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-啓一郎の場合・1-
小さい頃から慎二だけだったんだ。
αとΩの運命なんて関係ない。
心の底からいとおしいのは過去も未来も慎二だけ。
初めてヒートが来た時に、俺は慎二の優しさに付け込んで、最後まで離さなかった。離す事が出来なかった。
本当はヒートが来る前にお前の前から消えようと思っていたのに。その瞬間に側にお前がいてくれたのがどんなに幸せな事だったか。俺を抱いてくれた事がどれだけ夢の様だったか。
まるで騙し討ちの様だったけれど、あの時だけはお前が俺だけのものだったんだ。俺がお前だけのものになれたあの数日間は俺の中の宝物だ。これだけは誰にも奪われない。
父さんも母さんも俺が慎二の事が好きだという事を知っていて、俺の我が儘を容認してくれた事には感謝しかない。
母さんは俺と同じΩで、αの父さんとは学生結婚だったと聞いた。
慎二の両親、慎太郎さんと春海さんはβで、俺の両親とは学生の頃からずっと仲が良く、家も隣同士に買う程だったと聞いた。
だから俺達は産まれた頃からずっと一緒で、未来永劫そのままだと思っていたんだ。
中学に入学早々嫌なαに目を付けられた。
常に作り笑顔のα。わざとらしく慎二を使って俺を絡め取ろうとする姑息な男。
嘘臭い行動が本当に鬱陶しくて吐きそうだ。
時折見せる、あれの絡む様な舐める様な視線が気持ち悪かった。
まるで蛇だ。
じわじわと獲物を狙い定めて追い詰める嫌な蛇。
初めて会った時から印象は最悪だった。
俺の叔父さんが保険医をしていたから、それが俺の教室に来るのはわかっていた。
慎二が先生に頼まれて社会科準備室に資料を届けに行っていた。
中々戻ってこないあいつはお人好しだから、また何か頼まれ事でもされてんのかな、なんて思いながら俺は教室で待っていた。そんな事を考えていた時に俺のスマートフォンにメッセージが入った。
『慎二君が捻挫して、今保健室にいるよ。今から啓にそれを伝えに行くαの子には気を付けて』
そんなメッセージを貰って訝しく思っていた所に、あの蛇の様な視線を持つ男が来た。
「さっき西通路の階段で、君の友達の越ヶ谷が捻挫をしたらしくて保健室で休んでいるんだ。それを君に伝えてくれって言われてね」
プライドだけは高そうで神経質そうなαの男。
毎日父さんを見て、学校では叔父さんを見て。
どちらも上位で極上な最高品質のαなんだから、メッキのαなんてすぐに見破れる。
殆んど相手にもせず、すぐに叔父さんにメッセージを送った。
『中身が最低なαが来たよ』
叔父さんによると、これから慎二は病院に行かなければいけないらしい。授業が終わると同時に俺は走って保健室に向かった。
「おっ、叔父さん!慎二はっ!?」
「こらこら、啓。学校では先生だよね?」
くすくすと笑いながら叔父さんが俺の頭を軽く叩く。
「あっ、ごめん」
「啓、走って来たのか?」
慎二は俺と叔父さん…じゃない、先生のやり取りを見て呆れながら笑っていた。笑えるならば痛みも大した事ではないのかもしれない。良かった。
「だっ、だって慎二がっ、保健室なんて、滅多に、ないから」
思いっきり走ってきたので息も絶え絶えになってしまった。
それに気付いた慎二はまた笑った。
「ありがとう啓。取り敢えずここ座ったら?」
俺は言われるまま慎二がいるベッドへと腰掛けた。
「なぁ啓、お前汗だくなんだけど」
「う、るさいなっ!走ったんだし仕方がないだろっ」
笑う事を隠しもしない慎二には少し腹も立つけど、側にいられる幸福感の方が勝ってしまう。
これが惚れた弱味ってやつなのかもしれない。
「汗拭いてやるよ、こっち来て」
慎二は俺を自分の足の間に移動させて、襟元の汗を自分のハンカチで拭き始めた。
