第三章 元気に振る舞うお姫様

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第三章 元気に振る舞うお姫様

夢がある。夢はなによりも大切・・・それ以上のことなんて。 でも、そう、そうだね友達も大切。素敵な友達が出来たから、わたしは・・・ 事の起こりを考えてみれば・・・あれ?え〜と春先?冬の終わりくらいかな? わたしはいつも通り、バイトが休みのお昼は海に行って、人のいない砂浜でくつろぐ。 まだまだ海からの風は冷たいけど、潮の香りに包まれて気持ちいい。自然に声が流れ出す。 『海』をイメージした歌が好き。学校で習った歌でも、流行ってるポップスでも。男の人の歌でも、なんでも! 思いつく歌を唄い続ける。歌詞を忘れた所は、適当にアドリブで唄う。 ただ歌うことが好き。浜辺のステージで、パーカーとジーンズの衣装で。 「ふぅ」一息ついた。太陽が、世界一眩しいライトがわたしを照らしてくれていた。 パチパチパチ・・・ん?幻聴かな?拍手が聞こえるなんて。 でも違った、振り返ったら人がいた。すらっとした男の人・・・海に来た旅行客かな?だって襟元にスカーフ巻いてるし、あんなお洒落なコート、絶対この辺じゃ売ってない。 「いい声だな。良く歌ってるのか?」 「まぁね、気分のいい時はだいたいね」 最近あんまりギャラリーいなかった。漁師のおじちゃん達も、飽きて聞きに来ないしね。 だから、久しぶりのお客さんに嬉しくなって、気前よくお話した。 「旅行?この辺海しかないよ」 「ん?ああ日本海が見たかったんだよ。しかし、まだまだ冷えるな」 「これ位寒くないって!わたしは太平洋見たことないなぁ」 「そりゃあ見に行くべきだな。日本の反対側には、お前の知らない世界があるぜ」 「でも太平洋じゃ夕日は見れないでしょう?こっちの方が断然いいよ」 「朝日が見れるさ」 「あははっ早起きして?おじいちゃんだね」 「よせよ。せめておじさん止まりにしてくれ」 そう言うけど、おじさん呼ばわりも躊躇われるな。長めの茶髪を風になびかせてる姿は、この辺のおっちゃん達とは全然違う。 「そうだ、昼飯のおすすめを聞こうと思って、地元の人を探してたんだった」 「お腹空いてたの?わたし20分位歌ってたでしょ?」 「忘れてた。聞き惚れたな」 「へへへ〜うまい事言うねぇ。近くに海鮮丼のおいしい店があるよ」 「いいねぇ」 砂浜を少し歩いて行くと、海を臨む通り沿いの小さなお店が見えてくる。 「あそこだよ」と指差す。「じゃあね」言いかけたわたしを、その人は呼び止めた。 「昼まだだろ?一緒に食おうぜ」 「おごってくれんの?やったー!」 「ライブ代くらいは支払わないとな」 ガラガラって扉を開けると、知り合いのおっちゃん達で混み合ってる。 ほとんどは漁師。お父さんの仲間で、お母さんとも・・・仲良かった人達。 挨拶しながら入って行くと、店のおばちゃんが出てきた。後ろの男性を見て、 「まっ随分とダンデーな人と一緒だね。奥の座敷へどうぞ」とすすめてくれた。 「どうも〜」そのダンデーな人は愛想良く言って、奥の座敷に座る。 「こいつのお薦め二つで。ちょっと電話いいっすか?」 「あいよ、どうぞどうぞ」おばちゃんはお茶を置いて、調理場のおっちゃんとこへ行く。 店の中はざわざわしてるんで、電話の声も割りと大きい。 「場所分かるか?えーと『ひめうお』って店だ。40分?飯食ってるから丁度いいな」 電話を切ったタイミングで、わたしのお薦め『海鮮丼マックス』が届いた。 「これやべぇ!丼から具がはみ出してるじゃないっすか。金足りっかな〜」 「950円だよ」おばちゃんが笑う。わたしも笑う。 「まじすか!?東京だったら、10倍するよこれ」 あぁやっぱり東京の人なんだね。