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結末
幸宏の死を陽太に知らせてくれたのは義理の母だ。
駆けつけた病院の霊安室で、2年ぶりに幸宏と対面した。
「息子さんです」
看護師にそう言われても、陽太の記憶の中にいる息子とはあまりに違いすぎて実感がもてなかった。
幸宏はふっくらとした面立ちの人懐っこい少年だった。目の前に横たわっている痩せた少年からは、その面影が感じられない。
部屋の隅で狂ったように泣いているのが茜じゃなかったら、陽太は横たわっている少年が自分の息子だと信じる事ができなかっただろう。
面変わりしやすい思春期だから……。
そうやって自分をごまかすことができない位、幸宏は変わっていた。
その原因は……。
陽太は葬儀の準備に駆け回ることで、深く考えるのを避けた。
『遺書を見つけた』と茜から連絡を受けたのは昨日の事だ。すでに告別式から2週間が経っていた。散らかったままの幸宏の部屋を義理の母が整えていた時、机の引き出しから見つかったらしい。
「あなたのことも書かれているから読みに来て」
茜に言われて、陽太は初めて2人が住んでいたマンションへ来た。モノトーンで統一された室内を洗練されてると感じる人もいるだろう。しかし陽太には家と呼ぶにはあまりに温かみのない場所に思えた。
遺書には、陽太や茜を責める言葉の代わりに彼の願いがさりげなく記されていた。
『2人がまた一緒に暮らせるようになったら僕は嬉しい』
茜は濡れたハンカチを両手できつく握りしめたまま泣き続けている。間が悪いのは承知で陽太は切り出した。
「幸宏の残してくれた物のことだけど」
茜は、涙で潤んだ瞳を陽太へ向ける。
「俺が……。もらうわけにはいかない」
「偽善者ぶるのは辞めて」吐き捨てるように茜は言った。
「そうじゃないよ」
「お金がいるのは知ってる」
「知ってるって……」
「新しい事業を立ち上げるんでしょ」
「どうしてそれを」
茜は視線をそらし、コツコツと指でテーブルを爪弾いた。
マニキュアはところどころ剥げていて、元はどんなアートが描かれていたのか判別できなくなっていた。
黙り込む茜に声をかけ、陽太は答えを促した。
「ずっと調べてもらってたからよ。あなたが一人でどうしてるのか。仕事は順調なのか。別居してからずっと」
「なぜそんな事を」
「それが条件だったからよ。幸宏は仕事を辞めたがってた。そんな事……。母親として認められるわけなかった。未来をドブに捨てるなんて。ありえない。子供が間違った道を選ぼうとしたら憎まれてでも止めないと。それが息子のためでしょう?」
自分のためだろう?そう言いたくなるのを、陽太はかろうじてこらえた。
「だから聞いたの。どうすれば仕事を続けてくれるのかって」
「幸宏はなんて?」
「……。お父さんと暮らすことはもうできない。私はそう答えたわ。納得はしなかった。でも最終的には……。お父さんがなにをしてるか定期的に教えてあげる。その時もし困ってるなら手を差し伸べられるようにする。そう言って納得させた。だから知ってるの。あなたが新しい事業を立ち上げようと資金調達に駆け回ってることはね。幸宏、寂しそうだったわ。言ってくれれば応援するのにって」
「応援する……。か」
「心配してたのよ。あなたの事」茜の顔に笑みが浮かんだ。
「子供のくせに……」
テーブルに置かれた陽太の手に自らの手を重ねようと、茜は静かに腕を伸ばしてきた。陽太はその手を払いのけた。
「言ったとおりだ。金は受け取らない」
「陽太。あの子の最後の願いなのよ」
「金は全額君の自由にするといい。君もいらないと言うなら慈善団体にでも寄付してくれ。俺は、絶対に、受け取らない」陽太は決然と言い放つと、茜の顔が醜く歪んだ。この先の展開は陽太には容易に想像がついた。早々にこの場を立ち去るべきだ。
「これ以上話す事はない。失礼する。知ってのとおり新事業の準備で俺も忙しいんでね」
そう言って立ち上がると、陽太は椅子にかけたジャケットを掴んだ。茜は恨みがましい目で陽太を睨みつけている。
「君も体に気をつけて」感情のこもらない声でそう告げると、陽太は茜に背を向けた。
「嫉妬してるのよね!」茜の言葉が陽太の背中に突き刺さる。
「あなたはずっと嫉妬してた!幸宏に。自分より稼ぎのいい息子にずっと!」
茜が乱暴に椅子から立ち上がった。弾みで後ろに倒れた椅子が大理石の床を叩く。錆びついた鐘のような音が室内に響いた。茜の言葉を振り切って、陽太はリビングを後にした。
「陽太。ねぇ待ってよ。陽太」茜は陽太の後を追った。
「ねぇお願いよ。もらってあげて、ね。幸宏の……。幸宏の最後の願いなのよ。叶えてあげたいの」
茜を無視して長い廊下を陽太は歩く。玄関にたどり着き、革靴に足を押し込んだ。茜はその背中にすがりつく。
「叶えてあげて。お願いします」
そう言うと茜は額を背中に押しつけ、すすり泣く。
「申し訳ないが、受け取れない」陽太はドアノブに手をかけた。
「実の息子なのよ!恥ずかしいとは思わないわけ?」
ずっと思っていた。父親なのに息子の成功を心から喜べない狭量な自分を恥ずかしいと陽太は思っていた。それでも……。
陽太はドアを押し開けた。
「思ったところで、妬む気持ちが消えてなくなるわけじゃない」
自分に受け取る権利などない。
振り向き、茜に自嘲的な笑みを見せると、陽太は部屋を出た。
茜の嗚咽は閉まりゆくドアと共に小さくなり、プツリと消えた。
完
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