これが他の奴なら近付くのも嫌だけど、慎二ならば安心出来る。寧ろもっと触れて欲しい……なんて、本人には言えないけど。
ふと、顔を上げると叔父さんが訳知り顔でニヤニヤと俺達を見ていた。どーせ、叔父さんには俺の気持ちなんてお見通しなんだよな。何かムカつく。俺は負けじと睨み返した。
「なぁ啓。この首輪のとこさぁ、汗拭かないとかぶれるんじゃね?」
俺と叔父さんの無言の攻防なんて気付きもしない慎二は、マイペースに俺の汗を拭き続けていたらしい。
何かそれに気が抜けてしまってつい笑ってしまった。
「慎二、それ『首輪』じゃなくて『ネイプガード』って言うんだけど?」
「いーじゃん。首に付ける輪っかなんだし」
ま、その通りだからいいんだけどさ。
それよりもかぶれちゃうのは辛いなぁ。
「でもそれさ、ロック掛かってるから俺じゃ開けらんないんだよ……かぶれちゃうかなぁ」
「お前肌弱いもんな……取り敢えず周りは拭いたけど」
「ありがとう」
αの理不尽な行動から身を守るネイプガードは、俺が持っている鍵とロックナンバーの二重構造だ。俺のこのナンバーは危険だからと両親が管理していて、俺ですら知らなかった。
「俺なら開けられるぞ?」
「えっ!?」
ニヤニヤしたまま叔父さんは、何故かスペアキーをチャリチャリと手元で遊ばせていた。
「なっなんで!?」
「兄さんからいざと言う時の為に頼まれてんのさ」
楽しそうにそんな事を言う叔父さんに、俺はあからさまにため息を吐いた。
父さんは叔父さんの事を本当に信頼しているからなぁ。でもだからってその事を本人が全く知らないってどうなんだ。
「じゃあ慎二君、ちゃんとこれの外し方とロックナンバー覚えてね?」
「叔父さん!?」
「煩い啓。大人しく座ってろ」
何故か急に叔父さんは、慎二に俺のネイプガードの外し方を教え始め、指導を受けながら慎二は一生懸命それを外しに掛かっていた。
俺すら知らないナンバーを慎二が叔父さんに教わりながら俺のネイプガードを外している。
慎二にそれを外してもらっている事に嬉しくてぞくりとした。家族以外で慎二だけ。慎二だけが俺を解放出来るんだ。
最後のロックが外れ、カチリと音がして俺の首が解放された。後ろからふぅ、と息を漏らす気配を感じた。
「これ、結構大変なんだなー」
「そうだよ。大変なんだから啓の事はちゃんと慎二君が管理してね?」
「はい。わかりました」
素直な返事をする慎二に叔父さんはにこにこと頷いて、頼んだよなんて言っている。
ちょっと慎二……真剣に返事をしてるけど、叔父さんの言ってる言葉の意味わかってる?
俺のネイプガードを管理するって事はその……俺の、ごにょごにょした色んな事を管理するって事なんだよ?
わかって欲しい様なわかって欲しくないような……複雑な気持ちに赤面してしまう。
「ちょっと慎二、汗拭いてくれるんじゃないのか?」
「あっ、そーだった」
慎二に顔が見られないのをいい事に、何でもない様に催促をすると、慎二は慌てて持っていた鍵をハンカチに持ち代えた。
「ふっ…ん!」
ただ慎二に項の汗を拭いてもらってるだけなのに、ハンカチ越しに慎二の手が触れているだけなのに。
どうしよう、何だかぞわぞわする。ただ慎二が俺の項に触れていると思うだけでぞくぞくとしたものが背筋を駆け抜けた。
「あ、何か痛くしちゃったか?」
そんな事などわからない慎二はハンカチを離して、項に傷が出来ていないか直接指で確認し始めた。
「いや……ちょっ!だ、だいじょぶ、だからっ」
その指が触れたところから、ぞくぞくした感覚を越えて俺の何かがぐずぐずに溶けてしまう様な感覚に囚われる。何だこれっ……!ヤバいっ!
「どこが大丈夫?お前何か辛そうだよ?」
「そ……じゃ、なく、てっ!」
バカっ!慎二の指に感じちゃっておかしくなりそう、なんて言える訳がないじゃないか!