でも気さくでノリのいい感じ、おばちゃんも気に入ってたな。 うまいうまい言って食べながら、その人は東京の話をしてくれた。 山のようなローストビーフ丼は、女の子は残すと言う。 「わたしだったら軽いね」にやりとしながら、でっかい鮪の刺身を頰張る。 お台場の眺め、スカイツリーの展望台、ライトアップされたクリスマスの街並み。そして音楽。あちこちにライブハウスがあって、いつでも誰かが歌っている。 「ゴミゴミしてるだけとも言うんだがな・・・だが、夢を見れる街なんだぜ」 「ふぅ〜ん」空になった丼ぶりから、その人に目をやる。何だか遠い目をしていた。 その時ガラッて音がした。次に「おおー」というどよめきが起こった。 カツーンカツーンってハイヒールの音を響かせ、奥の座敷へとその女の人はやってきた。 お茶のおかわりを出してくれていたおばちゃんは「なんだい、なんだい」と言って、わたしの背中に隠れた。 わたしも冷や汗が止められない。 赤い髪を揺らす頭は、高いヒールのせいで天井に着きそう。紫の唇が強烈なインパクトを与える。 そして、そして何よりも目を引くのは!紫のジャケットの中で、全然収まり切っていない・・・なんだあれ、あんなにでっかくなるもんなの?ジャケットも、その下のブラウスも、留めてるボタンが今にもはじけ飛びそう! 女の人はわたしの正面、向かい合って座る男の人のすぐ後ろに立った。 「わざわざ呼びつけた理由は?」 「ああ、名刺出してくれ。俺は持ってないんだ」 「なんの為に?」言いながら、彼女はバックから名刺入れを取り出した。 「例の新人発掘プロジェクト、まだ空きがあるだろ?」 「・・・あるわね」女の人の長い爪の指から、男の人が名刺を受け取る。 そして彼の長いしなやかな指が、名刺をすっとわたしの前に差し出す。 目をぱちくりさせるわたしに、彼は力強く語りかけた。 「夢を掴め。お前が踏み出すなら、俺が応援してやる。お前の歌を、声を、世界に響き渡らせてやろうぜ」 あの『魔女みたいな女』とダンデーな男の人が店を出た後でおばちゃんは、 「青海、歌手になるのかい!?凄いじゃないか」と言ってくれた。 わたしもまだ夢うつつ・・・漠然としていた憧れが、形になって見えてきた? 手の中にある小さなカード・・・芸能プロダクションの、プロデューサーの名刺!『夢のチケット』!! そう思ったら、もう止められない!気持ちにブレーキなんてかけられないよ!! 予想通りお父さんは猛反対。わたしも引かないから、顔を合わせれば大声で怒鳴り合う日々。 その内にお父さんの声が枯れた。喉はわたしの方が強いのだ。 そして丸1ヶ月の攻防の末、お父さんがわたしを床の間の部屋に呼んだ。 「あーうー」まだちゃんと声が出ないまま、何か話そうとしてる。 わたしがグッと身を乗り出して、戦闘モードに入ると、もう沢山だって顔をした。 お父さんはわたしを飛び越して、斜め後ろに目をやると大きく溜息をついた。 後ろにあるのは、仏壇・・・そして、お母さんの遺影だった。 「しょうがねぇよなぁ。お前の娘だもんな・・・頑固なとこに惚れて一緒になったんだからな・・・」 もう喋るのも苦しいらしく、お父さんはわたしの手に通帳と印鑑を握らせた。 これは確か、わたしの結婚資金にってずっと貯金していたもののはず。 「・・・がんば・・・れよ」 わたしの返事は満面の笑みだ。確かに不安はある・・・そんなに自信もない。 でも、今はそれを打ち消そう。周りの誰の前でも、笑顔で心配かけないようにしよう。 夢があるんだ!夢に進めるんだ! わたしの東京での日々が始まった。 アパート借りて、プロダクションにレッスン料払って。 お金はずいぶん無くなっちゃった。節約しないとね。バイトも始めた。 レッスンに来ているのは、わたしより年下が多い。男の子も女の子もいるけど・・・みんなレッスン終わるとすぐに帰ってしまう。