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おろしそば親子丼セット
今日もボロ雑巾のようになるまでこきつかわれ、くたくたに疲れきった身体を引き摺りながら深夜3時の住宅街を行く。
近藤昌文四十二才。
某家具メーカーに務め始めて早二十年、未だ平社員である。
バツイチで、小学三年生の娘を溺愛しているが、最近の悩みは「娘に嫌われていること」という、いたって普通の、どこにでもいるような、つまりはただのオジサンである。
いつものように夜遅く帰宅したある日、激しい痛みとともに視界が緑色に染まった。
顔面に離婚届けを叩き付けられたのだ。
次の日、妻は娘を連れて実家へ帰った。
何が悪かったんだろう。
疲れてるから明日にしてくれって言ったことか?靴下をそこら辺にほっぽりだしておいたことか?それとも、食器を水に浸けなかったこと?
素直ゆえに自分の悪い点は浮かんでくるが、分かっていながら直さないのがより悪いということには思い至らないようで。
今日も今日とて、買ってしまった二階建て注文住宅のローンに頭を痛めながら、暗く冷たい場所へ帰っていくのだ。
最近では空腹を感じないこともままある彼は、朝は食パン一枚、昼は栄養ゼリーとスティックタイプの栄養補助食品、夜はレトルトかカップ麺、コンビニ弁当で済ませることが多かった。
そのせいなのか、まあ年のせいもあるのだろうが、前より明らかに疲れが抜けにくくなっていることを自覚していた。
(風呂ー...は、朝でいいか)
草臥れたスーツに、乱れた頭髪。
幸いなことに、髪が薄くなる気配は今のところ窺えていない。
ずるり、ずるり、こつ、こつ。
ずるり、こつ。
ずっ、ずっ。
完璧にゾンビである。
今どきB級ゾンビ映画のゾンビですら、ここまでゾンビらしいゾンビの動きはしないだろう。最近のゾンビは動きが素早いのがトレンドらしいと、男はネットニュースで読んだ記憶がある。
「はぁ......。」
元嫁の教育の賜物か、娘は日に日に自分を嫌っていく。しかも、あからさまに嫌うのではなく、少し避けられる(具体的には、隣の席に座らなくなる、食べ物や飲み物の共有をしなくなるなど)のが更に心にくる。
(もう、生きている意味なんてあるのか)
真面目に働いても給料は上がらないし、生き甲斐だった家族は離れていった。おまけにお気に入りのマンガは四年経っても最終巻が出ない。
「はぁーーー......。」
力が抜けてしまった体は、重力に逆らわずそのまま冷たいコンクリートにへたりこんだ。
「大丈夫ですか!?」
「うおぬんっ!?」
後ろから唐突な大声と共に激しく肩を揺さぶられた。驚いて、変な声が変なところから出る。
「だ、大丈夫です。すみません、こんなところで座ってしまって......。」
「大丈夫なら良かったです。すみません、大声出しちゃって......。」
顔を上げると、声の主と目があった。
腰までの長さがある緑色のエプロンを付けた彼女は、耳の下辺りで弛くひとつに黒髪をまとめていた。へへへ、と目尻を緩めるのにつられて、何故か自分も笑ってしまう。
だがしかし、オジサンはオジサンなので、絶妙に気持ち悪い笑い声がオプションで付いてしまった。辛い。
「あの、お仕事、今終わったんですか?」
「え、えぇ...、まあ、はい。」
そう言いながら、手を差し出してくるので、目をキョロキョロさせて、自分の手と彼女の手を何度も見比べてしまう。
変な声を出す上に挙動不審なオジサンの爆誕である。
「お腹、空いてないですか?」
あぁ、分かった。
そんな目で見ないでくれ。
私のハートはガラスのように繊細で純粋なんだ。
あぁ、分かった。観念して告白しよう。
確かに私は期待していた。
年甲斐もなく胸を高鳴らせてしまった。
だってそうだろう?
可愛い女の子に、夜道で、お腹空いてないですかって聞かれたら!
