プロローグ

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プロローグ

 日記を書いていたことがある。とは言っても書き始めて数か月でやめてしまったし、何より毎日書いていたわけでもないので、日記と呼べるかは怪しい。しかし、確かに書いていた。今となっては昔の話である。  日記をつける、ということに、特に理由があったわけではなかったと思う。あえていうなら、あの頃の紛うことなき純真を、穢れのない純心を、どこかに書き付けておきたかったのかもしれない。初夏の霞んだ青空の下、どこからともなくにわか雨のようにやってくる不可逆な時間の流れは、やがては青い春のなにもかもを洗い流してしまう。やがて晴れ上がった空には、もう春のかけらも残らないのだ。積乱雲が人知れず立ち上る気配を感じ取って、何かを残さねばと焦燥感に駆られていたのである。  誰かにとっての路傍の石が、誰かを光り輝く金剛石以上のものに思えた。それ自身が何よりも輝かしいことだった。汚れっちまった悲しみに、なんて嘯いた作家がいた。馬鹿も休み休み言え、と思った。悲哀は若い心を、丹念に磨き上げていたではないか。そんな風に研磨されたあの日の若者たちの魂は、空き缶やプラスチック片といったゴミだらけのドブ川に浮かぶ、春の日の無数の白い桜の花びらのようだ。それらは、この汚い街並みの中に、微かに、それでも凛々と輝いていたではないか。今、よろこびに汚れっちまったこの心は、かなしみの淡い光を反射して、可憐に光ることをやめてしまった。忘れっちまった悲しみは、このままどこへいくのだろう。だからこそ、その輝きの最後の一閃が途絶えてしまう前に、その未熟さ故に徒然なるままに考えたことを、備忘録的にでも書き起こさねばならない。それは、このままいけば、きっと緩やかに死んでしまうのだ。  何もかも、この世の全てのことは、晩夏の午後の虹のように終わる。虹は雲の海の上の高架橋だ。高架下から見た八月の入道雲はいつでも、どこか少しだけ寂しげだった気がする。空を漂う雲の海を彩るその七色の橋が、いつもほんの数分の間に、ゆっくりと崩れ去ってしまうからかもしれない。頭頂から爪先へ、徐々に夏の湿気にかき消され滲んで行くその色彩が、そのことが、たまらなく美しいのだ。儚いから美しいのか、美しいから儚いのか。そんな玉虫の甲殻のような七色を見上げた、とある夏の日。あの日はそれを、自分だけのために回る世界の催す、自分専用のエンターテイメントのように誇らしく思った。今思えば、それは確かに素晴らしい事だった。でも思えば、そんな短編映画のような一幕の後の、青く靄がかかったあの空の下、車通りのまばらな県道の真っ黒なアスファルトの上の陽炎は、いつも何だか怖かった。彼らはいつも獲物を求めている。その一見艶美な揺らめきは、末端に漠然とした悪意を携えて、残暑に疲弊して、のそのそと歩く人々を欺かんと語りかけるのである。 「あなたはもうあなたではいられない。あなたにはもうあなたではいけない。死ぬな。生きるな。ただ死んだように生きろ。」  このモラトリアムへの信仰心が完全に枯れてしまう前に、何としても書き連ねておかなければならない。大人になってしまう前に。この魂が惰性と陽炎に殺されてしまう前に。驟雨に何もかも洗い流されてしまう前に。  この街はまるでネバーランドだった。でも、貴方はピーターパンにはなれないのだ。嗚呼、貴方はくだらない一人の人間だったから。ネバーランドでは、だれも大人になれない。大人になる前に、みんな怖い怖いピーターパンが殺してしまうから。ピーター、一緒に殺して。もう、生きたくない。
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