空き時間でもちょっとしたお喋りもしない。 全体に漂うピリピリとしたムード。余裕なんかないんだね・・・わたしもだね。 アパートとレッスン場、レッスンのない日は、ティッシュ配りのバイトの往復の毎日。 バイト仲間なんてのも出来ないな。 時々寂しさが溢れそうになる。でも独りの部屋でも、急に故郷から電話がくるかもだから、泣くわけにはいかない。 そんなある夜、かかってきたのは事務所からの電話だった。 相手はあの女の人だ。土屋 憂衣さん、実は『ひめうお』で会って以来、初めてのコンタクトだ。 「明日の午後オーディションがあるから参加するように。場所は・・・」 シンプルに内容だけ伝えてきた。そんなの急に言われても困る。 わたしは不安もあいまって、この人に会話を求めた。 「あの!あのちょっと・・・いいですか?」 電話を切る寸前で、土屋さんは応えてくれた。でも冷たい声。 「なに?」 「わたしオーディションって・・・大丈夫でしょうか?」 「さあ、あなた次第でしょ?」 「それって他の人は・・・」 「あなただけよ。言っておくけど、事務所としては、あなたを優遇しているわ。前からレッスンしてる子よりもね」 「えっ・・・なんで??」 「遊佐 爵也が推している・・・となれば当然でしょう?」 ・・・遊佐さん。わたしに夢を掴めと言ってくれた人。 「正直私には音楽の事は分からない。録音した歌は一通り聞いたけど、あなたが特別に優れてるとは思えない。でも、遊佐が言うんだからそうなんでしょう?多分、分かんないけど」 それが最後の言葉。電話は切れちゃった。 アパートの窓を開け放つ。風に潮の香りを感じることはできない。これじゃダメだね。 海だ!海に行こう。新幹線と電車の乗り継ぎで3時間・・・朝一番で出れば十分帰ってこれるよね。 電車のトラブルがあったけど、滑り込みセーフで会場入り出来た。 心臓がバクバクいう順番待ち。もう海を見てきた成果が出ることを祈るしかない!・・・そして終わってしまえば、あっという間だ。 「はい、OKです。では次の方」これだけか。 のびのび唄えたとは思う。多分それが持ち味なんだろうから、良しとしよう。 ひとりぼっちの帰り道、でも足取りは何故か軽い・・・楽しく歌えた、なんでだろう? 閃いた!そうだ、タクシーの中で褒めてもらったからだ! 東京に来て、歌って、初めて褒められた。知らない2人の女の人・・・名前が分かんないや。 「いい声ね」「ほんと素敵な声!」 お世話かな?でもそんな必要ないよね、知らない同士なんだからさ。素直に喜んでいいよね。 何気に鼻歌を唄いつつ、会場の外に出た。夏の初めの夜風は、都会にいても気持ちいい。 不意にわたしの鼻歌に合わせた曲が、すぐ近くで流れた。一瞬驚いたけどなんて事はない、自分のスマホの着うたじゃないか。 今度の相手も、『ひめうお』以来の人。 「よぉお疲れ、うまく歌えたか?」 「う〜んダメだと思う。音程とか、声量とかブースで歌うの慣れなくて」 「そりゃそうさ・・・それにここだけの話、今回のオーディションは形だけなんだぜ」 「えっ?どういうこと??」 「受かる奴はもう決まってんのさ」 「じゃあ受かるわけないんだぁ」 「そうさ、だから落ちたって、ふさぎ込む必要なんてないんだ」 この一言は、気持ちをすっごく楽にしてくれた。 「今回は経験値が目的だ。レベルアップしたろ?」 「RPGみたい」 「同じさ。何事もな・・・明日の夜、空いてるな?」 「たまたまお暇ですねぇ」 「俺はパーティだ。終わったら夜食でも食おうぜ。連絡する」 「は〜い待ってま〜す」 不思議な人だなぁ。心の中にすっと入ってくる感じの人。 ひょっとすると、寂しい気持ちも見透かされてるのかもね。明日は久しぶりに楽しい一日になりそう。 