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* * * 「はよ、ホモ近」  半径一メートルは無人空間という教室の孤島に、見えない大海を飛び越えて、ずかずかと侵入してくる者があった。その声はむき出しのナイフのように、鋭く冷たい。 「はは、相変わらずお前バイ菌みたいに距離とられてんのな」  あからさまに見下した物言いが癇に障る。 柊馬は無視を決め込んだ。どうせ何を話しても言葉を曲解され、「ホモだもんな」の一言で面白おかしく締めくくられるのだ。  だったら会話なんかなくていい。見たいように見て、事実とは無関係の捏造話を、あたかも真実のように話せばいい。わかってもらおうなどと期待をして、バカなやつらに労力と時間を割くなんて、それこそバカのやることだ。  声をかけられながら、ちらりとも視線を動かそうとしない態度に、苛立つ気配がした。 「おい、何シカトしてんだよ」  ガン、と軽く机の足を蹴り、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ少年が見下ろしてくる。 思わず目を眇め、睨めつけるように視線を上げた。 「なに?」  目が合うと、片方の口角だけくいっと上げて、入江有伎が生意気そうな表情で笑う。それが様になるのだから、柊馬にとっては不本意極まりない。  彼は生まれつき色素の薄い毛髪の下からブラウンベージュのインナーカラーをのぞかせ、耳朶にはいくつもの穴を開けている。わずかにつり上がった猫目には、かわいらしさと色香が同居していた。 やや自己主張の激しい容姿だが、中身がアレでなければ好感を持てるくらいには美形だ。 「寂しそうにしてるからわざわざ声かけてやったのに、無視してんじゃねえよ」 「……悪い。聞こえなかった」  相手をするのも面倒で形だけの謝罪をすると、入江は余計に目尻をつり上げた。 「ふざけんな」  力まかせに机を殴った少年の背後から、ふいに誰かの呼ぶ声がする。その人物は廊下側の窓枠をわずかに乗り出し、手を振った。 「有伎、忘れ物」  彼は苦笑しながら、家の鍵と思しき物体を、顔の横でブラブラと揺らしてみせた。穏やかな表情からは知性と品位が滲み出ている。その顔をこの学校で知らない者はいない。 「兄貴」  入江はパッと身を翻し、見えない大海の向こうへと引き返した。柊馬につっかかっていたのが嘘のように、人好きのする笑みを浮かべて。 「俺も母さんも今日は遅いから、鍵を持ってないと家に入れないぞ」 「うん、さんきゅ」  鍵を預かった入江の横から、「会長おはようございます」とクラスメートたちが身を乗り出す。会長と呼ばれたその人は、にっこりと完璧な笑顔で挨拶を返した。 「おはようございます。じゃあ、俺は生徒会室に用があるから。有伎、あまり友達に突っかかるなよ」  先ほどのやりとりを見ていたのか、やんわり釘を差した兄は、颯爽と去って行った。
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