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第22話 鶴光
金崎にいる、今は鶴光と名乗っている蘭丸が絵師の弟子になって絵描きを目指し始めたことは梨姫達の耳にも入ってきた。あの魅力的な蓮の花の絵を見た梨姫には鶴光のそうした選択は妥当のものだと感じた。そしてそれと同時に鶴光には鶴光らしい生き方をして幸せになってほしいとも思った。
そんな時に梨姫達をさらに驚かせるような知らせが入った。なんと、鶴光の母、愛姫が江戸を去って国元の金崎に帰ることを決意したのであった。そして間もなく旅立つというときに愛姫は梨姫のところに別れの挨拶をしにきた。
「奥方様。今までお世話になりました。」
愛姫は深々と礼をした。
「いいえ。こちらこそ、愛姫さまには本当に迷惑ばかりかけていて…もうなんとお礼を言ったらよいか…」
2人はそうお互いにお礼をしあうとやがてしばらく沈黙が訪れた。
「…ところで」
「あのっ…」
2人の声が重なった。
「どうぞ」
梨姫が愛姫に言った。
「では私から…鶴光のことだけど…」
なんとなく予想していた話題であったので梨姫はコクっとうなづいた。
「あの子が絵師を目指しているって話は聞いたでしょう?あの子は昔から絵がとても好きで屏風に描かれた絵を一日中眺めていた子だったから、特に驚きはしなかったけれど…」
「あぁ、それは私もです。ところで、絵師に弟子入りしたと聞きましたが、一体どこの誰です?」
「…もう隠居して今は金崎に住んでいる絵師だそうです。たしか大谷とかいう一派の浮世絵師だとか…」
「そうですか…」
2人の間に再び沈黙が走る。
「金崎に戻ったらやはり鶴光殿のところに?」
「えぇ。やはり母親としてあの子のそばにいたいと思っておりますから」
そのとき肌に触れると気持ちよくて、それでいて少しひんやりと冷たい微風が吹いていた。
「…私にも昔、あの子と同じ、蘭丸という名前の弟がいました。」
愛姫が物静かな声で話し始めた。
「蘭丸以外にも兄弟がたくさんいたけど、年子の蘭丸とは特に親しくて…でもあの子も他の兄弟と同じく幼くして病で亡くなりました。」
その場がシーンと静かになる。
「だからね、私は思うんです。弟のように生きたくても生きられなかった人間もいるから命は大切にすべきだと…それは我が子の蘭丸にも思うことだし、もちろん私自身や奥方様にも思うことなのです。」
愛姫がそう語り終わると梨姫は嫁いできて生活に追われてからもうずっと忘れていた姉の雪姫を思い出した。
「…本当はここに嫁ぐべきだったのは私ではなく亡くなった姉でした。姉とは最後まで仲良くなれなかったし、姉の最期の姿は今でも思い出すと心が痛みます。今ならわかる、きっと姉だって生きたかったはずだと。だから私も命を大切にしたいし、皆さまには幸せに生きてほしい、私も一生懸命生きたいと思っています」
今なら姉が最後に自分に対して言った、あの暴言も理解できる。梨姫はそう思った。愛姫は梨姫を見てふっと美しい笑みを見せた。
「…奥方様。いつも思っていたけど、あなたは不思議なお方ですね。まるで春の心地良い日差しのように一緒にいると暖かくなる…これからも貴方さまはどうかそのままでいてほしい。それが私の最後の願いです」
愛姫が言った。それから間もなくして愛姫は江戸を去った。愛姫は最期まで息子の鶴光を見守り続け、老婆になってもその美貌は若い頃とさほど変わらなかったという。
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