「要するにシーフードピラフよ」 真白に教えてもらった料理は、なんだかお洒落・・・でも味はどうなの?と思って食べたら美味しかった。 真白と羽入は同じ物食べてる。でも、パクパク食べてる真白と違って、羽入は一口食べては水ばっか飲んでる。 「青海は海育ち?」 わかる?真白は見た目だけじゃなく、出来る女感に満ちてる。 「そうだよ、昨日も無性に海が見たくなったんだよね」 「海が好きなんだね。お魚とかも?」 羽入はおっとり感溢れる。 「そう!海に行く余裕がない時は、水族館が癒しの場だね」 「にしてはパクパク食べてるわね」 「それとこれとは別!」 真白に向け、にやりとする。 「でもさぁまさか電車止まるとは思わなかったよね。私もたまたま実家を訪ねてたのよ」 「トラブルだったよね。羽入も帰省とか?」 「私は父のお墓があって。家は都内にあるの」 羽入は水のグラスを置いて、真白の方を向いた。 「でも真白があの町の出身って驚き。キレイで洗練されてるから、てっきり東京生まれかと思った」 すこーし間が空いた。真白は羽入をちら見しながら、 「そう?羽入もあんまり東京育ちって感じしないね」と言った。 「そうだよね・・・」羽入も少し間を空けてから呟いた。 頃合いを良しと見たのか、ウェイターが滑る様にやってきた。 「デザートはいかがですか?」 わたしとしては嬉しいお申し出だ。羽入にお願いしなきゃ。 「頼んでもいい?」 「あ、うんいいよ。私も頼もうかな」 「ん?てことは青海の分は羽入のおごりなわけ?ならいいわ。私が全部出すから」 「え?悪いわ。青海とは私が約束したんだし・・・」 「いいのいいの、カードで一緒に払った方が楽でしょ」 「ごちそう様です!」真白に向かってお礼の笑顔。ここはこれでいいよね! 「お決まりですか?」ウェイターのにこやかな顔に向かって、ずばっと言ってやった。 「クリームソーダ!」 「あっ!私も!」つられて叫んでから、何故か羽入は真白に弁解じみた様に。 「いっ今のは本当に食べたいって思ったから!」 真白は黙って、頬を赤くする羽入を見てたけど、ウェイターに振り返った。 「じゃあ、クリームソーダ3つ」 「はい、かしこまりました。仲がよろしいんですね」滑らかに消えて行く。 初めての女子会。羽入と真白はお互いをどう思ってるんだろう? 時々会話に変な間が空く時がある。お互いのこと良く知らないんだから、当然かな。性格の全然違う2人、相容れないのはいたしかた無い?そうかな? わたしは羽入と真白はすっごく仲良くなれると思うな。もちろんわたしとも・・・根拠はないけどね。 そろそろ給料日、次はわたしが2人におごらせてもらわなきゃね。 もう夜の9:00過ぎ。昼ごはん美味しかったけど、さすがにお腹空いたな・・・ と思ってたら、遊佐さんから連絡がきた。都内のライブハウスに来るようにって。 正直こうゆう所はあんまり慣れてないから、おっかなびっくりだった。店の前にたむろしてる人達からして、怖そうで。 でも勇気を奮って、すごい化粧のグループに話しかけてみた。 「遊佐さん?中央のボックス席にいるよ」「あんたも音楽やってんの?」「がんばれよ」 ・・・男か女かすら不明だったけど、気さくないい人達だった。 スタジオ内は そんなに広くはない。後ろに3席テーブルとソファがあって、前は立ち見の若者達が溢れてる。 そしてステージ上では、すんごい音と声を発するバンドが演奏してる。 思わず耳を塞ぎそうになったけど、それは多分失礼だと思って我慢した。 バンドの演奏と若者達の喧騒・・・その最中でありながら、遊佐さんは悠然とした構えで独りソファに座っていた。 声は聞こえないと思ったんで、目の前で思いっきりおじぎした。 遊佐さんはわたしの様子を見て、ケタケタ笑ってから、コイコイと手招きする。 テーブルの上にはウイスキーのセット。