真夜中の旅立ち

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真夜中の旅立ち

もうあと十五分で三時になる。 なのにセナは来ない。 紀子は重たい荷物を持ったまま、無意味に周囲を確認し、 待ち合わせのベンチの周りをウロウロとしてみた。 時々、暴走族のバイクの音が近くに聞こえるのがちょっと怖い。 彼らが集まるのは明るいコンビニの駐車場や、もっと広い公園だ。 まさかこの猫の額ほどの広さしかない、古びれた公園に やってきたりはしないだろう。 それよりも補導の心配をした方がよさそうだ。 この辺りで、警察官やボランティアの人たちが夜間見回りをしている というのは聞いたことがないが、万一、見つかったら大変だ。 ママの道具をこっそり使ってお化粧をし、一番大人っぽい 服を着てきたし、分厚い眼鏡をやめて、思い切ってコンタクトもした。 でも、身分証の提示を求められたら誤魔化せない。 いや、大丈夫。荷物を持って家をこっそり出るのも 誰にも見つからなかった。 気分を落ち着けようと、大きく息を吸い込んで空を見上げる。 気に留めたことなど無かったが、田舎町だけあって 夜空が綺麗だ。青白い星が冴え冴えと輝いている。 デネブ、ベガ、アルタイル――暇つぶしに大三角をつなげてみる。 こんなふうに、のんびりと空を見上げるのはいつ振りだろう。 待ちくたびれて苛々としていた気持ちが、少しだけ和らぐ。 あと十分で三時だ。 二人で遠くに逃げようと言っていた当のセナはまだ来ない。 もしかして、こっそり出ようとしたところを家の人に 見つかってしまったのかもしれない。 シングルマザーのセナのママは、放任な割に娘の非行には 敏感で、もし家出なんてばれたら、セナを物置に閉じこめる くらいの事はしてしまいそうな人だ。 段々と不安になって来た。ラインを確認したが、 八時の「今夜決行」というメッセージ以来、連絡は無い。 ふっと、夏も近いのに随分と冷たい風が吹いた。 これから向かう予定の北の大地を思わせる、澄んだ匂いがした。 立ち上がって低い柵の向こうを覗くと、大した高台でもないのに 夜の町がずいぶん遠くに見えた。 今日で人生が変わってしまう。 未成年が二人、知らない土地でどれだけやっているか。 不安でいっぱいだ。寧ろ不安しかない。 それでも、毎日頭が痛くなるまで勉強させられ、学校と家を 往復するだけの退屈な日々よりきっと楽しい事があるはずだ。 人も草も、虫さえも眠ったような静けさのなか、 仄かな明かりが灯された瓦の波を見下ろしていると これから果てしなく長く壮大な旅にでるのだと錯覚し 紀子は少しの間、冒険の主人公になったような昂揚を覚えた。 自分の欲しかったのは、こういう感覚なのだ。 人目を忍んでいることも忘れ、小さく鼻歌を歌う。 いまならどこへでも行けそうな気がした。 三時まであと五分を切った。 セナはまだ来ない。連絡もない。 きっと約束など忘れてしまったのだろう。 「この学校、ううん、この町にいたら私、きっと死んじゃう。  一緒に逃げよう、紀子」 紀子の手を握り、大きく澄んだガラスのような瞳に涙をためて 訴えた言葉は嘘だったのか。しっとりと吸いつくような手の 感触が蘇り、胸がきゅっと縮む。 紀子は家や学校では絶対にできない貧乏ゆすりをして、一人舌打ちした。 思えばセナには昔からそういうところがある。 気紛れ屋で突飛で、KYで意味不明。 だから、クラスでも嫌われるのだ。主に女子に。 重たい荷物を放り出し、冷たいベンチに力なく腰を下ろす。 こんな事だろうとは思っていた。 紀子は酔っ払いの父と口うるさい母のいる窮屈な家から、 セナは浮いてしまっている学校から逃げ出したかった。 お互い何か打ち込めることがあったら他に方法があったかもしれない けど、紀子もセナも無趣味で退屈な女の子だった。 