六畳間より

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六畳間より

----- 「ひどいね、これは。」  読み終えると、彼女はタバコをふかしながらポツリと言った。もっともだとわかっていながらも、彼女の返答に、私は少し腹を立てて尋ねた。 「うーん、具体的に、ダメなところを教えてくれない?」  彼女は再びページの端に目をおろした。 「日記形式で話を進める、てのは、平安時代の日記物語こそあれ、今の時代においてはまあまあ斬新だとは思うよ。でもさ、キャラはたってないし数も少ないし、話もセリフもありきたり。表現も奇をてらったのかもしれないけれど、ちょっと逆に寒いかな…。あと、話の都合があったとしてもキャラにはしっかり名前を付けたほうがいいし、下手に比喩を使ったり重ねたりするもんじゃないよ。意味もない引用も多いし、悪いけど、これじゃちょっと読めたものじゃないや。」  彼女の批判の嵐に、私はガクッと肩を落とした。彼女はそれを見て申し訳なくなったのか、言葉を続けた。 「あ、ごめん!うちも一応小説家としてやってるわけだからさ?それでつい色々言っちゃったんだ。趣味として書いてたんでしょ?よく書けてると思うよ。お疲れ様。」  私は顔を上げて、彼女の事を見た。彼女の吸っているセブンスターの薄い灰色の煙が、天井にゆらゆらと登った。六畳間には古い文芸誌やら文庫本やらが散乱している。白い壁のあちこちに、薄い茶色のシミがある。部屋の隅に敷かれた布団の上に、短パンと白いキャミソール一枚で彼女は座っている。その隣に私は、赤い下着姿で座っているのだった。部屋に一つだけある、小さな窓から入り込んだ午後の日の光が、二人の間に差し込んでいた。  ずっとここに住んでいる。今までも、そしてきっとこれからもそうだろう。彼女は優しい笑みを浮かべてこちらを見ている。タバコをくわえた口は少し尖っている。鼻はニンニクみたいな形で、左目には茶色く染めた長い髪がかかっている。ふわっと、タバコの匂いがした。 「……そうだね。趣味のわりにはよく書けたかなー、って」  私は笑って言ったのだった。彼女は私が怒ってないとわかって安心したように、からっとした声で言った。 「持ち込みでもしてみたら、ひょっとしたらひょっとするんじゃない?うちもそうだったしさ。さて、それじゃうちも今から編集と打ち合わせかなぁ。」 「それじゃ私は掃除して、夜ご飯作っておくね。ありきたりだけど、カレーでいい?」  彼女はそれを聞いて、ニコリと笑った。 「うちは幸せもんだな。」  彼女の本棚を整理していた私は、ふと、棚の隅で死んだように埃を被った、一冊の本に目が止まった。それは、かの有名な中原中也の詩集だった。裏には「二百円」なんて古本屋の値札が付いたままになっている。手にとってパラパラとめくってみた。黄ばんだ本のページの端は縒れて、あちこちに茶色い染みがあった。この本はこれまで、どれだけの人に読まれてきたんだろうか。破れた本のカバーは、その歴史を、静かに語りかけてくる。  ふと、あるページで、有名な詩をみつけた。私はこの詩を知っている。この詩は、あの日読んでいた、高校の現代文の教科書に載っていた。斜陽が差し込む教室の隅の席で、私はそれを見つけたのだ。机の上の暖かな陽だまりが、教科書をそっと隠すように覆っていたような気がする。  もっとも、私はこの詩の出だしの一行が嫌いだった。なので、その先を読んだことはなかった。薄汚れた白いページに点々と文字が並ぶ、私は、その短い詩に目を落とした。 汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる 汚れっちまった悲しみは たとえば狐の革裘 汚れっちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる 汚れっちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく 汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む 汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき 汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる………… (中原中也『山羊の歌』より引用)  あぁ、そうか。私は今納得した。ずっと間違っていたのは私なのだ。私はずっとこの詩を、心が悲しみに汚れてしまう詩だと思っていたのだ。そうじゃない。彼の心は悲しみに汚れたのではない。彼もまた、悲しみがこの世で一番純朴なことを知っている。そのほかの感情はすべて、汚れている。喜びも、怒りも、楽しさも、すべて悦楽と傲慢の海から生まれだ。そんな世の中で、汚れっちまった悲しみは、すり減らされ、消費され、こんな色になるまで使い古された。時には、教育の四角い論理の中に押し込められ、挙げ句の果てには私のような無知な輩の批判も浴びた。  ああ、これは私のしたことじゃないか。今からやろうとしていることじゃないか。何が私の純真な悲しみを書き留めるだろうか。馬鹿だ。私は、そんな馬鹿な自分が、死ぬほど嫌いだ。そのくせ、やはり私は今からこの悲しみを汚しに行くだろうと思う。今あなたがこれを読んでいるなら、そういうことだ。あなたの汚れた瞳と自尊心に、私の心は、思い出は、純真は、少しずつ、しかし確実に汚れていく。  いくらでも汚せ。私が差し出す純潔を、春を買っていく人よ。好きにしろ。どうせくだらない、すでに汚れちまったものだ。クソみたいな私の悦びの為に、かつての私のちっぽけな悲しみの肉体を、これでもかと君も悦びに使うがいい。そんな自慰行為で汚した後は、有る事無い事、全て忘れてしまえ。  そうだ、私は忘れてしまったのだ。あの悲しみを、茫漠とした何か大切な感情を。忘れてしまって、それでも思い出そうと、忘れまいと、こんな愚行を重ねたのだ。 「趣味として書いてたんでしょ?」  彼女の言葉がふと頭をよぎった。私はあの時、まだ青かったあの春と夏の狭間で、何が書きたかったのだろうか。そのことを知るかつての私は、私によって忘却の彼方に捨て去られ、そしてなんということであろう、ついには死んでしまったのだ。悲しみの中で生み出された純白の物語はもう、時を経て、現実から夢物語になってしまったのである。それでも私の四肢は、のうのうと生きている。馬鹿みたいだ。それでも、死ぬな。生きるな。死んだように生きろ。 汚れっちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む
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