-慎二の場合-

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-慎二の場合-

「ねぇ、慎二。お願いだからさー」 「だから無理っつってんだろが」 「一生に一度のお願いだからっ」 「無ー理ーだっつの」 「俺と慎二の仲じゃん」 「幼なじみってだけじゃねーか」 「だからいーんじゃん」 「それなら祐介でもいいよな?」 「俺は慎二がいいんだってば」 「何で」 「だって俺は慎二が好きだから」 「それがわかんねっての!啓ならその辺のイケてるα捕まえられんじゃん」 「そんなのいらないよ。俺の初めては慎二がいい」  こいつは最近はいつも朝からこんなだ。  Ωでもあるこいつ、啓一郎はいつもこうやって『俺にヒートが来た時に相手をしろ』とやたらしつこく言ってくる。  朝から生々しい。  初めて言われた時はそれこそ目が点になった。  だってこいつはΩで男で。  そりゃ見た目はΩらしく華奢で俺よりも頭ひとつ分は小さい。柔らかなふわふわした栗毛だし、その下にある顔はおめめぱっちりでスッとした鼻、小さくて可愛らしい唇で。世間では、Ωとしては最高ランクの愛らしさだとクラスメイトの噂話を聞いた。  学校でも結構モテて色んなαのイケメンや、果てはβの男にまでも告白されているらしい。だのに啓はそれを全部断っている。  だからって俺にはこいつが幼なじみにしか映らない。しかも俺はαやΩの運命とやらには一切関われないβなんだ。Ωであるこいつにそんな事言われても「はい、そーですかわかりました」なんて言える訳がない。  だって俺には他に好きな奴がいるんだから。  ちゃんと俺は「好きな奴がいる」と断った。だのにこいつは「それはそれ、これはこれ」と引かない。  近頃は毎日そうやって朝から俺の部屋で同じやり取りをしている。  家が隣同士で昔から朝に弱い俺を起こしにくる啓は隙あらば俺に『一生のお願い』とやらをしてくる。  毎日こんなやり取りをして飽きないのかと聞いたらそのまま絆されてくれるかもしれないじゃんと返ってきた。いや、無理だから。 「無理かどうかヒートが来たら試してみたら良くない?」  啓は産まれた時からの付き合いだから、声に出さない俺の言葉すら掬い上げて返事をする。俺の事を多分誰よりも知ってるし、俺もこいつの事は誰よりも理解出来る……はずだったのに。  最近の朝の恒例行事の様なこのやり取りだけは理解出来ない。  だって俺はβだし幼なじみだしお前は友達だし家族同然だし。それより何より俺には無理なんだ。そんな事出来る訳がない。  俺の好きな奴はこいつが好きなんだから。 「慎二、啓ちゃん!お迎えが来たわよー」  玄関でいつもの様に母さんが俺達を呼ぶ。しまった!もうそんな時間か! 「はーい。ほら、慎二!祐介待たせちゃうよ、早く着替えて!」  啓は俺の制服をクローゼットから出して早く着替えろと急かす。さっきまでのやり取りはまるでなかったかの様な空気になった。毎朝の事だけど、この切り替えの早さは凄いなと思う。 「朝からくだらない事言ってるお前のせいじゃね?」 「話してても手は動かせるよね?」 「うわー何か理不尽」 「ほらほら急いで」  そうやって俺達の朝は始まる。 「ごめんね祐介。慎二がトロくてさー」 「いいよ。いつもの事だから」 「何だよ、俺が悪者かよ」 「別に悪くないさ。もう慣れたし。ただお前が寝汚いだけだろ?」 「げっ、ひでーな祐介」 「事実だろ?ガキ」 「ああっ!おれのセットがー!」 「慎二のセットなんて誰も気付かないよ」  毎朝迎えに来てくれる祐介は嫌な顔ひとつせずに俺達と登校する。  今日は祐介は笑いながら俺の頭を大きな掌でぐしゃぐしゃと弄り、それを見て啓一郎が笑っている。これが俺の日常。  祐介にぐしゃぐしゃにされた頭に口では文句を言うけれど、俺の心の中の言葉は誰にも言えない。 『話がある』  授業が終わってスマホを開くと祐介からメッセージが来ていた。  普段使われていない教室を指定されていたので、きっと誰にも聞かれたくない事なんだろう。