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SNSの国のアリス
午後3時。
生クリームモリモリのパンケーキ。
生地よりアイシングが目立つクッキー。
宝石のようなゼリーを散りばめたパフェ。
節野亜梨素(ふしのありす)は熱心に写真投稿SNSを更新する。亜梨素にとってSNSに投稿する可愛いくてカロリーの高そうな食べ物の写真は生命線と同じだ。
#3時のおやつ#至福のとき
そして、トレーニング用のミニ丈のピンクのタンクトップに黒のショートパンツ姿で、顔を写さないように、腹筋だけを自撮りする。「食べたらちゃんと運動しなきゃね」と一言添える。くびれたウエストを強調するために、ミニ丈のタンクトップは欠かせない。
#ダイエット#ジム帰り
引き締まった腹筋と、カロリーの高そうな可愛いスイーツ。正反対な2つの投稿が、「いいね」の嵐を巻き起こす。
午前3時。
眠れない亜梨素は、写真投稿SNSの裏アカウントで体重計の数字を写真に撮って上げる。体重、BMI、体脂肪率がデジタルで表示される体重計。
市販薬の下剤、酸化マグネシウムの瓶の写真が一枚。吐きダコがある指を写した手の写真が一枚。写真投稿SNSにアップする。
「今日も食べ過ぎたけど大丈夫」
#眠れない夜#リセット#午前3時の懺悔#摂食障害
亜梨素の裏アカウントは病みアカウントだ。
亜梨素は先日、自分の心臓をかきむしるような苦しさを誰かと共有したくて、思い余って病みアカにトイレに嘔吐した吐瀉物の写真を載せてしまった。運営に見つかって写真は消去され、アカウントが凍結された。亜梨素だけじゃなく、自傷行為の生々しい切り傷を血が出たまま載せる人も写真が削除されてアカが凍結されてアカウントが死んでた。
写真投稿SNSがここまで有名になる前は、運営もかなり緩かった。でも今は写真投稿SNSが有名になり過ぎて、少しでも枠からはみ出した普通の人が目を背けたくなるような投稿はすぐ削除されてしまう。
だから、写真を消されたりアカを凍結されないように、さりげなく摂食障害を想起させる写真に留めている。
確かにトイレに嘔吐した吐瀉物の写真を載せた亜梨素はやり過ぎだろうけれど、そこまで追い詰められていたのもまた事実だ。
(みんな助けを求めてるのに、勝手に消さないでよ)
運営に心の中で恨み言を言う。
午後3時の投稿は、可愛いくて楽しいものばかりなのに、午前3時の投稿は病みアカで、普通の人が目を背けたくなるようなおぞましい写真を衝動的にアップしてしまう。
#摂食障害、この一言で繋がれる人を求めて、眠れない夜は写真投稿SNSを眺めて、共感出来る写真にいいねを押し続ける。朝が来るまで、余計なことを考えないように、死にたいなんて思わなくて済むように。
亜梨素は午前3時になっても眠れない夜は、運営に消される前の病んでる写真を見つけてひたすらいいねを押し続けた。運営に見つかったら即削除のヤバイ写真ほどいいねを押したくなる。その苦しみがどこか分かるから。消される前に押したいいねに気づいてくれたら、この人も明日を生きていけるかもしれない。みんなギリギリのところで「生」に踏み留まって「死」を回避しているから。
午後3時の投稿はまた普通の女の子に戻っている。写真投稿SNSってなんて便利なんだろう。午後3時は普通の女の子でいられるし、午前3時は病んだ自分の気持ちを素直に吐き出せる。
亜梨素は写真投稿SNSを自分の安住の地、ユートピアだと思うようになっていった。
そんなある日、会社に出勤するといつもと職場の雰囲気が違う。亜梨素が苦手としている、体育会系出身の権田亮子先輩が、
「節野さんさぁ、こういうのはコンプラ的に不味いと思うよ?」
いきなりスマホの画面を亜梨素の前に突き出してきた。権田先輩のスマホには、亜梨素の病みアカでアップした写真が載っている。食べても太らないために飲んでいる下剤の酸化マグネシウムの錠剤の瓶の後ろに、会社で毎年貰える社名が入った壁掛けカレンダーが写り込んでいた。しかも、休日出勤の日をカレンダーに書き込んでいて、亜梨素がいる部署名が分かってしまう写り込み。権田先輩は亜梨素がアップした画像を拡大した写真まで出してきた。
「今月の24日に休日出勤するのって節野さんと亀和田君だけと私だけでしょ?もう消去法で節野さんがアップした写真って分かっちゃうよ。社名が入ったカレンダーは不味いよね?」
