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四 通信手帳
出版社のロビーに来る度に、俺はその異様な雰囲気に圧倒される。あちらでは少年漫画の打ち合わせがあり、こちらでは新人らしき男性が緊張した面持ちで担当者と喋っている。そして俺の背後では成人向け雑誌の打ち合わせだ。
しばらくぼうっとして座っていると、エレベーターからセーターを着た中年の男性が現れた。俺の担当である錦さんだ。錦さんはこちらに気が付くと、穏やかな笑顔を作って歩き始める。俺が軽く会釈すると、錦さんも小さく頷いて俺の正面の椅子に座った。
「要件は見ましたで。えらい切羽詰まってはるらしいやないですか、大沢さん」
錦さんは通信手帳を頭の横でひらひらと動かしながら言った。俺はこの人には1年ほどお世話になっているが、未だに一度も標準語を使うのを見たことがない。
「いやあ、どうもアイデアというかですね…」
「分かってます、分かってます。全部ここに書いてありまっせ」
錦さんは通信手帳をテーブルの上に広げた。そこには
【いつもお世話になっております。突然ですが錦さん、今から出版社の方に伺っても良いですか?最近どうも調子が悪くて、かなりきつい状態です。何かアドバイスを頂きたいので、どうにか時間を作って貰えれば助かります。 →大沢】
俺は自分の通信手帳を取り出した。一番新しいページにも、同じことが書いてある。唯一違うところは、宛先の『錦←』だけである。
「えらいまた堅苦しいこと書いてはりますけど、僕は、要するにやる気の問題やと思ってます。まあ、今回は心配せんでも、なんとか明日までには間に合わせますわ」
錦さんはそう言って笑った。俺の知る限り編集者というものは、売れる作家には錦さんのように親身になってくれて、とにかく愛想を尽くす。だが、俺のように大して大物でもない作家には、ふつう露骨に態度を悪くするものだ。
しかしこの人はそんなことはない。はじめてこの人に見てもらったときは、驚くとともに逆に調子が狂ったのを覚えている。
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