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明日に控えた解剖実習のため、参加する学生の名簿をチェックしながら、俺は淡々とグループ分けをしていた。今回は、献体して頂いたご遺族が見学に来られるということなので、失礼のないよう厳しく学生たちに注意を促さなければならなかった。
実習中にふざける余裕などないと思うのだが、女子学生を捕まえて遺体の男性性器をひけらかすといった事があっては困る。まあ、今時それぐらいで動じる女子学生がいるのかは疑問だが、何と言ってもご遺族の手前、俺も笑うわけにはいかなくなるのだ。
いずれにせよ、死体と向き合うのは彼らにとって初体験であり、妙なハイテンションに取りつかれることは予想できた。実際に俺も昔、なぜか解剖実習の後、もつ鍋パーティーを数人で開くという愚行に出た男だ。その時は、さすがに食えなかった奴もいて、「あれぐらいでグロッキーかよ?」などと、いきがって馬鹿にした思い出もある。だが、現在そいつは血湧き肉踊る外科医として最前線で働いている。そのまま院に進んだ俺よりも、もつ鍋には強くなっているはずだ。
俺が過去を懐かしむ隣りで、石塚准教授は真剣に何かを考え込んでいた。そして一言。
「死後、体は硬直します。もちろん、喋ることはできない。これを私語硬直といいます」
こういう時に下らない駄洒落を言う教官もいたな。
「先生、今回は遺族も見に来ますから、真面目にやってくださいよ?俺、後で謝りに行くのは嫌ですからね」
「何を言ってるんだ。学生たちは緊張で硬直しているから、いわゆる一つの弛緩剤だ」
石塚准教授は得意げに、ニヤリと笑った。確かに脱力感は否めないだろう。
ヤマダくーん、座布団全部持っていきなさい。
翌日、実習前にジッパー付きの袋に入っている献体の数を確認していると、先輩がやってきて俺の肩を叩いた。
「よう、ご苦労さん」
「あ、お疲れ様です」
「ところでさあ、今回の解剖、凄い遺体がいるらしいぜ?」
遺体にレベルなんてあったのか。俺が怪訝そうに顔をしかめると、先輩は肩を組んできて、急に声を潜めた。
「聞いたところによると、いくつもの大学からキャンセルされてトレードしてきた遺体らしいよ」
「・・・病気持ちですか?困りますよ、そんなもの献体されても」
「いや、それはないって!そうじゃなくって、その遺体を見た他大学の准教授や教官全員が青い顔して嫌がったんだとさ。それで、最終的にうちの教室に来たわけ。南は九州から、北は北海道まで移動したらしいよ、その遺体。な、怪しいだろう?」
怪しいなんてもんじゃない。普通、遺体のトレードですら珍しいのだ。なぜ、遺体が全国行脚しているのか?しかも、その遺体を見た全員が蒼ざめるという・・・。
何か嫌な予感がしてきた。どうして俺の時だけ、奇妙な遺体が舞い込むんだよ!