となるとやっぱり啓絡みの話なんだろう。俺はひとつ小さくため息を吐いて、指定された空き教室に向かった。 「どした?祐介」  教室に入り扉を閉める。 「うん……」 「何?祐介らしくないな。言い辛い事か?」 「うん……」  祐介はαだ。  成績も優秀でスポーツだって万能で、とても爽やかだしαとしての自信や実力もきちんと持っている男。  それが今日はこの埃っぽい教室の中、古い椅子に座り俯いていて何だかこの教室の中に溶け込んでしまいそうだ。  本当に祐介らしくない。余程辛い事でもあったのだろうか。それは俺が聞いてもいいのだろうか。俺が聞く事で祐介の心の辛さが軽減されるなら嬉しい。祐介の役に立つなら本望だ。  俺は祐介の横に椅子を持ってきて座り、祐介が口を開くのを黙って待っていた。 「……あのさ、お前啓一郎の事知ってるか?」  祐介は漸く重い口を開いた。  ……ああ。やっぱり祐介の頭の中は啓の事でいっぱいなんだな。  知ってたよ。お前がαだろうが、啓の事が好きだろうが俺はお前ばっかり見ていたんだから。  祐介とは中学で仲良くなった。祐介はαの癖に優しくて偉そうじゃない。誰にでもその優しさを与えるんだ。普通のαの奴らは同じαやΩの子には優しいけど、βの奴らはどうでもいいとあからさまな態度を取ったりするものなのに。祐介ときたらβの俺にまで優しいから。  お前にとって俺は啓のおまけなのにお前はちゃんと俺を俺として扱ってくれるから。  俺は絶対にお前の特別にはなれないけれど、友達としてなら、友達としての特別なら許してくれるだろうか。 「啓一郎の……何?」  祐介は啓の何が知りたいんだろう。  俺は祐介には啓から言われている『一生のお願い』の事は話した事がない。というか言えない。祐介が傷つくのがわかってるから。でも、もしその話だったら俺は何て答えればいいんだろう。 「あいつ、高校辞めるかもしれないって」 「えっ!?」  啓が、学校を辞める?  予想外の言葉に驚きを隠せなかった。 「……お前も聞いてなかったのか」  祐介はアテが外れてがっかりしたのを隠しもせずにため息を吐いた。 「……どういう事だ?」 「さっき教務室に用事があって行った時にさ、啓一郎の担任が学年主任と話をしていたんだ」 「マジで?」 「お前には啓一郎なら言うと思ってたんだけどな」  そんな話知らない。あいつは最近はいつも、今朝だってしつこい位に『一生のお願い』ばかり言ってたけど、そんな事は一言も言ってない。父さんも母さんも啓一郎の両親とは友達だから本当の話なら俺に言ってくれる筈だ。 「……ごめん。それ初耳だわ」 「お前も聞いてないならデマなのか?……いや、学年主任が話してたんだから……」  祐介は俺から視線を足元に移し、また一人の世界に入ってしまった。祐介にとっての啓は俺にとっての祐介と同じだから。  いや、祐介はαで啓はΩだから俺と違って二人が恋人同士になってそのまま番になる可能性だってある。それは凄く当たり前の流れで、何だったらそれで全てが丸く収まる。  俺の気持ちがそこに入る隙はない。  βの俺には可能性なんて万にひとつもない。  祐介はショックだろう。ずっと想っていた大好きな啓一郎がいなくなってしまうかもしれない。俺だって祐介が黙っていなくなってしまったら世界が真っ黒になってもう何も出来なくなるのではないだろうか。  ……じゃあ啓がいなくなったら?  そんな事考えた事もない。そんな未来があるなんて思った事すらない。  何で啓はそんな大事な事を話してくれないんだ?俺は小さい頃からずっと一緒だったし、祐介よりもずっと長い付き合いだ。一番の親友だと思ってた。俺には何で話せない?  祐介への気持ちと啓一郎への気持ちが俺の中でぐちゃぐちゃになっていく。 「悪かったな慎二」 「ん?」  気が付けば祐介が申し訳なさそうに俺を見ていた。 「はっきりしてもいない話なのに余計な事言ったな」 「……話してくれて嬉しいよ」  俺は努めて笑顔を作った。 「お前が気になるのはわかるよ。片想いの相手だもんな」 「なっ!?」  