運動も駄目、絵も下手くそ、歌も駄目、唯一の趣味が彼女は映画を 見ることで紀子は本を読むことだ。 中学で仲良くなったのも、セナが気にしていた映画の原作となった 小説を紀子が貸してあげた事だった。 そんな事も無ければ、彼女のような美少女と地味な紀子が 友達になることなど無かっただろう。 そもそもなんで夜中の三時だったのだろう。 幾らこっそり町を出ていくのだと言っても、 もう少し早い時間にすればよかったのに。 歩いて行けるところまで歩いて行って、疲れたら電車に乗るの。 フェリーもいいかもしれない。 そんな夢みたいなことを言っていたが、 所持金だってそう多くは無い。何もかもノープランだ。 急に眠気がさして欠伸をしていると、ラインが鳴った。 「ごめん、家を出る前にテレビをつけたら、ものすごいB級映画してて  見てた。何がすごいってね、ゾンビが空を飛んでるのよ」 だからどうした。紀子は思わず心の中で突っ込みを入れた。 ラインにはその後もつらつらと、恐ろしく突飛で退屈そうな映画の 内容やコメントが続いていた。 セナの人形のように綺麗な顔が、キラキラと輝く様が目に浮かぶようだ。 本当に仕方がない子だと思う。 そんな子の言うことを真に受けて、計画もなしに町を出ようと した自分もだ。 呆然と座っていると、どこからか笛のような音が聞こえた。 屋台ラーメンの音だ。 子供の頃、どこからともなく聞こえてくる屋台の音楽に、 こっそり家を抜け出てラーメンを食べに行ってみたいと胸を躍らせた。 紀子はふらふらと音のする方に進んだ。 時計の針は丁度、三時を指していた。 赤い提灯が暗闇に浮かんでいる。 白い湯気と共に、何とも言えない香りが漂ってきた。 紀子は気が付けば、ビニールの暖簾をくぐり 粗末な椅子に座っていた。 メニューをちらりと見ると、醤油ラーメンのみと潔い。 「一杯ください」 未成年がこんな夜中に。 そう咎められるかと思ったが、白髪交じりの店主は 「あいよ」 と短く呟いたきり、手際よくラーメンを作り始めた。 「お待たせ」 ボロボロのテーブルに、赤い丼が置かれる。 ふち一杯まで入ったスープは茶色く澄み、黄身の蕩けた半熟の煮卵に 分厚いチャーシュー、鮮やかな葱の緑とピンクの渦巻きナルトが いかにも食欲をそそる。 「いただきます」 自然と声に出して手を合わせると、火傷しそうなくらい熱々の スープをまずは一口。煮干しが仄かにかおる醤油味のスープは 油が浮きこってりしているようで、ごくごくと飲めてしまう。 麺はもっちとした卵麺で、これがまたスープよくあう。 豪快な大きさのチャーシューはトロトロで、口の中に溶けていく。 スープを吸った海苔がまた絶妙だ。 汗と鼻水を垂らしそうになりながら、 はふはふと熱い麺とスープをすすりあげていく。 何度か、スマホがピコンピコンと音を立てたが、 今、ラーメン食べてるから。と無視を決め込む。 夜中に女子高生が、こんな高カロリーな物を食べるなんて。 注文した時にはそんな罪悪感を覚えたが、いったんラーメンを 前にするとそんな事は、どこ吹く風だった。 三時のおやつってことで。 そんな言い訳をすると、 紀子は瞬く間にラーメンを平らげ、スープの一滴まで飲み干した。 「ごちそうさまでした」 ニコリともしない店主に、礼を言って屋台を後にする。 ようやくラインを開くと 「何してるの~。メッセージ送ってるのに~」 と、いかにも拗ねたようなメッセージを最後に着信は途絶えていた。 「ラーメン食べてた」 それだけ返して、スマホをポケットにしまう。 セナには待ちぼうけをくらったが、たまにはこういう日も悪くない。 紀子は晴れ晴れとした顔で、夜の町を家路についた。
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