「はいはい、啓?俺がいる事わかってる?」
パンパンと手を叩く音にハッとした。
「慎二君?啓は大丈夫だからその首輪、急いで付けてくれるかな」
「えっ?あ、はい」
慎二は言われるままに少し急いで俺のネイプガードを首に戻しロックをかけ始めた。
助かった。詰めていた息をほぅっと吐く。
「啓、お前喜び過ぎ」
叔父さんはにやにやと俺だけに聞こえる様に囁いてきた。
「ちょっ、叔父さ……!」
「しかし、マズいな……」
叔父さんは急に真剣な顔になり、俺の事をじっと見詰めた。
「お前フェロモン撒き散らし過ぎ。充満してんぞ」
耳元で囁いた叔父さんの言葉に、サッと血の気が引いた。
「やっぱりお前、家以外ではそのネイプガード取るんじゃねぇぞ」
俺はまだまだヒートが来る年齢ではないけれど、小さい頃からフェロモン過多症で両親や叔父さんには迷惑をかけていた。
父さんは昔、Ωである母さんの為に会社を作った。新薬抑制剤やそれこそネイプガードなんて、母さんの為に父さんが作った製品だ。
普通のΩはαと番になればフェロモンでαを集めるヒートという症状から、番のαだけにしか反応しなくなる発情期という症状に変化する。
だけど母さんは父さんと番になっても発情期にはヒート程ではないけれどフェロモンが漏れてしまう体質だった。
俺の付けているネイプガードは父さんが自分で研究して咬接防止だけでなくフェロモン抑制という効果を盛り込んだ特別製。
番のいない俺のフェロモンは強すぎて常時ヒートに似た様な香りを撒き散らしてしまうらしい。
このネイプガードは項を守る為だけでなく、俺のフェロモンを抑える効果があるそうだ。
それでも微量ながら俺からはフェロモンっぽい香りが漏れてしまうので、常に慎二か叔父さんの側にいろと父さんが口を酸っぱくして言ってくる。
言われなくても俺は慎二の側にしか居たくない。
「出来た!」
どうやら慎二はちゃんと俺の首輪を付ける事が出来たらしい。
「慎二、本当にちゃんと出来た?」
「大丈夫だよ。ちゃんと悟叔父さんに言われた通りやったし」
「二人とも、俺先生だからね?わかってる?」
そう言いながら叔父さんが棚に常備してあるΩ用の消臭剤を用意し始めたところで、急に保健室のドアが開いた。
「てめぇ!今こいつに何してたっ!?」
急に入ってきたさっきの蛇の様な男は、ネイプガードの鍵の確認をしていた慎二の手を俺の項から思い切り叩き落とした。
俺も慎二も何が起こったのかわからず全く動けない。
そいつはその勢いで慎二の襟首を掴み、そのまま殴ろうと拳を振り上げた。
「『何してる』は君の方だよね?」
それを止めたのは叔父さんの腕だった。
ギリギリと締め上げられてその男の顔が歪む。そこに俺はその男の本性を見た気がした。
体よくそいつを追い払った叔父さんは、くるりと俺達の方に向き直る。
「啓、あれには本当に気を付けろよ」
「……うん」
あれは洒落にならない。気持ち悪い、おぞましい気配を持っている。
匂いだってそうだ。あれ自身、とてもドロッとした嫌な匂いなのに、そこに何故か苦しそうなΩの香りが微かにこびりついている。何故かは知りたくもない。ただそれらの匂いが相まって気持ち悪さを倍増させていた。
あんなのに関わりたくない。
俺は真摯にその言葉を受け止めた。
「慎二君も。あのαの子には注意しなきゃダメだぞ?」
「でも、木場はβの俺を助けてくれたよ?今だってきっと俺が啓に何かしてると勘違いしただけじゃないかな」
慎二は最初の出会いでまんまと誑かされている。
「いや、でもね?」
「大丈夫だよ悟おじさん」
慎二は先程の事など無かったかの様に自信満々に答えた。
俺と叔父さんは深いため息を吐いた。
慎二は変なところで強情だ。こうと思い込んだらとことん突き進む癖は何とかならないのかな。
「……んじゃ、啓が二人分注意して」
叔父さんも慎二の性格を把握しているので、さっさと諦めて俺に丸投げしてしまった。
「……わかったよ」
それからあの気持ち悪いαの男は慎二と俺に纏わり付いてきた。
俺が常に素っ気ない態度で接していると「木場が気にしていた」と、とても心配そうな顔をして慎二が言うものだから。
俺には慎二に「騙されているぞ」なんて言えない。言っても聞かないし、それによってあのαが慎二に何かしてしまいそうだったから。仕方なく少しだけ、聞かれた事位は答えようと努力した。
慎二はあれを優しいいい男だといつも褒める。
嘘臭い行動も慎二にかかると優しい爽やかなαと認識されてしまう。
どんだけ純粋なんだよ。
お前さ、俺がいなくなってもちゃんと生きていける?
お前の事は俺が守ってやらなきゃいけない。
あの男は慎二が側にいない隙を狙って、俺との距離を縮めようとする。
あいつが俺を啓一郎と呼ぶ事さえ気持ち悪いのに、「俺も『敬』って呼んでいい?」とか言いやがる。
ふざけんな!慎二の為に無理に一緒にいるだけなのに、何でお前にそんな呼ばれ方をされなきゃいけない!?慎二と身内以外には絶対呼んで欲しくない!