俺に核心をつかれて祐介はぶわっと真っ赤になった。俺は色んな想いを隠す様に祐介に笑顔を向けた。 「お前、もしかしてそれで隠してたつもりなのか?」  祐介は真っ赤なまま動揺し俺からさっと目を逸らした。俺はくすくすと笑いながら祐介を見遣った。 「大丈夫だよ。啓一郎は知らないから」  知らない筈だ。もし知っていたら啓は『一生のお願い』を祐介にするだろう。αとΩで問題なんて全くない。ただ、それを俺が啓に言ってないだけだ。言えば俺のこの気持ちの逃げ場が無くなるのだから。ただの俺のエゴなんだ。 「そっ、そうか……」  祐介は世間でよく言われているαのイメージとは少し違う。  好きな子をそっと見守るなんてαとしてはどうなんだろう。でも俺はそんな優しい祐介が好きだった。  今もまだ顔は真っ赤なまま照れている祐介の、気持ちは全て啓に向いている。祐介が啓を見る眼差しがとても優しくて、俺はそれを見るのが好きだった。啓がいなくなったら祐介のその優しい甘い眼差しは何処へ向かうのだろう。 「αの癖にさ、お前そういうとこ可愛いよな」 「かわっ……!?どーせ俺は世間のαとは違うよ」 「拗ねんなよ。褒めてんだから」 「……嘘くせぇ」  俺が小さく笑ってからかうとすぐ拗ねる。祐介は愛しい啓一郎を甘やかす分、俺には友達としてこういう一面を見せてくれるのかもしれない。嬉しいよ祐介。  それにしても。  本当の所はどうなんだろう。啓が学校を辞めるなんて。  祐介の事は置いておいても気になる話ではある。  小さい頃からずっと一緒にいてお互い隠し事はなかった筈なのに。何かあったのだろうか。何で俺に言ってくれないんだ。 「啓、お前学校辞めるってほんとか?」  祐介が落ち着いてから俺達は帰宅した。  祐介と別れた後、ダッシュで家迄帰り、鞄を玄関に投げ入れた。そのまま隣の家に駆け込み挨拶もそこそこに啓一郎の部屋へと駆け上がる。おばさんはいつもの事だと気にしていない。  啓の部屋に入ると、ベッドの上で膝を抱え体育座りで小さく丸くなっていた。  緩慢な動きで俺に視線を向けて、啓は小さく笑った。 「あ、バレたんだ」 「何で…俺に言わない?何があった?」  しれっと何でもない様な顔をしてるけど視線が泳いでいる。嘘や隠し事がある時の啓一郎の癖だ。 「……別に」 「嘘つけ。何隠してんだ?」  俺の言葉に啓は膝の上に顔を埋める。顔はすっかり隠れてしまい、もうその表情はわからない。啓はそのまま動かなくなってしまった。  膝に顔を埋めたまま理由を話そうとしない啓に俺は段々と苛立ってきた。  俺は俯いた啓の顔を両手で挟み無理やり顔を上げさせた。 「言えよ啓」 「……」  啓が俺を見る。 「……っ」  俺を見たその目からつーっと涙が溢れた。  啓は何も言わないけれど、後から後から涙がこぼれて止まらない。 「……啓、何があった?」 「何も……」  啓一郎は何もないと言いながら涙を止めない。止める事が出来ないらしい。それを見て俺の胸が苦しくなる。何があったのか知りたい。俺に出来る事なら何とかしてあげたい。涙を流す啓の姿は俺の心を締め付けた。 「言い方を変える。何がそんなに辛い?」 「俺は……αが怖い」  暫く経って、啓はぽつりと呟いた。 「怖い?」 「……俺の匂いに充てられて近寄ってくるαが怖いんだ」  啓が少しずつ言葉を紡ぎ出して来たので、俺は啓の顔から手を離してその隣に座った。 「俺が時々αに告白されてたの、知ってる?」 「ああ。『今日は誰々が啓に告白してるぞ』ってクラスでよく噂になってたから」 「あいつら……俺が断ると『お前がそんな匂いを出してくるから悪い』って……」  啓は言葉を詰まらせて嫌悪感を露にした。 「何人かに襲われた」 「えっ!?」 「でも皆まだ俺がヒートが来ていない事に途中で気付いたみたいでさ、どれも最後まではされなかったけどね」  啓はそう言いながら自嘲気味に笑った。  その初めて聞いた話に怒りが身体の奥から沸き上がる。  そんなの強姦じゃないか……!告白を断ったからって、八つ当たりの様に無理やり襲うなんて!