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文人は再び原稿用紙に目を落とす。少し前に書いた“赤らむ乙女の柔らかな唇にキスをした。”という一文に、真っ赤になる。
「現の恋とは難しい……」
文人は小声で言うと、原稿用紙に筆を走らせた。
あれから文人に声をかける者はおらず、彼はずっと執筆を続けた。
空が薄暗くなる頃、誰かが文人の肩を叩く。驚いて顔を上げると、うんざりしたような顔の陽介がいた。
「閉店だよ、先生」
「もうそんな時間か……」
文人は窓の外を見て、髪で隠れた目を見開く。
「ほら、お会計済ませて外に行きな。エミちゃんもそろそろ出てくるだろうから」
「あい分かった」
文人は原稿用紙をまとめると、会計を済ませて外に出た。
恵美子はすぐに出てきて、彼に気づくと小走りした。
「あら、文人さん。待っててくれたのね」
仕事が終わり、敬語が取れた恵美子に、文人は頬が緩みそうになるのを堪える。
「マスターがすぐに恵美子も来ると言っていたのでな。どれ、少し歩こうか」
文人は空いている手を差し出した。
「えぇ」
恵美子が文人の手を取って恋人繋ぎをすると、文人は微かに頬を染める。
(手を繋いだだけでこうも胸がいっぱいになるというのに、く、口吸いなど……)
陽介の言葉を思い出し、更に紅潮する。
「文人さん? 顔が赤いけど、風邪でもひいたかしら?」
「あ、いや……。そんなことは無い」
文人はイシシと笑ってみせた。
それからふたりは他愛のない話をして歩くのだが、文人は恵美子がキスをしないことで悩んでいるのかと悩み、上の空。
文人の家に着くと、彼はひとり決心した。
(今日は恵美子のためにも、自分のためにも口吸いをする……!)
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