権田先輩は腕組みしたまま亜梨素を睨みつける。亜梨素はもう言い逃れ出来ないと覚悟して震える声で答える。
「も、申し訳ありません。すぐ…すぐ消します。すみ…ません」
自分のスマホを手に取って病みアカの写真を次々削除していく。どこにあの社名が入った壁掛けカレンダーが写り込んでいるか分からないから。権田先輩は追い討ちをかけるように、
「気持ち悪いのよ、いつもいつも。胃が悪いとか見え透いた言い訳して、会社のトイレなのにゲーゲー戻して。後からトイレ使う人間がどれだけ不愉快な思いしてるか考えてよね!悪阻とか胃炎とかで本当に辛い人に失礼だと思わないの?」
亜梨素は何も言い返せなかった。結局摂食障害は自分勝手な都合でしかない。会社の社名が入ったカレンダーを病みアカの写真に写り込ませるなんて、あり得ないミスだ。まだ、底意地が悪いとはいえ、社内の人に見つかったからましだ。社外の取引先の人なんかに指摘されたら目も当てられない。部署内がざわめいている。
亜梨素が黙々と病みアカの写真を削除していると、亜梨素より二期下の亀和田君が権田先輩と亜梨素の方に近寄ってくる。
「それじゃあ、これも消さないと不味いですかね?」
亀和田君は権田先輩にスマホの画面を見せているようだ。
「なんなの!今する話じゃないでしょ?」
権田先輩の絶叫がフロアに響き渡る。亀和田君は飄々としたまま、
「じゃあ、俺もう辞めますね、退職願は後で送りますから」
部署内全員が亀和田君に起きた事態を把握出来ない。亀和田君は構わず、部署で使うコピー用紙の空き箱に私物をポンポン詰めて、会社の備品はデスクに置いて仕分けしていく。権田先輩が慌てて、
「待って、亀和田君。それとこれとは違うでしょ?」
亀和田君のご機嫌を取ろうとオロオロしている。亀和田君は、私物整理の手を止めて言い放つ。
「何が違うんですか?このフロアと俺と亮子さんが肩を組んだ姿がばっちり写ってますよ?見る人が見れば社内の倉庫だって分かるのに。俺の裏アカウント使ってSNSに上げてってけしかけたのは亮子さんですよ?」
さっきまで亜梨素の病みアカの件で遠慮がちにざわついていたフロアが、今度は一気に盛り上がる。権田先輩以外は亜梨素のよく分からない病気について、腫れ物に障るような感じだった。
「おい、亀和田、それ見せろよ!」
「権田さんとお前ってデキてたの!?」
「お前何やってんだよ会社で、コラ」
部署内の男性陣が亀和田君に群がる。亀和田君はピシッとみんなの野次を遮って強い口調で話す。
「俺は亮子さんと違って会社の人の前でSNSの失敗を晒して笑う趣味はないから。亮子さんが節野さんに何の恨みがあるのか知らないけど、やりすぎ。幻滅した。元々転職が決まってたから気軽に亮子さんとも付き合えたし。亮子さん、転職先にチクリたいならご自由に。俺は前の職場で女の先輩に逆セクハラに遭ったって言いますから」
亀和田君は片方の頬の肉ををクイっと持ち上げて皮肉な笑いを浮かべた。部署内はさっきの熱気が嘘のように静まり返った。
亀和田君が泥舟から抜け出すように辞めてしまってから、権田亮子先輩は火が消えたように大人しくなってしまった。部長の計らいで今回だけは、権田亮子先輩も亀和田君も、亜梨素も失敗に目を瞑ってもらえた。
そして、亜梨素は写真投稿SNSの病みアカを使うときは、壁や余計なものが入らないように、テーブルの上に置いたものを接写するようになった。
午前3時。眠れないと、亜梨素は写真をアップする。あんなことがあってもまだ完全には懲りていない。
権田先輩も亀和田君も極秘の社内恋愛という秘密を誰かに伝えたくてうずうずして、写真投稿SNSに肩を組んだ写真を上げたのかもしれない。社内の人に見つかるかもしれないスリル、2人だけの秘密をネットの海に公開する背徳感。
写真投稿SNSは童話「王さまの耳はロバの耳」に出てくる、「穴」と同じかもしれない。誰かに言いたいけど言えない秘密を「穴」に向かって叫んだら、うっかり筒抜けになってしまう。それでも「穴」に向かって夢中で叫び続ける。亜梨素は構えたスマホのシャッターを切るときに、大きなどす黒い「穴」が見えた気がした。
人は一人で秘密を抱えるには弱すぎる生き物だから誰かに共感して欲しくなる。午後3時の「#3時のおやつ」で言えないことを、午前3時「#眠れない#深夜3時」で伝えるのだろう。
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