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一 恋の横断歩道
【僕は必死に彼女を追いかけた。彼女が走る先にある横断歩道は、赤信号だったのだ。
「危ない!」
僕は一目散に彼女にタックルした。彼女を抱きかかえて歩道に倒れ込んだ次の瞬間、僕の後ろをトラックが通り過ぎた。
「ごめんなさい、私ったらあんなことでむきになって。本当はあなたのことが好き】
俺はここまで書くと、この場面の全ての文章を全て消しごむで消した。しかし力を入れすぎたためか、原稿用紙は乾いた音を立てて破れてしまった。
俺はため息をついて、机に積んだ本の山の一番上の本を手にとった。タイトルは『これであなたもゴミ屋敷脱出!』だ。俺はその一部をゆっくりと黙読した。
【ワンポイントチェック!「ゴミが出たならすぐゴミ箱に」面倒臭がらないことが肝心です。小さな紙くずでもこまめに捨てれば、お部屋が綺麗になりますよ!】
すると『これであなたもゴミ屋敷克服!』の、開いているページが光り始めた。原稿用紙は空中でくしゃくしゃに丸められ、部屋の隅にあるゴミ箱へと一直線に飛んでいった。それと同時に、光も急速に消えていく。
俺はそれを本棚に戻すと、書斎を後にして階段を下りてリビングに向かった。
「うんとこしょ、どっこいしょ、それでもかぶはぬけません!」
娘の香澄の元気な声が聞こえてくる。俺はそっとリビングのドアを開けて中に入った。
すると俺の目に、奇妙なものが飛び込んできた。フローリングの床に、大きな大根が突き刺さっていたのだ。いや、正確には大根の映像と言うべきか。
「違う違う、カブって言うのは大根よりも太くてまんまるなのよ?」
妻の美智代が椅子に座りながら助言する。大根はだんだんと太くなり、かと言ってカブとは少し違った、奇妙な円柱型の物体になった。更に映像の粒子がだんだん濃くなり、リビングの床にヒビが入る。
「こらこらこら、やめなさい!」
美智代が叫ぶと、奇妙な物体は空気に溶けるように消えてしまった。
「全く、なんで実体化しちゃうのかな」
「何だ、学校の宿題か?」
首を傾げながら呟く美智代に、俺は聞いてみた。
「うん。教科書を音読して、それをおうちの人に聞いてもらうの!」
「ほらこれ、音読ノート」
美智代は俺に緑色の冊子を渡す。中を見てみると、物語のタイトルらしきものが羅列されている。その横の欄には、『声の大きさ』や『句読点とリズム』などの点数が書かれていた。
美智代は天井付近の小さな棚にある本の一つに手を伸ばし、ぱらぱらとページをめくると、目を瞑った。すると、途端に床のヒビが消えた。その上、さっきまで大根が埋まっていた床は、新品のように光を反射している。
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