未遂だからって許される事じゃない!  なんとも言えない怒りが身体を支配していた俺に、啓は小さく笑みを浮かべた。 「ごめん、そんな話聞きたくないよな」  そんな風に無理に笑うなよ。辛いのは啓じゃないか。我慢なんてするなよ。辛いだろ?悔しいだろ?全部吐き出してくれよ。  言葉は心の中でぐるぐると渦巻くのに、何一つ出てこなくて、俺はただ首をふるふると振る事しか出来なかった。 「ありがと。慎二が怒ってくれて……嬉しいよ」  先程の無理やり笑った顔から、少しほっとした様な顔になった啓を見て、俺も少しほっとした。 「いつかは俺もヒートが来て、どっかのαに項を咬まれて番になるって考えたら、怖くなった……」 「で、でも……Ωはそうやってαと番になって一生幸せに暮らせるんじゃないのか?」 「それがやなんだよ。αと番になったからって、そこに俺の気持ちがないなら…俺は全然幸せじゃない……」 「啓……」 「そんなのはただの支配だ」  支配、なのだろうか。  αとΩは結ばれたら幸せになるんじゃないのか?学校でも啓の両親にもそう聞いた。うちの親は二人ともβだから、そういう話は啓の両親、αのおじさんとΩのおばさんに教えてもらった。 「それでも……番になったらおじさんとおばさんみたいにお互いがお互いの事を愛するんじゃないのか?そしたらそれは幸せなんじゃないのか?」  俺の知ってる知識は番になればお互いの事しか見えなくなって、相手を大事にするという事位だ。番という運命の話なんて俺には関わる事が出来ないし、関われない事だから知識としてしかわからない。  そんな取って付けた様な俺の言葉に啓一郎はキッと睨んだ。 「それじゃ何?俺が外でたまたまヒートが来て、たまたま近くにαがいて本能が止められないからって気持ちそっちのけで襲われてヤりまくって、そのまま項を咬まれて番になったとしても慎二は俺が幸せだって言える訳?」 「それ、は……」  捲し立てる様に言われた話に俺は言葉を詰まらせてしまった。  そんなのは違うと思う。啓が襲われるところなんて想像したくない。啓が苦しむのを見るのは嫌だ。  それは違うと、おかしいとわかっているけど、俺にはαとΩの本能で動くという事が言葉としてしか理解出来ない。βにはαみたいな項を咬みたいと言う欲はないし、Ωの香りに狂わされる事もない。  世の中のαとΩの「運命」というヤツが俺には実感が湧かないしわからない。 「慎二……それじゃ祐介がそうなったとしたらどう?」 「何で……祐介?」 「だって慎二祐介の事好きじゃん」  俺がずっと隠していた想いを啓は事も無げに言った。啓一郎が知っていたという事実に俺は驚いて何も答えられなかった。  それでも何処かで啓にはお見通しなのだろうと思っていたのか動揺する程ではなかった。さっきの祐介はもしかしたら今の俺と同じ気持ちだったのかな、なんてぼんやりと想像した。 「慎二はさ、αとかβとか関係なく祐介の事が好きなんでしょ?」 「……うん」 「俺だって…そんなの関係なくずっと慎二の事が好きだった…」  そう言うと啓はまた膝に顔を埋めてしまった。 「俺は……慎二の事が好きなこの気持ちを、その辺のαの奴に捩じ伏せられたくなんかない」 「啓……」 「それでもこのままじゃ俺はいつか、どっかのαに俺の気持ちなんて関係なく、勝手に項を咬まれてしまうんだ」 「そんな事は……」 「襲われた時にわかった。俺にはαに抵抗出来る力なんてないし、まだヒートだって来てないのに俺の匂いはαを近寄らせるらしいし。……それじゃヒートが来たらもうダメじゃん。俺、もう終わりじゃん……」  啓が苦しそうに話すので、顔に手を添えこちらに向かせると、堪えられない涙が次から次へと溢れていた。俺はただ指でその涙を拭う事しか出来なくて、啓はそれを大人しく受け入れていた。 「だから、その前に俺は……あ…っ!?」  大人しくしていた啓が急に全身をびくりと震わせた。 「啓!?」 「あ、あっ……何か、く……っ」  啓の息が苦しそうにはっはっと浅くなり、力が入らないのかベッドの上に身体が崩れ落ちた。 