第11話 初恋

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第11話 初恋

(この家に嫁いでから今までの暮らしは退屈だったけど、蘭丸殿がいればいくら若様がふがいなくても朝顔が口うるさくても規則が多くて窮屈に感じても我慢できる…!) あのぼやさわぎがあった夜以来、梨姫の心はずっと弾みっぱなしであった。  後日、さっそく梨姫は愛姫に会いに行った。 「梨姫。よくきてくれましたね」 愛姫は相変わらずの美しい笑顔でそう言った。愛姫はあの一件以来、梨姫をとても気に入っていた。そして愛姫の隣には蘭丸がいた。 「あの、蘭丸殿は休んでいなくて大丈夫なのですか?」 病弱だといわれていた蘭丸が普通に部屋に座っていたので梨姫は驚いて聞いた。 「あぁ。今日は体調が良いみたいだ。」 愛姫は蘭丸の代わりにそう答えた。 「それにこの間、そなたは蘭丸をとても心配していたから蘭丸の元気な姿を見せてそなたを安心させようと思ったのだ。」 梨姫の下心に気づかない愛姫はそう言って梨姫に微笑みかけた。 「梨姫は桜春から来たと聞いたが、桜春はどのようなところなのだ?」 「え?あ、あぁ、そうですね…とても自然が豊かで春になるときれいな桜が咲くんです。」 梨姫は愛姫に自分の故郷について語っている間もチラチラと蘭丸の方を見た。しかし、蘭丸は梨姫と愛姫が話していても一言も話さずに視線は下の方にあって梨姫のことなど眼中にないようだった。 「それと、梨の花も見事に咲くとか。梨の花、私は見たことがないけど私の名前の由来にもなっているのです」 「なるほど…たしかにそなたは梨の花のように可憐な見た目をしておる…」 「そんな…愛姫様に比べたら私など…」 見た目が美しい、いや美しすぎる人に見た目を褒められたので梨姫は妙に照れくさくなった。 「…私も子供のときは国元に住んでいたのだ。それから嫁ぎ先の豊前(ぶぜん)。そして今住んでいる江戸。私が行ったことのある土地はそれくらいだ。」 愛姫は静かにそう言った。 「私も行ったことがあるのは、国元と今住んでいる江戸ぐらいで…でも、本当はこの国の全ての土地や異国にも行ってみたいんです…」 梨姫は思った。もし自分が武家の姫君ではなくもっと自由に生活ができる身分だったら…きっと暮らしは今の何倍も楽しかったに違いないと。 「…なんだかそなたは、女子に生まれてきたのが少し惜しい気がするな」 愛姫はそんな梨姫の様子をみていった。 「え?」 「いや…そなたは好奇心が旺盛だから男として生まれていたらきっと賢くて素晴らしい殿方になっていたと思ってな…」 愛姫は言った。 「そんな…恐れ多い…」  ここには梨姫、蘭丸、愛姫の3人がいたが、さっきから話しているのは梨姫と愛姫だけであった。 (せっかく蘭丸殿に近づくためにきたのに…これじゃあ意味がない…) 梨姫は歯痒さを感じていると、ある考えを思いついた。 「そうだ、よかったら庭を散歩しませんか?」 「え?」 梨姫の突然の提案に愛姫は驚いていた。 「部屋にこもりっきりになるのは体に悪いと聞いたことがあります。少し外に出てみることで蘭丸殿の体の調子も良くなるのでは?」 これはなかなか蘭丸と話せないでいた梨姫が考えた新たな蘭丸に近づく策であったが、梨姫自身も部屋の中で過ごすことの多い岩城家の生活につまらなさを感じていた。 「なるほど…たしかにそうだな。」 心優しい愛姫もすぐに納得して3人は外に出た。 「庭を歩くのも久しぶりじゃな。」 愛姫はのびのびとした様子でそう言った。金崎藩邸の庭はどこの武家の家でもよく見られる造りをしていて、地面の砂利に所々にある池や岩、松などの様々な種類の木や植物があった。 (庭で遊ぶのもいいけど、やはり我が家の裏山みたいにもっと広々したところがあるといいのに…) そう思いながら庭を歩いていた梨姫は足元にあった小石を軽く蹴った。 (蘭丸殿と出会えたことはとてもうれしいけど、やっぱりあのときの暮らしに戻りたい…) 梨姫は久しぶりに外にでたことで故郷を思い出し、本来の目的であった蘭丸をすっかり忘れていた。すると梨姫が蹴った小石は、蘭丸の沓(くつ)にあたった。蘭丸は梨姫の方をみた。 (そ、そうだ!蘭丸殿のことを忘れてた!) 梨姫は外に出た本来の目的をようやく思い出した。 「蘭丸殿!」 梨姫は蘭丸のところに駆け寄った。 「体の調子はどうですか?」 梨姫は蘭丸にそう言って微笑んだが、蘭丸はやはり下を向いて一言も話そうとしなかった。 「部屋にこもりっきりなのはやはり体に良くありませんよ。たまには外の空気も吸わないと。私の母も体が弱かったけど、健康のために屋敷の外に出て散歩していたっていうし。」 梨姫は全く話さない蘭丸を特に気にもせずに積極的に話しかけた。 (きっととてもか弱い方なんだわ…でもこういうときこそ誰かが支えにならないと…) 徹長達が蘭丸のことを話したがらないのはきっと病弱でまともに人と会話ができない蘭丸がこの家にいることを恥だと思っているからに違いない。梨姫はそう思った。 (これが桜春の家だったら家族みんなで蘭丸殿を助けてあげるのに。) 「地面を見てください。たくさんの花が咲いているでしょう?蘭丸殿は何か好きなお花はありますか?」 「…」 「みて!月草(ツユクサのこと)が生えてる!」 梨姫は岩陰に咲いていた月草を摘んで蘭丸に見せた。 「月草って本当にきれいな青をしてますよね。群青色で色が濃いから他の花よりも輝いていて…そう、まるで闇夜に輝くお月様のような…」 そのとき梨姫は月草は蘭丸みたいだと思った。美しい見た目をしていても大きな顔はせずに他の野草に混じってひっそりと控えめに咲いている… 「そうだ!蘭丸殿の名前にも花の名前である蘭が入ってますね。蘭の花も素敵ですよね。美しさの中に上品さがあって、凛としていて…」 そう、まるで愛姫と蘭丸のようだ。2人とも蘭の花のようにどこか人を惹きつけるような凛とした美しさがあって… 「あ!」 梨姫は池の方に目を向けた。池の水面には桃色の愛らしい姿を見せている蓮の花があった。 「まぁ!蓮が咲いてる!待っていてくださいね。蘭丸殿。今、あれをとってきますから」 梨姫は蘭丸を喜ばせるために池に近づいた。そして池の周りにある石に足をかけてしゃがみこむと手を伸ばして蓮の花をとろうとした。 「あともう少し…あともう少し…」 梨姫は蓮の花まで手を伸ばしたが、蓮の花は伸ばした手よりも少し遠くにあってなかなか取れなかった。 (きれいな蓮の花を見せればきっと蘭丸殿も喜んでくださる…) ズリッ すると石の上に置いていた梨姫の足が滑ってしまった。梨姫の体はそのまま真下の池に落ちそうになる。 (まずい!) しかし、梨姫に訪れるであろう衝撃は感じなかった。それに加えて後ろから抱きしめられている感触と池と反対の方向に引っ張られる感覚を感じた。梨姫はつぶっていた目を開けて後ろをみた。 「花をむやみに取るでない。彼らは水の上でないと生きていけないのだから」 それは優しくて落ち着いた声だった。そう、その声の持ち主である蘭丸は梨姫が池に落ちないように後ろから腕を回して梨姫の体を支えていたのだった。 「姫様!」 女中達が血相を変えて寄ってきた。蘭丸はそのまますぐに梨姫から手を離した。梨姫は背中を向けて立ち去っていく蘭丸をしばらく見つめていた。 (あの方の声…初めて聞いた…) 梨姫の耳にはまだあの低くて落ち着いた声が響いていた。
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