15時の光景

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 老人がいつものように眼下の広場を見下ろしているとドーナツ屋がやってきたのが見えた。ドーナツ屋は白いバンを改造して中に焼いてきたドーナツを保温するための大きなオーブンを設置してあると老人は聞いたことがあった。老人が見下ろしている塔から広場中央の噴水を挟んで丁度向かいにドーナツ屋が車を停めて開店の準備を始めた。ドーナツだけを入れるにしてはあまりにも巨大なオーブンだが、この中がいつも空っぽになるのだから驚きだ。ほとんどの者は毎日のように食べているのによく飽きないものだと老人は思った。  開店の準備の様子を見計らって噴水を取り囲むように配置されているベンチに座っていたカップルや親子連れが皆バンの方へ向かって歩いていく。そこで少人数の列が出来上がると今度は周りの木々に隠れていたのかと思うほど、ぞろぞろと人が集まり始める。  老人はその様子をずっと見ていた。毎週の土日のこの時間はいつもこの光景が見ることができる。老人にとってはもう何十回、何百回と見てきた光景だった。彼も以前にそのドーナツを食べたことがある。確かに美味いと思った。見た目は普通、味が特別な訳でもないプレーンのドーナツだ。しかし、何故だか食べた時に美味い、と思った。彼にとって食事は生きるために必要な行為であって、食卓に並ぶものは美味である必要は特にないと思っていた。しかし、そのドーナツは栄養以上の何かがあると思わされるようなものを感じた。美味いと口には出さなかったのだが、ドーナツ屋はニッコリと満面の笑みで 「喜んでくれて良かったよ。」 と言った。  風がひゅう、と吹いてハッとする。つい昔のことを思い出していると今の自分が疎かになってしまう。これは若い頃からそうだったのだが、歳を重ねるにつれてどんどん酷くなっている。自分でボケてきたのかとも思うが自身で認識できる内はまだ安心だろう。下を見やると更に人が並び、先ほどよりも長大になっていた。列は蛇行しており上から見ると巨大な蛇のように見えなくもない。そのまま列を見ていると並んでいる人の中にこちらをチラチラ見てくる者がいることに老人は気づいた。列の先頭の数人がこちらを見ている。長い列を最後尾に向かって目線を移していくとそれが先頭の人間だけではないことに気づく。そしてその視線が何故か理解した。  老人はゆっくりと立ち上がると、痛む腰を右手でさすりながら塔の中に入っていった。塔の中は薄暗くかすかに湿気がある。壁に沿う形で階段が取り付けられており、ちょうど3回ぐるりと周りながら登ると4m四方ほどの空間がありそこが塔の最上階となる。空間の面には壁はなく、頂点の部分に柱があり塔の最頂点を支えている。そしてその中央には大きな鐘が鎮座し、物々しい存在感を放っていた。広場側の面に近づき再び見下ろすと、先ほどの蛇はひとまわり小さく見えた。しかしその蛇を成す人たちのほとんどがこちらを見ていた。足元でガチャン、と少し大きな音がする。時計の長針と短針が動く音だ。  老人は昔から、ドーナツ屋ができる前からここでこの仕事をしているがずっと思っていた。何故時計の機構と鐘が鳴る機構を連動させるようにしなかったのか。この仕事に人ひとり割く必要が無かったのに。老人は天井からぶら下がっている太く冷たい鎖をを掴んで勢いよく下へ引っ張ると鐘が傾くと同時に鐘の舌が外身と衝突しけたたましい音と衝撃が響く。その波は街中へと伝播していった。  規則正しく鎖を何度も引きながら広場を見ると蛇が動き始めていた。ドーナツ屋はいつも鐘の音を合図に開店するのだ。店主は言っていた、 「15時のおやつといえばドーナツだろ?」と。
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