卒業

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卒業

※※※  廊下の風は冷たい。もう三月だというのに、体を纏う空気は私から少しずつ温度を奪っていく。両手をカーディガンの袖に隠しながら、私は閑散とした廊下を歩き続けた。  外からは賑やかな声が絶えず聞こえてくる。私だけ別世界に来てしまったような寂寥感と、少しだけの優越感。まやかしだけれど。  パコ、パコ、パコ。履きつぶした上靴が立てる音は酷く間抜けで、なんだか泣きたくなってくる。私は小さく鼻をすすった。  こうやって歩きながら、私はいつも僅かな期待を抱えていた。どこかで彼と鉢合わせないか、そこのドアから彼が出てくるんじゃないか。気づけばいつだって、私は彼のことを待ち続けていた。今だって。例えばほら、そこの角から――。 『あれ、安藤』  ひょこっと丸い頭が覗いたような気がして、私は小さく肩を揺らして立ち止まった。 「さ、えき?」  しかしどんなに目を凝らしても、そこに佐伯は見えなかった。しばらく佇んでから、私は「ああ」とため息のように声を漏らす。  今のは過去だ。私の記憶に存在する彼。この場所で一度、角から出てきた佐伯と鉢合わせたことがあった。  そのときはちょうど受験期で、私の周囲には重苦しい空気が漂っていた。かくいう私も推薦入試の結果を待ちながら勉強をしている状態で、精神状態は酷く不安定だった。  休み時間にトイレへ歩いていたときだったと思う。ふいに曲がり角から見慣れた顔が現れて、私は心臓が跳ねるのを感じた。 『あれ、安藤』 『佐伯』  佐伯はこちらを認識すると、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべて近づいてくる。私は嫌な予感がして眉を顰めた。身構えるような恰好をして彼を睨みつける。 『なんだそのポーズ』 『いや……なに?』 『お前A高受けたんだろ? さすがだな。よっ、優等生!』 『なによ急に……』  珍しく褒めてくるのがむずがゆくて、私は視線をさまよわせた。そんな私の様子に佐伯はますます面白がる。 『えーこう! えーこう!』 『わーっ、声が大きいって!』  私の周りを回りながら手を叩いて、彼はA高と叫び続ける。数人の生徒がチラチラとこちらを見ていて、私は顔から火を噴くかと思うほどだった。 『もーっ佐伯』 『で? 結果はいつ出んの』  ようやく回るのをやめた佐伯は、私の顔を覗き込んでからそう尋ねた。その表情は真顔に戻っている。器用な奴だ。私は少し躊躇ってから、もごもごと口の中で答えた。 『……十二月の上旬だって』 『そっか』  俯いている私に、佐伯はポツリと呟いた。励ましも同情も含まない淡白な声が新鮮だった。最近はどこへ行っても、鼓舞され労わられるばかりだったから。 『大丈夫だよ』  いつもと変わらない口調で彼が言った。その言葉がゆっくりと胸に染みて、全身を甘く侵していく。私は小さく息を吐き出した。 『お前は大丈夫だ。俺が保証する』 『……なんで佐伯が保証するのよ』 『俺がそう思うんだから間違いない』  ようやく顔を上げた私の目に、こちらを見る彼の表情が飛び込んだ。いつもみたいに何でもないような笑顔を浮かべて、でも少しだけ照れたように頬が上気していて。ただその瞳は真っ直ぐに私を捉えていた。それがあまりに澄んでいたから、私は思わず息を飲んだ。
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