もちろん付いていくしかないじゃないか。
下心?......、あるに決まってるだろ。
「──深夜3時食堂?」
一も二もなく返事をして、向日葵のように明るく笑った彼女に着いていったその先にあったのは、こじんまりとした食堂だった。
煤けたエンジの暖簾に、深夜3時食堂と達筆に書かれている。
「深夜3時から、朝7時の間だけ営業してるんです。元々はおじいちゃんのお店だったんですけど、誰も継がないらしいので、私が......、と思いまして。」
新規顧客獲得です!と拳を握る彼女は強かだ。
立ち食い形式の店内には一人だけ先客がいた。
いかにも職人といった見た目の御老人が、しかめっ面でカレーうどんを啜っている。
「あのですね、メニューはこちらなんですけど、おすすめは断然親子丼ですね!」
カウンターの中に入った彼女から、ラミネートが施された一枚のメニューを受けとる。
唐揚げ定食、カレー、しょうが焼き定食。
思ったよりも品数が多く、悩んだ結果おすすめに従うことにした。
「おろしそば親子丼セットでお願いします。」
「はい!おろしそば親子丼セットひとつ!」
頼んではみたものの、深夜に親子丼か。
今更だが、あの味付けの濃さを想像して後悔し始めた。
そんな気持ちを知るよしもない彼女は、手際よく食材を切っていく。
木製のまな板に包丁が当たる音が心地いい。
トントン、トントン。
まずは玉ねぎを薄切りにしていく。
それから三つ葉を3センチ大に。
鳥もも肉はハサミで、少し大きめの一口サイズに切っていく。
カレーうどんを食べ終えた老人が、お代をカウンターの上に載せて店を出て、彼女は調理の手を止めずに、ありがとうございました!と爽やかに声を掛けた。
鍋に冷蔵庫から取り出しただし汁を注ぎガスの火を点けると、一気に良い匂いが広がった。
そこに玉ねぎ、鳥ももを入れて熱を通す。
酒、砂糖、醤油で味を整えていく。
もうかなり親子丼の匂いがする。
久々に腹が空きだして、さっきまでの憂鬱が嘘のように完成が楽しみな気持ちになった。
卵を溶いて、ぐつぐつ音を立てる鍋にゆっくり、円を描くようにしながら半分だけ注いでいく。
蓋を閉めて蒸らしている間に蕎麦を茹で、1/6サイズの大根をすりおろす。
てきぱきと無駄なく動く様は、格好つけていえば、まるで踊っているよう。
見ていて飽きることがない。
蓋を取って、残った溶き卵をすべて注ぐ。
火を止めてまた蓋を閉め、蕎麦と大根おろしをせいろに盛り付ける。
めんつゆも冷蔵庫から取り出して容器に注ぐ。
蕎麦が完全したところで、白米をどんぶりによそった。
立ち上る湯気と甘い米の匂い。
鍋の蓋を開けて、その出来映えに満足したのかにっこり花が咲くように笑った。
鍋からよそって、白米の上に優しくかけていく。
ぐぅううう。
腹の虫は思った以上に行儀が悪かったようで、耐えきれないと鳴き声を上げた。
少し赤くなる頬を隠して、仕上げに三つ葉を散らした親子丼と、おろしそばを受け取った。
「いただきます。」
手を合わせてから、ほかほかと湯気を立てる親子丼に箸を入れる。
とろーり、半熟の卵と食感を残した甘い玉ねぎ、鶏肉が絡み合って絶妙に調和している。
決して薄くないのにしつこさを感じさせない味付けは、正に神のバランス。
三つ葉がいいアクセントになって、これなら何杯でも食べられそうだ。
米も旨い。甘味と旨味が両立していて、一粒一粒がしっかりと、俺は米だ!米だぞ!と主張してくる。
食べれば食べるほど口の中に幸せが広がっていく。
おろしそばのさっぱり感が、親子丼と違ってまた口に嬉しい。
気が付くとなくなっていたそばに驚きを隠せないまま、蕎麦湯でつゆをいただく。
「うまい!」
緑色のエプロンの彼女は、ガツガツと食べる様子を見ながら、カウンターの中で誇らしげに笑っていた。
「親子丼もおろしそばも、本当に美味しかった、ごちそうさま!また来るよ。」
「ありがとうございました、お待ちしてますね!」
わざわざ店外まで見送りに来てくれた彼女に手を振り返して、幸せな気持ちで家路につく。
(よし、帰ったらとりあえず風呂入るぞ!)
新しい楽しみに、また日常が輝きを取り戻した気がした。
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