「絶対に嫌だ」
適当な理由を付けて断った。
高校に上がり、あの男の纏わり付き方が酷くなってきた。
「俺、これから啓一郎の事毎朝迎えに行くよ」
最悪だった。気持ち悪い。
「俺、慎二と一緒に来るから無理。止めて」
慎二を朝起こしに行くのは小学生の頃からの俺の日課で、時々は春海さんの美味しい朝御飯を食べたりもする。
そこに慎二が起きてきたら一緒に朝御飯を食べて、二人で通学する。俺はこの時間が好きだった。こんな当たり前の大事な日常をお前なんかに奪われたくない。
「慎二ー、啓ちゃーん?お友達がお迎えに来たわよー」
気持ち悪い提案を断って数日後、あいつは慎二を誘うという事にしたらしい。魂胆が見え見えで虫酸が走った。
あんな奴のせいで俺の朝の大切な時間が奪われてしまった。
せめて帰り道だけは。そこだけは譲らなかった。
学校へ行けば、俺は毎日呼び出しをくらう。
高校に上がってからその頻度は増えていた。父さんや叔父さんにはフェロモンが増えて来ているから気を付けて。絶対に一人にはならないでと何度も念を押された。
貴重な昼休みを潰される。αに、時には何故かβ迄、俺が運命だと軽々しく言ってのけ、俺を支配しようとする奴等に辟易してしまう。
「沢良木君、俺と君は運命だと思うんだ。付き合ってくれるよね?」
おかしくね?運命なら、俺、あんたの事名前位は確認すると思うよ?ちょっと俺の匂いに気付けるからといってそれが運命だったら、フェロモン過多症のΩは皆あんたの運命だから。
「運命じゃありません。ごめんなさい」
もう何度この言葉を言っただろう。
ただでさえ、慎二との時間を減らされているのだ。俺は昼休み以外告白は受け付けず、放課後は父さんと叔父さんの言葉を盾にべったりと慎二にくっついていた。
ある日。
休み時間にトイレに行った帰り、急に伸びてきた腕に掴まれ、そのまま空き教室に連れ込まれた。
「沢良木啓一郎、だっけ?お前すげー匂い出してんな」
多分上級生だと思われる男が俺の腕を掴んだままにやにやしながら近付いて来る。俺は後退りながら逃げようと後ろを確認したが、そのまま壁に行き当たってしまった。
ヤバい!この男はαだ。この状況は危険だ。逃げなきゃいけない!
でも焦って振りほどこうともがいても相手の力が強すぎてびくともしない。
「ちょっと……止めてもらえませんか」
もがけばもがく程、この男は俺を自分の側に引き込み、いつの間にか俺は、この知らない男の腕の中にすっぽりと収まってしまった。腕は相変わらずがっちりと拘束されていて逃げる事は敵わない。
「お前色んな奴を振ってるんだって?そんなにフェロモン撒き散らしてごめんなさいはねーよなー?」
「はなっ……せっ!」
「そりゃー無理だ」
俺の抵抗などさして気にもされず、男は俺の足の間に自身の足を無理矢理割り込ませて来た。そいつはそのまま硬くなっている物をを俺の中心にぐりぐりと擦りつけてくる。
嫌だ!気持ち悪い!怖い!
しかし力の差は歴然で、俺はころりと床に転がされ組み敷かれてしまった。
俺は動けないながらも必死にもがき、その男を睨み付けた。
「必死になっちゃって、かーわいー」
そう言いながら男は俺のベルトを外し下着の中に手を突っ込み、直接俺の中心にその手を伸ばして来た。男の象徴には軽く触れるだけだった。その手はそのまま、Ωの象徴でもある、ヒートの時に活性化する小さな蕾に行き着いた。
嫌だっ!止めろっ!触るなっ!
「ん?あれ?」
おの男は執拗にそこに手を這わし、指で弄る。
俺はその感触がとても気持ち悪いのに動けなくて、ぎゅっと目を閉じてその未知の感触に息を詰めた。
……やだ、怖い。やめて。許して。
「……何だお前、ヒートじゃねぇのか」
チッとその男は舌打ちをして立ち上がった。
「折角すぐヤりまくれると思ったのに……ヒートじゃねぇんじゃ面倒臭いだけじゃねーか」
急変した男の態度に俺が呆然としていると
「使えねー」
男はそのまま教室から出ていってしまった。
助かった……のか?