「おいっ、啓!どうした!?大丈夫かっ!?」 「んぁっ!」  慌てて俺が啓の肩を掴んで起こそうとした瞬間、啓は背中を仰け反らせ、そのまままたベッドに倒れこんてしまった。啓の身体は少し震えている様に見える。  そういえば今の啓の感じはクラスのΩの男子が話していたアレに似ている……。  もしかしてこれは……ヒート? 「啓……もしかして」 「う、ん…来たみた、い……」  うつ伏せのままこちらに顔を向けた啓は苦しいだろうに無理に俺に微笑んだ。 「ご、ごめ、慎…二……。俺、の事…気にしな……で。も、かえ……って」 「啓……」 「い…から、だい……じょぶ…だ、か……ら」  どう見たって大丈夫そうには見えない。今朝迄明るく俺に『一生のお願い』とか言ってた癖に。今の啓は苦しくて辛そうで。それこそここで『一生のお願い』なんじゃないのか?  いや、俺はずっと啓のお願いを拒絶してたし、啓は俺が祐介を好きな事を知っている。だから啓が言う事は当たり前の事だし、俺はこの部屋を出るべきだ。  そう思うのに、俺の身体は苦しんでいる啓を見捨ててこの部屋を出るなんて事が出来ずに、啓を掴んだ肩を離せなかった。  啓は動かない俺を見て、苦しい癖に困った様に小さく笑った。 「あ、そか…慎二、やさし、ねぇ……も、おねが、なん、て……冗談だ…ら、はや…く、かえ、って?」 「啓」 「い、から……出て…て」  啓の呼吸は更に浅くなり息も絶え絶えだ。全身熱くなってきているのか、顔も手も足も、肌の見える部分はほんのりと赤みが差して来ていた。  俺はただのβなのに、啓の肌から何か甘い香りがふわりと俺を包んできた気がした。  甘い激しい劣情を無理やり押さえ込もうと苦しんでる啓を見て、身体の奥からざわざわと何かが這い上がる感覚に襲われる。初めての感覚にぶるっと身体が震えた。  俺はβなのに啓のヒートに充てられてしまったのだろうか。  困惑している俺の側には苦しんでいる啓がいる。啓を助けたい。啓の苦しさを何とかしてあげたい。  俺が啓を助ける事によってその苦しさが無くなるなら何とかしてあげたい。  他の誰でもない、俺が啓を救いたい。 「啓……俺さ、祐介の事が好きなんだ」 「んあっ!」 「だけど、啓の事は本当に大事で、代わりなんていない、大事な、本当に大事で大切な幼なじみなんだ……」 「あ、あっ……やめ、やめて……さわ、ちゃ…ダメ……っ、ぅんっ!」  俺は言葉を紡ぎ出しながら、啓の肩を掴んでいた手をゆっくりと撫でる様に腕から手へと下ろしていく。そのまま啓の両手に自分の手を重ねると啓を包む様な体勢になった。  熱くなっている啓の身体は、普段なら気にもならない俺の手の動きにすら敏感に反応していた。 「あ、あっあぁっ……」 「啓は俺にとって特別だ。啓が苦しいの は俺も苦しい……啓がいなくなるなんて俺が辛い……俺でいいなら啓の辛さを軽くしてあげたい……。俺が……」 「……しん、じ?」 「啓の一生のお願いを叶えたい……」 「しん……」 「ダメか?」  啓が苦しさを堪える様にシーツを掴んでいる手に、俺の指を絡めた。啓はそれにもびくびくと反応をする。  俺が啓の後ろから顔を覗きこんで答えを待っていると、啓は顔をくしゃりとさせ、困った様に、それでも口元を綻ばせた。 「し…じは、ずる……い、ね……」 「俺はいつもズルいよ。啓にいつも甘えてる」 「ん……」 「啓も俺に甘えろよ」 「……ほん……に、い、いの?」 「いいよ。啓なら」 「うれ、し……」  真っ赤になった顔で苦しい筈なのに、それでも本当に嬉しそうに啓が微笑んだから。何だか俺もそれがとても嬉しくなって同じ様に啓に笑顔を向けた。  それから俺を見て嬉しそうな顔をしている啓の唇に自分のそれを重ねた。  あれからもう二年。  俺は一人になった。  啓は初めてのヒートが終わるとすぐに隣の家から消えてしまった。あっけなかった。  結局、啓の口から学校を辞める理由すら聞けなかった。  おじさんもおばさんも啓の居場所は頑なに教えてはくれない。