とあまり接触の少ない時間帯で働いている。
僕は、家に籠もりがちで、食事もコンビニ弁当だ。友達もいない。
こんな僕でも、この真夜中のバイトの時間帯は、なんだか人恋しくなる。
そんな時、僕は、その光を見つめる。その光は、僕にとって、とても暖かく見える。
その光の下では、どんな人が働いているだろうか?
その人が作るパンは、どんなパンなのだろうか?
自分の働いているコンビニにも、沢山のパンが並んでいるのにわざわざコンビニ近くのこの場所で、お店を開くには訳があるのだろうか?
仕事中にもかかわらず、僕はその光を見る度に、色んな想像を膨らませていく。
彼女とは、いつもすれ違いだ。
僕が仕事を終える頃には、パン屋はまだ開店していない。
お店の看板には、ピンク色の桜のマークとこだわりのパンと書いてある。
道路に面した焦げ茶色のドア、パンを飾るショーケースと木造り枠のガラス製の引き戸。
ショーケースの上には、おそらくパンを包むための白い包み紙と小銭を入れるための金魚が印刷された小さな缶。
側には小瓶に入ったかわいい白いマーガレットが、一輪さりげなく置いてある。
彼女は、花が好きなのだろうか?
お店の周りや入り口のドアの下には、パンを買いに来た人の邪魔にならないように、大小さまざまな植木鉢が置いてあり、赤や黄色、ピンクの小花達が満開に花を咲かせている。
そんな花達に守られた彼女のお店。
花の騎士(ナイト)達には、悪いが、主がいない部屋をこっそり覗かせてもらう。
できるだけ顔を近づけ、中を覗くと引き戸のガラスに自分の顔が映って、部屋の中は覗けない。
あー、がっかり。
小さな缶の金魚たちが、僕の行動をじろりと睨んだような気がした。
このお店のつくりだと、どうも僕の苦手な対面式でパンを売っているみたいだ。
聞いた話だと、彼女の楽しみは、自分のパンを買ってくれたお客さまとの会話らしい。
僕は、一度パンを買って、彼女を一目見るだけで良かったのに…。
そして、僕は、明日、パンを買いに彼女のパン屋へ行く。
皆にとっては、あたりまえのことでも、僕にとっては、かなりの冒険だ。
眠れない。わくわくする。
それと同時に彼女のエプロン姿を想像するとドキドキが止まらない。
僕は彼女のために、どんな言葉を言えばいいのだろうか?
思いつく言葉を、口に出して言ってみる。
(いつも見てます。)
(会いたかったです。)
(貴女の手みたいに、白くて綺麗な食パンですね。)
僕らしくないクリームパンみたいな甘い言葉が、次から次へと溢れだす。
彼女の顔を、見たとたんに、いきなり好きって言ってしまったら、どうしよう。
パンを注文する僕を想像するだけで、眠れない。
ベットサイドの不思議な国のアリスの置時計を見ると、もう午前三時だ。
早く寝なくては。
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