……ああ、そうだ、制服の乱れを直さなきゃ。
シャツの裾をちゃんと入れて、ファスナーを上げて、ベルトを締めて……。
回らない頭で、今やる事を確認して、その通りに行動したいのに。
手が震えて、身体の芯から冷たくなって。
俺の手は、身体は全く使い物にならなかった。
兎に角ここには居たくない。もう次の授業も始まっているだろう。俺はもう制服を直すのを諦めてその場から逃げる様に近くのトイレに駆け込んだ。
俺はそこで暫く自分の震える身体を抱え込んで、声を出さずに泣いた。
時間が経っても震えは収まらず、俺は学校を早退してしまった。
いつもとは違う時間に家に帰ると、一瞬泣きそうになった母さんが俺を抱き締めてきた。
「……辛かったね、啓」
母さんは何も言わないけれど俺のいつもと違う香りにきっと気付いている。俺や母さんは何故かフェロモン過多症だけれど、相手の香りにも人の何倍も敏感だった。
「……ぅん、うん……怖かった……怖かった!」
母さんの優しい香りに安心して、頭を撫でる優しい手の温もりにも安心して俺はまた泣いた。
父さんは帰って来たと思ったら急に階段を駆け上がり、その勢いで俺の部屋に飛び込んできた。
「大丈夫か!?」
父さんは上位ランクのαで、心身共に完璧なαだ。今のΩの研究がなかったら、きっと父さんはもっと本領を発揮出来るのかもしれない。
上位のαでもある父さんには俺に何かあった事など容易に気付いてしまうんだ。
だから今こうやって優しく俺を包み込んでくれる。
「啓、父さんも母さんもお前が辛い目に遭うのは嫌なんだ」
「……うん」
「隣の県に俺の会社とは別に、俺個人の研究施設があるのは知ってるな?」
「うん」
「学校に行くのが嫌なら、家族でそっちに引っ越して新しい生活をするのもひとつの手だ」
「……うん」
「ここにいるのが辛くなったら、そういう逃げ場もあるんだって事を知っておいてくれ」
「……ありがとう」
父さんはそれだけ言って俺をぎゅっと抱き締めてくれた。
今日、初めて世間のαが怖いと思った。
俺みたいな力のないΩは易々と理不尽に蹂躙されてしまう事を知った。あの圧倒的な力の差はどうしようもなくて。
怖かった。気持ち悪かった。恐ろしかった。
「啓、大丈夫か」
「うん、大丈夫」
嘘でもそう言わないと自分が崩れてしまいそうだ。
「……慎二君がうちに来るぞ」
「……え?」
「会えるか?」
何の事かわからずに首を傾げると一階が少し騒がしくなった。
母さんに俺の事を聞く慎二の声がする。あの声色は心配している時のものだ。それからバタバタと階段を駆け上がる音。
なんて優しい日常だろう。
「……俺は下に行くからな」
父さんは俺から離れドアを開ける。
すると、今からドアを開けようとしたポーズのまま、驚いて固まってしまった慎二がそこにいた。
「え、あ。おじさん?……おかえりなさい」
「うん。ただいま慎二君」
何だか間抜けなやり取りで、見ていたら可笑しくなってしまった。
「ゆっくりしていきなさい」
父さんは慎二の頭を軽く撫でて、そのまま部屋を出ていった。
「大丈夫か?急に早退したからびっくりした」
「……うん、ごめん」
「謝んなくていいから。今度から先に帰る時は俺にも一言言ってくれよ」
「ごめん」
「だーかーらー、謝んなって!」
こんな普段のやり取りすら、なんて掛け替えのない素晴らしい事だったのか。
俺が慎二の事を守っている様に、慎二も俺を守ってくれているんだ。
それが嬉しくて、幸せで。
俺は慎二をベッドに座らせてぎゅっと抱き締めた。
「どした?ん?」
俺が何も言わないので、慎二は俺が落ち着く迄、ただそっと抱き締め返してくれた。
父さんの研究所に行く、という逃げ道を選ぶという事は、俺はこの掛け替えのない日常を切り捨てなければいけない。
今はまだ、この優しい日常を捨てたくない。慎二の側にいたかった。
それでもぼんやりと、いつかそうなってしまうだろうという予感めいた思いはあって。
そうなった時に、慎二に少しでも覚えていて欲しくて、あわよくば俺の想いが鈍い慎二に少しでも伝わったらいいな、なんて思って、次の日から俺は慎二に『ヒートが来たら相手をしてくれ』なんて叶うわけもない俺の想いを、軽く茶化しながら言い始めた。
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