なのに啓一郎の想いに応えてくれてありがとうと泣かれた。  俺の方が泣きたかった。  祐介との関係は最悪になった。  当たり前だ。αの祐介には、俺が啓とそういう事になったのが何も言わなくたってαの力とやらでわかるんだから。それがαなんだ。βの俺とは根本的に何かが違う。  祐介は今まで見た事もないあからさまな嫌悪を帯びた、突き刺す様な冷たい視線を俺に向けた。  ああ、これがきっと啓が怖がっていたαの本能なのかもしれないとぼんやり思った。  俺はそのまま祐介に何度も殴られた。  この時はただ、俺はやっぱり啓のおまけだったんだと再認識をしただけで。祐介への想いは拳が腹にめり込んだ瞬間に何処かに行ってしまった。  一瞬息が詰まり呼吸も出来なくなった。まともな呼吸をする間もなく見えないところに次々と祐介の拳が飛んでくる。俺は何も出来ずにただそれを受け止めた。  涙なんてもう出やしない。  それから毎日、祐介を始め、啓に告白していたと言われていた奴等の体のいいサンドバッグと化した。  流石にここまできたら祐介の優しさは、啓というΩがいたからというだけの作り物だったと理解した。祐介はもう俺が友達だなんて思ってもいない。いや、元々そんな事は思っていなかったんだろう。  それでも俺は毎日学校に行った。啓が学校が好きだったから。  気付けば学校での思い出もそれ以外での思い出も、全部に啓に繋がっていたんだと知った。  通学路を、街中を歩けば啓との記憶が思い出されて少しだけ嬉しかったし、その分とても寂しくなった。  それでも啓を感じる事が出来る気がするのがやっぱり嬉しくて、重い身体を引摺りながら学校へ通った。通えば通う程に俺の身体は重く、動かなくなっていった。  サンドバッグな日々は絶えなかった。クラスメイトも他の生徒も先生でさえ俺の事を汚物扱いし、事あるごとに俺は誰かのサンドバッグになっていた。  学校に俺の居場所は無くなり、毎日ボロボロになって帰ってくる俺を見て、とうとう親に学校を辞めさせられてしまった。  もう俺は家から出る事もなくなった。  俺の家で、俺の部屋なのにそこかしこに啓を感じる事が出来たから。  こんなに啓は俺の側にいてくれたんだ。  それが嬉しくて、今いない事が悲しくて。  あの時。  時間の感覚もわからなくなる程に啓と俺は交わった。  啓に請われるまま、俺が啓に請うままに何度も何度も欲望をぶつけあった。  俺はαではないからΩの香りなんてわからない。だけど、いつも当たり前の様に側にいて感じていた啓の匂いが、その時ばかりはいつもより優しく甘く感じられて、俺が啓の苦しみを取り除ける事に喜びを感じて、それがとても嬉しかったし幸せだと思った。  俺の事を感じながら快楽に溶けていく啓がとても愛おしく思えた。  始めは啓が辛くない様に、ヒートの苦しさから解放される様にと思いながら抱いていたのに、いつの間にか自分の欲望の全てを啓に向け、快楽だけを求める激しいものになっていた。  でも啓はそれがとても嬉しいと、俺と繋がる事が嬉しいと泣いていたから。啓の言葉がとても嬉しくて、俺の理性がトンでしまった。  俺と繋がり快楽に溺れる啓に、項を咬んでと請われ言われるままに皮膚が破れる程激しく咬んだ。ヒートの熱でほんのり赤くなっていた首筋には俺の歯形の血が滲んだ。その血を舌で舐め取ると、啓は嬉しいありがとうとまた泣いてしまった。  泣かないで。苦しまないで。俺は啓の涙も舌で掬い取った。  啓には笑顔でいて欲しい。苦しみなんて持たないで欲しい。啓がΩと言う事でそんなに苦しんでいるなんて知らなかった。  俺に出来る事は何だってしてあげたい。啓は本当に大事な唯一の幼なじみなんだ。チビの頃からずっと側に啓がいて俺を大事にしてくれたから、俺が俺でいられたのに。  いつも側にいた啓。俺の隣でいつも笑っていた啓。俺の事が好きだと言っていた啓。俺に抱かれて快楽に溺れる啓。  どの啓ももういない。  会いたい。
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