第10話 蘭丸

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第10話 蘭丸

梨姫が岩城の家に嫁いできてから一月あまりがたった。一月たっても梨姫は岩城家で特に変わり映えのない生活を送っていた。そんなある夜の日のことだった。その日は鶴長が体調不良で一緒の部屋で眠ることが出来なかったので梨姫は1人で寝ていた。 「火事だ!」 確かにそんな声が聞こえて梨姫は目を覚ました。部屋の外からは慌ただしくしている女中達の足音がした。これは大変だと思った梨姫はすぐに起きあがった。  「姫様!」 いつも部屋の外で見張りをしている女中が梨姫のもとへやってきた。 「な、何が起きているのだ?」 梨姫は女中に聞いた。 「よくわかりませんが、向こうで火事が起きているとか。とにかく避難しましょう」 真っ青になってかなり焦っている女中に導かれるがままに梨姫は寝所を出た。 「どこに逃げるのだ?」 必死で駆け出しながら梨姫は女中に聞いた。 「とにかく遠くに。」 女中はそう答えた。  どれくらい逃げただろうか。梨姫は女中と一緒に廊下をなるべく遠くへ遠くへと早足で歩いていた。藩邸の奥は思っていたよりも広く梨姫にとってはどこまでも廊下が続いているように感じた。 「はぁ…はぁ…」 梨姫が疲れて息継ぎをしているとちょうど梨姫の真後ろから人の気配がした。梨姫は誰かいるのかと思い振り向くとなんとそこには、梨姫がずっと恋焦がれていた少年、蘭丸がいた。 「あ」 梨姫は思わぬ再会に声が出てしまった。 「…」 蘭丸は梨姫に気づいても特になんの反応も示さずにただ黙っていた。そして蘭丸は驚きのあまり棒立ちになっている梨姫の横をそのまま通り抜けようとした。どうやら蘭丸もまた火事の知らせを聞いて避難しているらしい。 「待ってください!」 気づけば梨姫の口からそのような言葉が出ていた。蘭丸は梨姫に突然呼び止められたのでその場で立ち止まった。 「ら、蘭丸殿といいましたね?なぜお一人で避難なさっているのです?誰かお付きの者は?」 梨姫は蘭丸に聞いた。 「…」 蘭丸は相変わらず黙ったままだった。そのとき梨姫は自由のきかない生活の中で蘭丸に近づけるのは今しかないと思い、自分から蘭丸のそばへとよっていった。 「私は鶴長様の妻、梨です。その、蘭丸殿はご病気だと聞きました。あの…その…」 梨姫はいざ蘭丸を目の前にしてみると体ばかりがソワソワしてこの場でかけるべき適当な言葉が思いつかなかった。 「姫様!蘭丸様も早く逃げましょう!」 女中は梨姫と蘭丸にそう言った。梨姫はその言葉にはっとして 「とにかく避難しましょう!」 と言って咄嗟に蘭丸の手を掴んで避難し始めた。目の前に蘭丸がいる。その事実に梨姫はもう心の中がいっぱいいっぱいで火事が起きていることもさっきまで忘れていたほどで蘭丸の手を掴んだのも無意識であった。蘭丸と一緒に逃げている時間は梨姫にとってはとても愛おしいものだった。そう、まるでそれが今まで生きてきてずっと望んでいた時間、ずっと手にしたかった時間かのように。  梨姫、蘭丸、お付きの女中はとうとう藩邸の奥から外に出られる門の前まで逃げてきた。そこにはすでに奥で仕える女中達や鶴長、鶴重、香姫といった家族達が避難していた。 「蘭丸!」 今にも泣きそうな声でそうかけよってきたのは、蘭丸の母、愛姫であった。 「よかった!よかった、無事で…」 愛姫はふらふらと倒れ込むようにして蘭丸に抱きついた。そのとき、梨姫は蘭丸の手を握っていたことに初めて気づき、慌てて手を離した。 「どこに行っていたのだ?他の者に聞いてもお前が急にいなくなったと聞くし…」 愛姫は蘭丸を抱きしめながら言った。 「…」 蘭丸は愛姫の耳元で何かをぼそぼそと呟いていたが、梨姫にはそれが聞こえなかった。 