Father

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口の中が切れている。唾液を飲み下すと、喉にまといつくような鉄の味がした。 歯がいかなかっただけマシかと、大石はひとりごち、無意識に笑みの形に歪んだ口元に気づいたのは、切れた頬が引き攣れた痛みによってだった。 お使いには、真っ黒なパーカーを羽織って出かける。いつも。いつもだ。ルーティーン。便利だから。利便性が大切。黒は夜に紛れやすいし、お使い帰りのボロボロの顔も、パーカーを目深にかぶれば、それほど目立つことはない。 早く帰りたいと思う。早く、家に帰りたい。大石は黒澤のお使いをするとき以外、ほとんど家から出ない。家。名義は黒澤誉。高層マンションの中層階、ファミリー向けの2LDK。黒澤は週に2日程様子を見に来るくらいのもので。だからほとんど毎日、大石は一人でそこにいる。気が向いたら寝て、気が向いたら起きる。腹が減ったらキッチンを漁って適当に何か食べ、あとは、黒澤が置いていったゲームをしたり、テレビを見たり、本を読んで過ごす。それが、今の大石の日常だった。 ー…タマ、仕事。 黒澤がそう言う時だけ、大石の毎日にさざ波が立つ。黒いパーカーを羽織り、外に出る。これが、対価だった。安寧の対価。 実際、黒澤に拾われる前は大変だった。 アルコール漬けの父親の世話に嫌気がさして、家を飛び出したのは母の方が早かった。だから結局、置き去りにされた大石が母の身代わりにされた。兄は、顔の形も分からなくなるまで殴られることがしょっちゅうだったから、それに比べれば幾分かマシだと、夜中に布団に潜り込んでくる酒臭い親父に、身体中いじくりまわされながら、そう思った。それから、自分が女でないことを神様に感謝した。何がどう間違っても、このクソ野郎の子供を産むようなことにはならない。そう考えれば気楽なもので、腹の上でみっともなく呻く男の律動の最中、大石はいつも、カーテンのない窓から見える夜空の星を数え、雲を眺め、雨粒の音に耳を傾けていた。 義務教育を終えた兄は、何も言わずに家を出た。それが正しいと、大石にも分かった。大石は、あと2年だった。 母も兄もいない家で、大石は父と二人、粛々と日々を数えていた。朝起きて学校に行き、時折、父の相手をする。兄がいない分殴られることも増えたが、父は、母に似ている大石の顔を殴ることはほとんどなかった。しかしあの日、忘れ得ぬカウトダウンあと318日のあの日。父は祖父母の家に金の無心に行き断られ、帰ってきて包丁を握った。その姿を見て大石は、なるほどと思った。なるほど、人は行き着くとあのようになるのか。 聞けばもう、その時すでに家賃もかなり滞納していて、そういえば夜、電気もつかない生活をしていた。切羽詰まっていたのだろう。だからもう、お前を殺して俺も死ぬと言うような、そんな覚悟ではあったのかもしれない。 ただ大石の方には、こんな男のために死んでやる義理はなかった。咄嗟のことで手を伸ばしたのは、食事をするのに使っていた小さなちゃぶ台だった。包丁を向けて襲いかかろうとする父に向けて投げ下ろすと、ごっと鈍い音がした。うわぁとか、そんな声を上げて尻餅をついた父は、その時点ですでに、手にしていた包丁を取り落としていて丸腰だった。あっけない。こんなにもあっけない。それは、新鮮な驚きだった。絶対強者と信じて疑わなかったものが、これほど容易に倒れる。 尻餅をついてこちらを見上げる父を見て、多分、自分は笑ったのだと思う。あの日、恐怖に引き攣れた父の顔に向けてちゃぶ台を振り下ろしながら、大石は場違いな笑い声を聞いた。数度ちゃぶ台を叩きつけたところで父は大人しくなり、大石は家を出た。父親がどうなったかは知らない。 それからあとは、ぐちゃぐちゃでよく覚えていない。しばらく逃げていたが結局捕まって、保護という名目で連れていかれた施設は居心地が悪くて。父親がいない生活は静かではあったが、代わる代わるの面談はなんの役にも立つ気がしなかった。やはりここから出なければならないと、そう考えて大石はまた、カウントダウンを再開した。 中学卒業と同時に働くと言って施設を出、世話してもらった部屋からも逃げ出した先で出会ったのが黒澤だった。 放浪7日目。案外簡単に、大石の放浪は終わろうとしていた。空腹と乾きが全身を覆う。倦怠感。疲労と脱水。路地裏で屈みこんで動けなくなっていたが、動物のションベンのような地面のシミを舐めるには心が決まらず、膝を抱えて丸まっていた。 