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第12話 鶴長と蘭丸
「花をむやみに取るでない。彼らは水の上でないと生きていけないのだから」
たしかにあのとき蘭丸はそう言った。蘭丸の声を初めて聞いて以来、梨姫はますます蘭丸を忘れられなくなった。
(低くて落ち着いた声…でもなぜだか胸に響く声…)
「そこで何をしてるのだ。邪魔だ。」
その声は梨姫が恋焦がれていた音色そのものであった。驚いた梨姫は慌てて振り返った。するとそこにいたのは梨姫の夫、鶴長だった。梨姫は冷静になって辺りを見回してみるとそこは寝所で梨姫は鶴長の布団の上に座っていた。そう、梨姫はさっきから蘭丸のことばかりを考えていて自分の今の状況が見えていなかった。
「申し訳ありません」
梨姫は急いで立ち上がり自分の布団のところへ移動した。
(そういえば、この人の声…)
梨姫と鶴長は結婚して約一月がたったが、鶴長は無口で、2人はまともに話したことがまだなかった。そのため鶴長の声をちゃんと聞いたのはこれが初めてであった。そして鶴長の声は蘭丸の声ととても似かよっていた。
(そりゃあそうか。2人は親戚なのだし…)
鶴長は布団の中に入ってそのまま寝ようとしていた。
(若様と蘭丸殿ってたしか同い年だったような…そういえばお2人は少し似ているかもしれない…)
梨姫はこれまで気に留めたこともなかった夫の顔を眺めていた。鶴長は切り長の目に凛々しい眉、顔立ちは蘭丸ほど整ってはいなかったが、欠点のない顔立ちで、きっと比較対象が蘭丸でなければ端麗と言われる部類に入る容姿をしていた。
(私今までこの人のことを悪く思っていたけど、きっと愛想がないだけで悪い人ではないのよね…たぶん…)
「…若様」
梨姫は背中を向けて眠る鶴長に話しかけた。
「私達、せっかく夫婦になれたのだから一度ゆっくり話し合いませんか?」
梨姫が静かにそう言ったが、無口な鶴長はしばらく答えないでいた。
「…なぁ」
何分たっただろうか、しばらく黙っていた鶴長が口を開いた。
「な、なんですか?」
夫が初めて自分から会話をしてくれたので梨姫は少し嬉しくなった。
「お前は最近、蘭丸と愛姫様のところに行っていると聞いた。」
「え?あ、はい」
鶴長が意外な話題を振ってきたので梨姫は少し驚いた。
「あいつは…蘭丸は元気にしていたか?」
鶴長は梨姫の方に体の向きを変えてそう言った。
「え、あ、はい。実はこの間、庭で遊びましたが、元気そうにしてましたよ。私が池に落ちそうになったときは助けてくれたし…」
そのときの様子を思い浮かべた梨姫は照れながらそう話した。一方で自分の夫に恋焦がれている相手の話をすることを少し不思議に思った。
(でも若様ったら急にどうして蘭丸殿のことを?)
「…そうか。それはよかった…」
すると鶴長は今まで見たことないくらいの穏やかな笑みでそう言った。その笑みは心の底から安心しているような、しかしそれは梨姫に向けたものではなく梨姫の紡いだ言葉によって導かれた微笑みであった。
「…もしかして蘭丸殿とは親しい間柄なのですか?」
普段無口で何に対しても関心を示さない鶴長が他人のことを話題に出したので梨姫は少し気になった。
「…いや、」
梨姫の質問に鶴長の顔は険しく考え込んだ顔になった。
「ちょっと気になっただけだ…」
鶴長はそう言うとまた梨姫に背中を向けて寝始めた。梨姫はその場にぽつんと残された。ちょうどそのときツユクサの葉からしたたる水滴が一滴、蓮が浮かぶ池の水面に静かに落ちた。
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