俺が超ブルーになった後、先輩は頑張れと無責任に言い放ち、笑いながら去っていった。
しかし、俺も教官の端くれだ。ブルーになっていても始まらない。ゴクリと唾と恐怖を飲み込むと、その噂の真相を追究するべく献体を包んでいる袋のジッパーを順々に下げていった。
一体、ニ体、三体・・・一体足りない~、なんてことはなかった。全て普通の遺体だった。俺は何も恐ろしいとは思わなかったし、体の異常もない。
「なんだ・・・騙されたのか」
そう思うと、急速に精神は回復し、俺はふんと鼻で笑った。と、その直後に声がした。
「高見君、何やってんの?」
「うわあっ!」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。急いで後ろを振り向くと、石塚准教授がマグカップを手にぼけっと立っていた。恐るべし、存在感のない男。
「脅かさないで下さいよ!」
「別に脅かしてないよ。それより、まだ準備できてないの?何、これ?ジッパー全部開けちゃって」
「いや、これは・・・確認のために」
「あっそ」
つまらなさそうに、石塚准教授は並べられた遺体を眺めていた。しかし、ある一体の遺体に目を止めると、見る見るうちに蒼ざめて、マグカップから手を離した。
「うわっ、ととと!あちっ!」
俺が寸前でキャッチしたからよかったものの、危なく床を汚すところだった。全く、迷惑な人だ。
「先生っ!気を付けてくださいよ!次、すぐ実習なんですよ!?」
「・・・事務室に連絡してくれ」
「は?」
「いいから!早く、事務室に連絡してくれっ!」
石塚准教授は蒼ざめたまま、それ以上何も言わず立ちすくんでいた。
俺が急きょ、事務員を呼んでくると、石塚准教授は手早く何か説明していた。それで俺は全てを理解した。
この遺体は石塚准教授の同級生だという。大学間をトレードされ続けてきたのも、運悪く教鞭を取っている同級生の大学に当たった結果だった。それはそうだ、俺だって同級生を解剖するなんて御免だ。夢見が悪すぎる。
「菊地も杉浦も、坂下とは仲が良かったからなあ。そりゃあ、断るよなあ」
坂下?どこかで聞いたことがあるような―――。
「あ―――!坂下って言ったら、今日見学に来る遺族の名前ですよ!」
「らしいね。どうして、献体なんて・・・」
石塚准教授は、顔をしかめて嘆息をついた。事務員が肩をすくめて、同意する。
「何でも、遺言らしいですよ。『今後の医学教育のために献体したい』って」
「・・・」
ありがたい、といえばありがたいが、友人知人にとってはありがたくない。さすがの石塚准教授も顔を渋くして、過去の同級生に視線を送っている。その瞳にはかなり複雑な感情が入り混じっているように思えた。
しばらく無言の時間が続いたが、やがて事務員が仕方なさそうに呟いた。
「やっぱり、トレードですかねえ・・・」
頷くものと思っていたが、石塚准教授は冷静さを取り戻し、首を横に振った。
「いや、こちらで引き取りますよ」
「え!?でも・・・いいんですか?」
俺と事務員が顔を見合わせると、石塚准教授はいつになく真面目な顔をして答えた。
「いつまでも、ぐるぐると回していても切りがない。彼の家族も、若くして亡くなった彼の最後の遺志が実行されるのを待っていることだと思う。それを、僕一個人の感情で厄介払いをしたら悪いじゃないか。彼と同じ道を選んだ人間として、医者として教育者として、その遺志を尊重したい」
なんてことだろう!俺は何と言えばいいのかわからないぐらいに、無茶苦茶に感動してしまった。昨日まで馬鹿にしていた人物が、こんなに立派な人物だったとは知らなかった。同級生を解剖するところを見る、それは気分のいいものでもないし、倫理的に人にとやかく言われる類のものだ。それをあえて引き受けるとは。
本当に、この人についてきて良かった。俺は、最良の指導者に恵まれた運の良い奴だ。
事務員も俺と同じ感想を抱いたらしく、感動いっぱいという笑顔で事務室に帰っていった。それでも、石塚准教授は得意な顔など一つもしなかった。偉すぎるよ、あんた!
しかし、俺は石塚准教授の気持ちが本気で心配だった。
「先生・・・。本当にいいんですか?今なら、トレードも可能です。それに、同級生がいない大学に問い合わせるという手もあります」
「いいんだよ」
「しかし・・・」
「いいんだ。僕、坂下とは激烈に仲が悪かったから。はっきり言えば大嫌いだし、この際、徹底的に解剖しちゃおうと思って。彼のもったいぶった所が一番嫌いだったんだよね。あ、さっき言った事は嘘じゃないよ?まあ、積年の恨みを果たせるし、一石二鳥ってやつだ」
その後、平気な顔をして、大嫌いな同級生のご遺族の前で堂々と解剖実習を行った石塚准教授を遠い目で見つめながら、俺は歩むべき道を間違った事に気づき始めていた。
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