『なんだ、お前』 その時突然、頭上から声が降ってきた。ほとんど感情をにじませない、平板な声。重たい頭をゆっくりと動かして振り仰ぐと、見るからに柄の悪そうな三白眼が、じっと大石を見つめていた。頬の傷跡、黒いスーツ。男は一人ではなく、後ろに2人、人を連れていた。 殺されるのかと、思った。一瞬思って、否定した。いや、ここで、死にたくはない。やっと、逃げてきたのに。死ぬわけにはいかない。 『…おじさん、俺を買ってくんない』 ガサガサの喉を振り絞って、声を上げた。すがる。この糸に、すがるしかない。目の前に垂れ落ちる、蜘蛛の糸。このままでいても、どうせ死ぬ。生きるために出来ることをしなければならない。 男の目が一瞬、わずかに見開かれ、直後、すいと細められる。 『…何ができる?』 『なんでも』 何でもする。これは、生きるための対価だ。 家に着くと、玄関の電気がついていて、家主が戻っていることが分かった。途端に体が軽くなり、大石は被っていたフードをふわりと外すと靴を脱いで部屋に上がり、小走りにリビングに向かう。 「ただいま」 ソファに座る背中に声をかけると、来いと短く声がかかる。呼ばれて男の元に向かい、その足元に膝をつき、男の膝に頬をすり寄せる。見下ろす三白眼は落ち窪んで、疲れを滲ませている。 「2人、捕まえたよ」 「聞いてる。よくやった」 疲れた顔で黒澤は告げ、大きな手がわしゃわしゃと大石の髪を乱した。心地よさを味わうように目を閉じて、撫でる力が弱まると掌に頭を押し付けて催促する。 こうして撫でられることを喜ぶ大石の姿を、猫のようだと黒澤は言い、なら俺はタマだねと大石が応えたのはもう、何年前のことだったか。 心地がいい。この男の側は、居心地がいい。 「…殴られたのか」 頭に触れていた手が、頬に降りる。さらりと触れて、離れていく。 おや、と思う。普段あまり表情の変わらない男の平板な声音を乗せた唇がわずかに歪み、一瞬立ち昇っては紫煙のように溶け消えた感情は、あれは、怒りではなかったか。 頬に触れた指先がいつもより熱いと感じたのは、傷ついて火照った肉のせいだったのか、或いは。 あっという間に元の無表情に戻った男のどこかに、何がしかの激情の名残はありはしないかと大石は目を凝らしてみたが、そこにはもう、何もなかった。 「…一発もらった」 一呼吸遅れで応えた大石に向かって、やはり無表情のままそうかと言った黒澤は、一つ息をついてソファの背もたれに体を預けた。 真っ向から殴り合いになることはほとんどない。相手は大石のことを知らず、大石だけが相手のことを知っている。だからやることは、人気のない場所まで相手を追いかけ、なにがしかで身動きを取れなくして縛り上げる。それだけだった。 黒澤の子飼いと、呼ばれていることは知っている。そして、顔の割れていない大石の仕事は大体、内輪揉めの処理で。だから、大石に仕事を命じる時の黒澤はいつも、どこか疲れている。 ソファに沈み込んで、いつもより一回り小さく見える男を見上げ、大石はゆるりと、その腿に手を這わす。 「俺が慰めてあげようか?」 「いや、いい」 にべもなく断る男はしかし、大石の手を振り払うことはせず、そのままにさせておく。サラサラとしたスラックスの質感が心地いい。 「…もう寝ろよ」 5分ほどもそうしていただろうか。そう言って立ち上がった黒澤の手が、再び大石の髪を乱した。 大きな手のひらの下から黒澤を見上げ、おやすみなさいと呟くと、三白眼がすいと細められ、多分、彼は笑った。 確信がある。 たとえこの暮らしが、家が、取り上げられたとしても、この男の願いは全て叶えたいと、大石は思い続けるだろう。黒澤の願いを叶えることは、だからもう、対価としての価値を失っているのだ。 「また来る」 またと約束を口にして、黒澤の手がするりと離れていく。離れていく手の温度を悲しいと感じるこの気持ちに、どんな名前がつくのか、大石は知らない。 ただ、全てが報われる。あの手が触れた瞬間、頬の痛みも血の味も、疲労も迷いも罪業も、全てが報われる。あの手一つ、その声一つが報いだった。 「…怪我してよかった」 誰もいない部屋でひとりごち、大石は自身の頬に指先で触れた。 こんなものであの男の内側が覗けるのなら、それは酷く安い対価だった。
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