「そう。やはりまた医師に診てもらった方が良いようだ…」 愛姫はまるで自分に言い聞かせるようにして蘭丸にそう返答した。愛姫は視線を蘭丸の隣に移し、梨姫と愛姫は目が合った。 「梨姫。もしかしてそなたが蘭丸を助けてくれたのか?」 愛姫は梨姫にそう聞いてきた。どうやら梨姫と蘭丸が一緒に避難しているのを見て梨姫が蘭丸を助けたことを察したらしい。 「あ、いや、助けたといいますか、一緒に逃げてきただけで…」 梨姫は返事をした。 「まぁ。それでもそなたがいたから蘭丸は無事に避難してこられたのだ。なんと感謝したらよいか…」 愛姫は蘭丸から離れると梨姫の手を握った。愛姫は心から梨姫に感謝しているようで愛姫の目にはうっすらと一滴の涙があった。 「我が息子は体が弱くて…だから私は息子に何かあったらと思うととても心配で…梨姫、そなたがいてくれて本当によかった…」 愛姫が言った。愛姫は涙目になってもやはり美しく、その流す涙も美しい清水のようであった。梨姫はそんな愛姫の可憐な姿に見惚れているうちにあることを思いついた。 「よろしければ今度、蘭丸殿のお見舞いに伺ってもよろしいですか?」 「え?」 梨姫が突然、思いがけないことを聞いてきたので愛姫は目を丸くした。 「今日、避難している途中で蘭丸殿と偶然お会いして、蘭丸殿がお一人で具合悪そうにしているのを見て少し心配になりまして…」 梨姫は蘭丸のことを思って涙を流す愛姫を見て自分もまた蘭丸を心配している様子を見せてどうにか彼に近づこうと思っていた。 「蘭丸殿は鶴長様の義従兄弟にあたります。私にとっても大切な家族ですから私に何かできることはないかと思いまして…」 いくら蘭丸に近づくための口実とはいえ、梨姫は本当に蘭丸が心配であった。 (先ほど愛姫様が医師がどうこうと言っていたのを見るときっと蘭丸殿は本当にお体が悪いのだ…) 愛姫はそんな梨姫を見てふっと微笑んだ。 「とても嬉しい…でも、若君の妻であるそなたが蘭丸に会いに行くのは悪い噂になりかねないし…そうだ、今度私にところにきなさい。」 「え…」 「私はいつも蘭丸に会いに行っているのだ。それに私に会いに来ることに特に問題はないでしょう?」 愛姫は蘭丸を助けてくれた梨姫と親しくしたいと思っているのか、梨姫に笑顔を向けてそういった。 「わかりました。ではまた後日。」 梨姫はそう答えた。梨姫は愛姫の隣にいた蘭丸を見た。そのとき蘭丸と梨姫は目が合い、蘭丸はすぐに目をそらした。どうやら梨姫と愛姫のやりとりをずっと見ていたらしい。梨姫は目をそらされてもなお蘭丸を見つめた。どうしてこんなに彼に惹かれてしまうのか梨姫自身にも分からなかった。なぜだかわからないが、彼が持つまるですぐにでも消えてしまいそうな美しさが梨姫を惹きつけたのかもしれない。 「それにしても火はどうなったのだ…」  愛姫は先ほどから特に異変がない屋敷を見ながら言った。それは周りの人々にとっても疑問だったようで、屋敷で火事が起きているから逃げてきたのに屋敷からは火事の気配が一切しなかった。すると1人の女中が慌ててこっちへ走ってきた。 「どうやら火事は大したものではなかったようです!」 その女中は慌てて走ってきたのか息切れをしながら大きな声でそう告げた。  どうやら火は炊事場の火の消し忘れが原因だったようで火に気づいた女中はかなり慌てて助けを求め、火自体はすぐに消し止められたが、女中がかなり取り乱してぼやさわぎを伝えていたので他の者は大きな火事だと受け取ってしまいそれが全体に広まったらしい。梨姫達は結局元いた部屋に戻った。 (蘭丸殿に会えた…そしてまた会える…) 梨姫は部屋に戻りながらそう思い、胸を弾ませた。
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