過去

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過去

 読み終えたばかりの息子の手紙を、陽太は元の通りきれいにたたんでテーブルに置いた。  テーブルのむかいで震える妻に視線を送る。  長年百貨店の化粧品売場に立っていた茜は、結婚をし、家庭に入ってからも自身の身なりをおろそかにすることはなかった。  幸宏が子役として売れるようになると、母親でありマネージャーでもある茜にも世間は関心を寄せるようになった。  人前で話す事が増え、茜はさらに輝いた。  カリスマ主婦。  そう呼ばれるのを、彼女は当然の事として受けとめているように陽太には感じられた。  今、眼の前に座る女性にその面影はない。やせ細った枯れ木のように、四方に伸びた長い髪。充血した茜の目からは今も涙が流れている。  結婚して17年。ここまで憔悴した彼女を見るのは初めてだった。  彼女を抱きしめ、君は何も悪くないと言ってやりたい。自分の中に湧き上がってきたのが、二度と生まれることはないと思っていた彼女への親愛の情だと気がついて、陽太は驚いていた。  4年前。出演したドラマの役が当たり、幸宏は一躍時の人になった。茜もまたカリスマ主婦ともてはやされた。  注目を浴びるにしたがって、家のことが行き届かなくなる。手作りの弁当は作られなくなり、チリ一つなかった廊下の隅に、ダマになったほこりが浮かぶ。それが陽太には腹立たしかった。  小さいながらも、まとまりのある仲良し家族。陽太が作り上げてきた理想の家族が、少しづつ崩れていく事に恐怖を感じた。  今から覚えば、それは彼女と息子への嫉妬心だったのかもしれないと陽太は思う。  自分がどれほど家族のために身を粉にして働いたとして、自分の小さな会社の稼ぎは、幸宏のそれに肩を並べることはない。  父親としてこれほど屈辱的なことはないのに、茜は自分の気持ちを理解しているようには感じられなかった。  幸宏と2人で夜遅く帰宅する茜に対し、つい強い言葉が出てしまう。最初のうちこそしおらしい事をいっていた茜も、開き直って反論をするようになり、それがまた陽太の勘に触った。  毎晩のように罵りあった。このままではどちらかが相手を刺し殺す。そう思っても声を荒げるのを止められない。  幸宏も不穏な空気を感じ取ったのだろう。ある日ポツリと仕事を辞めたいと口にした。  自分が仕事を始めてから2人は喧嘩ばかりする。辞めれば、また仲良くなれるかもしれない。  ぽつりぽつりとそんなニュアンスの事をつぶやく幸宏に、陽太は内心やはりコイツはまだ子供だと感じたものだ。  夫婦の絆は一度壊れたら、まず元には戻らない。  それでも幸宏が仕事を辞めることに異存はなかった。芸能人など長く続けていける類の仕事じゃない。人気のあるうちにフェードアウトして実のある仕事につくべきだと陽太は思った。  茜は違った。幸宏の告白を聞くなり、般若のような形相で彼を叱った。あまりの剣幕に幸宏は震えていた。その目からポロポロと涙がこぼれ落ちるのを目にした時、陽太は体の奥底からドロリとした快感がせり上がってくるのを感じた。  浮かびかけた笑みを押し殺して、一方的に言葉の刃で切り裂かれている息子の肩を持った。その後はいつもどおり、激しく互いを罵倒した。  茜が幸宏を連れて出ていったのは、それから一週間後のことだ。  テレビはつけないようにしていたから、茜の姿を目にすることは格段に減った。身近にない物に強い感情を抱き続けるのは難しいが、それでも陽太の中には、茜と幸宏に対する形容しがたい想いが強く残った。
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