グラスは一つで、瓶は2本目みたい。 曲の間、遊佐さんはグラスを手にしながらステージを見つめる。 わたしも隣にちょこんと座って、ステージに目を向ける。溢れる音とパフォーマンスに面食らうばかりだ。 最後は絶叫でステージが終わった。メンバーが去り、少し静かになる。 「酒は?」久しぶりに会った最初の一言がこれだった。 「ビールとか日本酒とかなら」 「飲める口なんだな?付き合えよ」 バーテンダーに何か合図してる。 「あの、わたし・・・」 言いかけたんだけど、反対側から大声で遊佐さんに挨拶する人達がいて、かき消されちゃった。 さっきまでステージにいたバンドの人達だ。一列に並んできおつけをしてる。 「ああ、良かったぜ」遊佐さんが言うと、彼らは感動のあまり泣き出した。 (やっぱり凄い人なんだなぁ) ステージ上では、次のバンドの人が準備に入っている。彼らも遊佐さんの姿に気付くと、きおつけして深く礼をした。 また曲が始まると話が出来ないと思い、口を開こうとするけれど、今度はバーテンダーに邪魔された。 わたしの前に置かれた、小さな三角のグラス。綺麗な青いカクテル。 「ここのオリジナルだ。強いから少しずつ飲めよ」 遊佐さんがウイスキーのグラスを、カクテルのグラスに軽くあてた。 そして次の演奏が始まってしまった。 こうして演奏と挨拶の繰り返し。遊佐さんは時に愉快そうに、時に厳しく若者達に接する。 「俺達に曲描いて下さい!」彼らは一様に言う。憧れの対象なんだとよく分かる・・・それだけなら良かったんだけど。 女の子が近づいてきた。この子もバンドの人かなぁと思ってたら、いきなり遊佐さんに抱きつき、押し倒した。 ソファに横たわった姿勢で、ハグ・・・から、濃厚なキスが始まった! (うそぉ・・・) 遊佐さんも、彼女の頭と背中に手を回している・・・えっ?恋人?隣にいるわたしのこと、どう思うだろ? 彼女が体を起こし、わたしと目が合った・・・やばい!これは修羅場って奴になってしまうのでは・・・ しかし彼女は、わたしに投げキッスをして「チャオ〜」と笑って去っていった。 目で追うと、彼女はステージ前の立ち見席で、彼氏らしき男とキスをしてる・・・どうゆうことなんだろ? 遊佐さんの方も、去った彼女には知らん顔だ。またステージを見て、グラスを口に運んでいる。 つまり彼女とは別になんでもなくて、結構平気でそういうことが出来てしまう人なんだ。 なんだか残念な気持ちが沸き起こった・・・素敵な大人の男性って思ってたのにな。 酔うとそんな感じなのかな?そう言えば、もう目が虚ろだ。今にも寝に入りそう。 ウイスキーの2本目も、もうすぐ空になる・・・そう思った時、遊佐さんの体が前に傾いた。 えっ!?と思って支えようとした。でも勢い余って、遊佐さんの上半身をソファの反対側に倒してしまった。 改めて起こそうと、遊佐さんの肩に手をあてた。けれどそれは、ちょうどさっきの女の子と同じように・・・ わたしが、遊佐さんの上に覆い被さるような姿勢。 遊佐さんの虚ろな瞳が、わたしの瞳をじっと見つめている。彼の手がわたしの頭に伸びてきた。 わたしの顔がぐっと引き寄せられ、遊佐さんの顔に近づく・・・ダメ!そう思っても、体が麻痺した様に動かない。 心臓がバクバクいいだした。どうしようもない!!ギュッと目を閉じた。 ・・・そして、長い数秒が過ぎた。 ぺしぺし・・・と頰を軽く叩く感触がして目を開けた。遊佐さんの顔は、さっきよりも離れたところにあった。 彼は、薄い笑顔を浮かべている。 「・・・悪い」 心臓はまだドキドキしてる。頭の中は混乱してる。でもはっきりしてるのは・・・唇にはなんの感触もしなかったということだ。
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