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妙にせまい店内。薄い壁に小汚い内装。クソまずい料理。そしてやる気のないお嬢……。僕のヤな予感は大当たりだと、領収書が教えてくれた。 「ははは、八万円ッ?」 えらくぞんざいに切られた領収書に、僕はおもわず絶句した。 ビール六杯つまみ三皿がなんで八万やねん! いざ抗議のこぶしを振り上げんとしたそのときを、まるで狙いすましたかのように、僕の脇を左右からサッと固める感じで屈強な男がふたりもあらわれた。 「なんや文句ありますのんか」  僕はあわててこぶしを仕舞って笑った。「ないでーす」  ハハハこりゃ一本とられましたなァと、おでこを叩いてごまかすと、僕はとなりに座る先輩に泣きついた。「なんとかしたってくださいよコレ」  八万円といえば大金だ。懸命に働いて得た金を、なんで悪党に差し出さにゃならんのだ。 すがるような目で先輩を見ると、うむと頼もしい表情でうなづくとこう言った。 「割り勘にしような?」  あわてて先輩を店の隅へひっぱってゆく。 「ちがうっちゅうねん! あんた年長者でしょッ? 年下のかわりに文句のひとつでも言うてくださいよッ」 「いやや。それはちょっとこわいやん?」 「いやややあらへん。ならせめて年下庇うとかなんとか……ってコラッ、僕より先に頭を抱えるなッ」  僕らが見栄もプライドもない諍いをはじめると、カウンターに立つ胸の谷間あらわなセクシーねーちゃんは、小指で耳の穴をほじって大あくび。まさに我関せずという具合。 これは悔しい。過分のカネを払うなら、奴らにせめて一太刀浴びせたい。そして思いつく。決めた、あのねーちゃんのおっぱい揉んだろ!  すると先輩、意を決したのか、突如ツカツカとカウンターに歩み寄ると、財布を台に叩きつけてこう言った。 「ちくしょうッ! 持ってけ泥棒ッ」  ありがとうございましたー。さっきまでの態度がウソみたいに愛想良く送り出され、僕は快哉を叫ぶ。 「かかか、かっこいいっ! 僕一生先輩についていきます。でもどうしたんすか。急ぎ足でセカセカ歩いて。もっと堂々と歩いたらええやないすか」 「やばいんや」 「どうして」 「実はあの財布な、カラなんや」 「エッ!」  見ると先輩のポケットから万札やカードの類がはみ出ている。僕は絶句した。 「なんですぐバレるようなことするんスかッ」 「ああするほかないやろッ」  とにかく逃げるでッ。ほいきた! 先輩は万札をポッケに押し込みながら全力ダッシュ。僕もあわてて後を追う。せまいフロアを走り抜け、階段を上へ上へ。階中の踊り場まで一気に駆け上がり、先輩いきなりへたり込む。息が切れたらしい。 僕はあわてて肩を貸す。ほらがんばって、一階上まであとすこし……。そう言ってからハタと気がついた。 「なんで上やねん!」 絶体絶命。いよいよ切羽詰まっちゃった。パニクる僕はヒステリックに叫ぶ。 「なんで逃げ場のない逆方向へ全力疾走しとるんスかッ。逃げるんやったら出口のある下でしょ下ッ。ちょっとッ、ヒーヒー言うとらんでなんとか言うてくださいよッ」  息切れする先輩は「ハヒィ」とだけ言った。 見捨てて逃げることにした。 一生ついていくと言ったそばから見捨てちゃう。おのれの薄情さに惚れ惚れとしながら駆け戻ろうとしたそのとき、来た方向からバターンと乱暴に扉が開く音がした。怒号がビルじゅうにこだまする。「あンのボケカス!」 「あー終わった! きっとさっきのボインのねーちゃんの前にひきずりだされてしばき倒されたあげく、八万ぼられるんやろなあ。くやしい! その前におっぱい揉んだろ!」  連中の足音がせまる。僕の脳裏をしょぼい走馬灯が駆け巡りはじめた。もうだめだあ。  ところが僕の悲劇的予想とはうらはらに、近づいたはずの足音は、みるみる遠ざかるのである。なんで?  先輩は息も絶え絶えに言う。 「この世にアホを探すアホはおらん。アホになりゃあ、案外助かるんもんやで」 「と、言いますと」 「逃げるなら出口のある下か外や。追うほうもそう考える。ならすこしだけ逆に逃げておけば……」 「あっ! みつからへん!」 「せやろ。連中が諦めて戻ってきてから下へ降りるんや。そしたら絶対に逃げ切れる。それに上に逃げておけば、もしみつかっても逃げるつもりはないって言うたら信じるやろ。上に逃げるアホはおらんのやから」  目から鼻に抜けるとはこのことだと僕は思った。。とんでもない機転である。先輩は確実に逃げおおせる方法ばかりか、万が一に備えての保険まで考えていたのだった。あの切羽詰まった状態で、誰もが早く逃げようとしか考えない局面で、いったいどう頭を使えばその発想に至るのだろう。 感心した僕は先輩の背をバンバン叩く。 「いやあ、さすが先輩。いくつものなさけない修羅場をくぐってるだけありますね! 合コンバレてカノジョに刃物突きつけられたり、間男かまして浜に首だけ出して埋められただけありますね! 僕、信じてました!」  先輩は疑いのまなざしで僕を見ると、おおきな溜息を吐いた。 「でもな、うかうかしてられんのや。ぼったくりバーってのはな、実は横のつながりが密なんや。逃げられたと思ったら方々から追手がかかる。しかも経営してるのはそのスジがらみの連中やからな」 僕はピョンと飛び上がった。「ええーっ! もっとあかんやないすか!」 「こうなったら助かるためには捕まるしかない」 「もう意味がわからない!」  結論から話す。僕らは助かった。しかも払うどころか車代と仕事の依頼の前受け金をガメたうえ、タクシーで帰ってきちゃった。もはやこれまでと、感極まった僕らが抱き合ってベソをかくさまは、お白州ですっかり観念した小悪党とその子分の図だったろうが……。  シャーロックホームズ、金田一耕介、明智小五郎。探偵を小説でしか知らない僕は、探偵はハードボイルドなイメージだった。また、そういう人しかなっちゃダメなんだろうなあとも思っていた。  こんななさけない先輩が、新米とはいえじつは探偵なのだから恐れ入る。  帰りのタクシーでは、僕らは運ちゃんが失笑するぐらいに憔悴しきっていた。 「なんとか首がつながったあ。営業ノルマ達成や……」 「えっ、営業? いまのが?」  あやまてる就職活動の末、先輩がたどりついたのはブラック企業も真っ青の探偵社だった。美人の女所長に惚れた弱みでいいようにこき使われているのが先輩らしい。 スラム探偵社。所長に蹴とばされ、先輩が泣きを見、僕がとばっちりを食う。いまにして思えば、いつものパターンはこの日からはじまっていた。
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